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科学技術庁金属材料技術研究所

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[目黒の思い出](https://mdr.nims.go.jp/datasets/97c6b367-9c61-4b80-9a16-bd3a4355b4d3)

## Fulltext

目黒の思い出金属材料技術研究所題字金属材料技術研究所 元技術課長小方実金材技研全景(西方からの航空写真S55年頃)南西から見た金材技研(スタンレー屋上から.H5年)正門と14号庁舎(管理庁舎)変電所前から見た正面方面30号庁舎24号庁舎10号庁舎(守衛所・車庫)31号庁舎(材強)34号庁舎(工作)35号庁舎(製錬)36号庁舎(RI)16号庁舎(特高)20号庁舎(物品倉庫、木工)21号庁舎(非破壊・工業化)22号A庁舎(100キロプラント)22号B庁舎(製錬、工業化)23号庁舎(交換室、10キロプラント)25号庁舎(旧トリウム実験棟)26号庁舎(低温)27号庁舎(食堂)50号庁舎(クリープ)51号庁舎(疲れ)材料試験施設目黒の思い出金属材料技術研究所目黒の思い出集の刊行に当たって金属材料技術研究所長新居和嘉 社史ほど読まれない本はないと言われています。実際、私のところにもいろんな企業、 法人などから「……三十年史」や「……五十年の歩み」などが送られてきますが、ほとん ど読まずに本棚に直行です。我々の研究所も十年、二十年などの節目ごとに「○年の歩み」 という本を出し配布しておりますが、多分読まれていないだろうなと危惧しております。 しかしまれにですが、研究者が史料として使うことがあります。将来、日本の国立研究所 の変遷を書く人がいたら我々の「○年の歩み」は大いに役立つはずですし、資料として残 しておく必要はあるかと思っております。さて、今回の筑波移転を契機に二冊の本が出されます。一冊は筑波移転の経緯を研究所 として正式に記録したもので、いわば正史に当たるものです。もう一冊は本書で、「目黒の 思い出をのこそう会」の方々が苦労して編集されたものです。この本は約四十年にわたる 目黒時代の思い出を、研究、行事、サークルなどに分類して、OBや現役の方に書いても らったもので、研究所が節目ごとに出していた「○年の歩み」を研究所の正史としますと、これは野史に当たります。一般的に言って、野史の方がおもしろく読まれます。正史は国家、政府などで編集した 歴史でして、資料としての価値があり、保存しておく必要があるかもしれませんが、面白 く読むものではありません。これに対して野史の方は民間で撰述した歴史で、我々がコー ヒーでも飲みながら、面白く読むものです。この原稿を依頼されたとき、すでに集まって いる原稿のコピーを二、三いただき読んでみましたが、野史としての期待にたがわず面白 いものでした。私は昭和三十二年四月に当研究所に入所しておりますので、すでに三十八 年以上が経過しております。また正史の方は私自身編集に携わったこともありますので、 そこに書かれていることは大体知っておりますが、この本に出てくるような話は初めて聞 く話だらけです。それらを読んでおりますと、筆者の顔が浮かび、それに連れて私自身の 思い出もよみがえり、本当に懐かしい気がしてきます。このような面白い本を企画し写真を集め、編集して下さった方々のご苦労に心より感謝 いたします。また少しだけ言い訳をいわせていただきますと、OBの方々が非常に沢山お られますので全員に書いてもらう訳にはいきませんでした。折角の楽しい思い出、面白い 話をお持ちの方も多いと思いますが、それを書く機会をご提供できなかったことをお詫び 申し上げます。なんといっても、内容にバランスを欠くのは野史の常ですし、だから面白 いのだとも言えます。目 次目黒の思い出 金属材料技術研究所目黒の思い出集刊行に当って金属材料技術研究所長 新居 和嘉2金属材料技術研究所創立のころ金属材料技術研究所創立当時の思い出上野 學12金材技研の三十八年奥寺哲平15研究の思い出珪素鋼板研究の思い出田岡忠美20トリウム実験棟での研究河村和孝23超電導と私太刀川恭治25キュポラの思い出牧口利貞27高速衝撃鍛造機「ダイナパック」池田定雄30男たちの熱き思い出・連続製鋼実験(寄せ書き)連続製鋼事始め中川龍一33熱い思い出三井達郎33思い出あれこれ市村正治34思うこと上田卓弥35何十分の一かの連続製鋼実験尾崎 太35球はやっぱり理想の形状か!?佐藤 彰35熱き男達の夢ものがたり上原 功36苫小牧のこと福澤 章36連続製鋼思い出カルタ吉松史朗37流動還元実験の思い出田中 稔38溶解加工設備の設置と運転(寄せ書き)三井達郎41百キロ高周波溶解炉の設置と運転尾澤正也41二トンエルー式電弧炉の設置と運転神谷昂司42五百トン油圧鍛造プレスの設置と運転渡辺 敏43エアハンマー防震基礎の思い出木村勝美44実験用圧延機の設置と運転持田忠明44熱処理設備の設置と運転倉部兵次郎45センジミアミル信木 稔47プラネタリーミル回想雑録田頭 扶5130号庁舎・溶接実験場の思い出中村治方54日本初の電子ビーム溶接機人江宏定56クリープデータシートプロジェクトの思い出(座談会)河田和美 横井 信 池田定雄 田中千秋 門馬義雄 山崎政義59疲れデータシート作成計画と実行太田昭彦66ド・ハース‐ファン・アルフェン効果測定装置青木晴善68研究・そのものではないけれど大プロ原子力製鉄を担当して―初仕事は研究組合づくりから―小池喜三郎72原子力行政官として本庁へ出向して永田徳雄73環境庁公害防止研究に参加して牧口利貞76筑波移転第一次案の裏話郡司好喜77要覧表紙デザインの思い出細井祐三78管理部技術課の目黒時代大島一男80施設係の思い出栗原敏夫84しのび音もらす後藤建次郎86こんな行事もありました創立十周年記念講演会の舞台裏古林英一92創立十周年記念文化祭の思い出小川 弘94「中学生のための金属教室」の生い立ち武井 厚99ソフトボール大会大場敏夫101EXPO85ビデオ岸本 哲103同好会、サークルは花盛り戸部ゴルフ教室はじまりの頃戸部健次郎108研球会の思い出稲垣道夫109野球部栄光の足跡福島 孟111卓球部の思い出中野恵司113金材技研テニス部創設の頃郡司好喜116バレーボール部バレー部創設期編笠原和男119バレー部合宿編松本文明120バドミントン部佐藤俊司121金材技研乗馬部、青春の日々西島 敏123釣り同好会の思い出高橋旦征127空手部の思い出上原 功129NRIMスキー同好会太田口稔131目黒でのサッカー菊池武丕児134「ジョギング部」とその後小方 実137ヨット作りこぼれ話雀部 謙139ウォーキング同好会田村良雄143ダンス同好会の想い出��方政行146囲碁クラブ目黒の思い出栗原 豊146茶道同好会武井 厚148フラワーソサエティの半生記板垣孟彦151盆栽研究会の思い出福田 豊153華道同好会の思い出西岡英子154尺八同好会宮代 寛156バロン会魚津良雄159あれも思い出、これも思い出フランス鉄鋼研究所 (IRSID)留学記舟久保𤋮康162防衛庁丸池での水泳河村和孝164金材技研の思い出国吉昭一郎165靖心寮の思い出小川 弘166昔、目黒には池があった宮崎秀子171わが青春のおでんパーティ村田正治173屋上ソフトボール、テニスの思い出田中秀雄174昼行燈福薗栄蔵176目黒の雑草松島志延179目黒で観察した鳥千葉 実184界隈今昔内田信之186二人の恵比寿打越哲郎 中山幸技190思い出の写真鈴木俊一 宮崎昭光 佐藤守夫193年表221目黒の思い出をのこそう会の思い出田中千秋230編集後記雀部 謙233(各筆者毎の文末括弧書きは筆者の最終所属部署と 全勤続期間です。期間不記載は現職員。)金属材料技術研究所創立のころ金材技研創立当時の思い出上野 學一、金材技研創立前後の経緯第二次大戦中日本産業は徹底的に破壊され、 戦後の日本経済は疲労困ぱいの極に達してい た。生産や輸送は麻痺状態となり、国民は食料 難とインフレにあえいでいた。特に航空機産業 は破壊され、生産施設の賠償指定により完全に 存在しなくなっていた。また、戦争中大学の工 学部に設置されていた航空学科は廃止され、日 本の将来には航空機産業の発達は望めないよう な時期が昭和二十年代であった。だが、この時 期、基礎産業の傾斜生産、米国の対日占領政策 の大転換、朝鮮動乱の勃発、賠償問題の解決等 により、民間の重化学工業にて合理化計画が策 定され、外国技術の導入などが盛んに行われる 状態になった。昭和二十八年当時、通商産業省傘下の工業技 術院(国立の試験研究機関の総括官庁)の諮問 委員会である工業技術協議会で、日本の試験研 究機関のあり方が検討された。その結果、原子 力の平和利用に関する原子力研究所、日本の航 空機産業の発展を考えた航空研究所、およびこれらの産業に使用される材料の開発を実施する 材料研究所の設置が計画され、これらの研究所 の総括官庁として科学技術庁が昭和三十年に発 足した。この当時、小生は、工業技術院傘下の機械試 験所(現在の機械技術研究所)の第五部(材料 関係の試験研究を担当)河田和美部長のもとで、 主任研究員として軸受鋼の研究をしていた。多 分昭和三十一年一月ごろ、初年度予算一億円、 定員四十人の材料研究所の設置が決定したとの 情報が所内で流れた。そして、定員四十名のう ち二十名が機械試験所より出向することになっ た。そこで同じ研究室の中川龍一博士、津谷和 男博士と相談して、河田部長に出向者に加えて もらうよう申し入れたことを覚えて いる。 昭和三十一年五月に初代所長として、故橋本 宇一博士 (元都立工業奨励館長)が推薦された ことを聞かされた。その時期、河田部長より橋 本初代所長に面接するため同行するように求め られ、始めて橋本所長におめにかかった。所長 は新しい研究所の名称を材料研究所、または材 料科学研究所としたいとの意見を述べられていた。しかし、科学技術庁の反対で実現は出来な かった。それは多分無機材料研究所の設置を考 えてのことだと、後から判明した。それで名称 は「金属材料技術研究所」として、昭和三十一 年七月一日に発足した。機械試験所より出向した技官は、河田和美、 故三橋鉄太郎、故吉田進、故田中龍男、上野學、 中川龍一、津谷和男、木村勝美、故荒本喬、吉 田秀彦、細井祐三、俣野宣久、横井信、渡辺亨、 中島宏興、故田村皖司、磯野譲、大庭幸夫、村 松晃、川瀬晃、池田清一(敬称略)の諸氏であ る。発足当日、出向者は科学技術庁に集合し、 橋本所長より研究所の構想の講話を拝聴した。 新研究所は、管理部と研究四部の組織にて発 足した。管理部は企画課と庶務課で構成され、 初代部長は戸部健次郎氏、庶務課長は石井義馬 氏で、企画課長の適任者がいないので、河田和 美部長が代行し、上野学が課長補佐、細井祐三 氏が係長として、これからの研究企画を初代所 長のもとで推進することになった。研究四部の部長として、東大より故小西芳吉 教授(兼任)、東北大学・金研より故柳原正部長、 機械試験所より河田和美部長、八幡製鉄株式会 社より故遠藤勝次郎部長および科学研究官とし て東大教授故小川芳樹先生(兼任)が推薦され、 トップの陣容が定まり、新研究所が発足した。 第一に、新研究所の設置場所を何処にするか が問題である。それで戸部部長と同行して、大 蔵省管財局にて末使用国有地を調査して、研究防衛庁側から見た開所当時の金材技研部長会議の決議により中目黒の旧海軍技術研究 所跡の約三万五千坪を要求したが、予算規模で は大き過ぎるとして、現在の一万五千坪以下の 国有地が新研究所の敷地になった。この敷地は、 旧海軍技術研究所時代魚雷の研究をした場所だ とのことで、敷地のなかに大きな池があり、過 酸化水素燃料による無航跡の研究で素晴らしい 成果を上げた場所であった。新研究所としては、 敷地は狭いが、将来研究開発の成果が上がる運 の良き場所ではないかと考えられた。現在の金 属材料技術研究所の業績発展を見ると、良き場 所を選択したのではないかと思っている。 第二に重要なことは、新研究所の人材採用方 針についてである。橋本所長の考えは全国の大 学から優秀な研究者を集めることだった。その ため、所長自身全国の大学に足を運ばれたこと を記憶している。このことは、金材研の将来に とって非常に良かったと考えている。もし、二、 三の大学で研究者を集めていたならば、組織は 硬直して、現在のような研究者は集まらなかっ たものと思う。初年度には、東北大学より柳橋哲夫博士、東 京工大より依田連平博士、名古屋大学より稲垣 道夫博士、京都大学より足立正雄博士、故木村 啓造博士、および岩元兼敏博士が研究者として 新研究所の戦力に加わった。初年度は僅か四十 名の陣容だったが、全員が立派な金属材料技術 研究所を造るのだと意気軒昂としていた。 第三として重要なことは、昭和三十二年度研究予算の獲得である。小生は企画課長補佐とし て、所長、河田部長と相談して、科学技術庁に 提出する予算書の作成に全力を注いだ。この時 の細井係長および横井信氏の協力に感謝を申し 上げる。なお幸運なことに、科学技術庁調整局 に小生の大学の一年先輩の阿部和男氏が課長と して活躍していて、新研究所の発展を全面的に 支援していただいた。昭和三十一年十二月の師 走は、大蔵省への予算書の説明と内示がある重 要な時期であり、この時期の橋本所長の活躍は 見事であった。二、橋本初代所長の思い出十二月暮れには、未だ研究所の管理庁舎は暖 房設備が充分でないので、夜間は民間の宿屋に て管理部の担当者は待機していた。当時の金属 材料技術研究所の予算査定の主査は、大蔵省主 計局の故鳩山威一郎主計官であった。そして、 橋本所長が主計官に対して新研究所の第二年度 目の研究予算書の説明を行った。大蔵省より内 示があり、経費が約二億円で、定員が四十名増 であったと記憶している。所長はこの予算では 不満であるとして、宿屋で仮眠していた小生を 夜中の十一時頃起こして、大蔵省に同行するよ う命じられた。所長は、鳩山主計官に、内示の 経費では不足である事を長々と説明した。その 結果、原子力研究所に内示していたクリープ試 験機数台、約一千二百万円をカットして、金属 材料技術研究所の予算に振り替えて内示して頂いた。小生は予算について始めての経験なので、主 計官の処置で問題はないものと思っていた。し かしこれが後で問題となり、原子力研究所から 科学技術庁にクレームが入り、科学技術庁より 叱責を受けた。小生は、約一千二百万円は原子 力研究所の内示した予算ではないと思っていた と弁明してその場を切り抜けた。その予算は、 金属材料技術研究所二十年のあゆみの資料2・ 5事項別予算額推移表によると、三十二年度の (項)国立機関原子力試験研究費の一千二百万 円である。この予算が金材研に内示された結果、それ以 降も毎年この項目に予算が内示され、三十二年 度より五十一年度までに合計十二億四千百十八 万七千円に達した。研究所の人件費を除いた特 別経費累計の約九%に相当する。現在の世界一 の規模を誇るクリープ試験設備の完成も、故橋 本初代所長の初期予算獲得の手腕による功績が 非常に大きいのであると思う。後日談として私事を述べさせて頂きたい。小 生は昭和三十六年六月に金材研を退職し、富土 製鉄、新日本製鉄、長岡技術科学大学を経て、 広島工業大学の大学院の教授として勤務してい た折り、大阪大学の名誉教授国富信彦先生が広 工大の教授として勤務されていた。ある日の昼 食時、国富先生が初期原子力研究所の研究員と して勤務していたことに話しが及び、小生がク リープ試験機数台の予算を原子力研究所の内示より金材研に移した行動に参画したことを述 ベ、失礼なことをしたと話したところ、その予 算は国富先生が計画され、申請されたことを述べられ、運命の巡り合わせの不可思議さをお互 いに実感し、苦笑した。(第一部 S31・ 7 ・1～36・ 6 ・30)目黒開所当時の全景昔の守衛所金材技研の三十八年奥寺哲平昭和三十一年七月一日、金材技研の開所式にかしこ まって参列した時のことを、今でもよく憶えております。 六月の中頃、工業技術院から七月に設立される金材技研 に出向命令を受けました。金材技研が出来ることは前か ら聞いておりましたが、他人事と思っていました。 私、新しくスタートする機関に縁があり、最初は昭和 二十六年二月発足の公益事業委員会に採用されました。 そこは一年半で解散しましたが、二十七年十月、通産省 工業技術庁が院となって発足の日に出向、そして当研発 足の日に出向。新しく出来る機関は、忙しい事は無論で すが、各職域の皆さんは希望を持って立働き、その活気 に満ちた雰囲気は、何回経験してもよいものです。私も その一員となれます事を光栄と思っていました。 開所式の前日、発足準備で忙しい庶務課にご挨拶に伺 いました。既に五月に発足していた科技庁の二階大部屋 の一隅を衝立で仕切った所が、我が金材技研の城でした。 皆さんそれぞれ各省庁からの出向で、初顔合せとのこと でした。資源調査会、通産省、総理府、工技院、機械試 験所(機械研)等々。戸部さん、石原さん、石井義馬さ ん、田井さん、斉藤寅義さん、江藤さん、佐々木宗夫さ ん、樋口さん。研究部の皆さんは、場所がないので東大 や東京都立工業奨励館等に分散していて、お会い出来ま せんでした。初代所長橋本先生にご挨拶に行くときは、皆さん忙し いから一人で行って、とのことで、心細くも一人で所長 室に出掛けました。その頃の科技庁は旧兵舎の木造二階 建が数棟並び、薄暗い板張り廊下を挟み両側に小室が連 らなって部所の標示もなく、困っていると、忙しそうに 歩いて来る小柄な人に出会いました。金材技研の所長室 をお尋ねすると、「所長ですが…」慌てて、出向のご挨拶をすると、「まあ堅いことはいいから、これから仲よくやって行こ うよ」細長い所長室で、ご自分のご経歴や、これからの研究 所の抱負等を分り易くお話し頂きました。工技院からの 注意事項では、橋本先生は大変に偉い方だからその積り で、とのことで緊張しておりましたが、そのお人柄に接 しまして、先ず一安心でした。式の翌日から忙しく業務開始です。その頃橋本先生は 五十代ですから、元気潑刺、都内、近県を問わず走り回 り、大学、会社、各省庁の訪問、研究所設置場所の視察 等で、席の暖まる暇もなし。私はその間に各所に分散し ている研究部に事務連絡のため、車から離れる事があり ませんでした。そのうち、数か所の金材技研設置場所候補地の中から、 旧海軍技術研究所のエビスキャンプに決定しました。中 野の警察学校跡地、築地勝鬨橋たもとの海軍経理学校跡 地等も候補に上がっていましたが、一番便利な所にある エビスに決り、喜んだことを思い出します。 その年の十一月に移転しましたが、その頃の恵比寿界 隈は実に静かな所で、恵比寿駅からキャンプ迄は人影も24号庁舎の前身まばら、剝げ落ちた英語の看板だけが残ったバーとか土 産物屋の廃墟が数軒並び、いかにも外国軍駐屯地跡の面 影を残しておりました。敷地内には海軍高官の書による 石碑も建っていて、葉の落ちた欅並木に古びた研究棟が よく似合う、落着いた所でした。橋本先生と荒木先生は、 戦中にこの研究所において魚雷のスクリュー等の研究を していたとの話でした。移転した頃当時の敷地内に残っていた建物は、21、22、 23、31、34号等が大きい物で、あとは油倉庫と物置小屋 が数棟ある位でした。建物内部は、ペンキの落書だらけ、 床は残材が投込まれ、廃墟でした。食堂裏の丸池だけは 手入れがよく、周りの芝生はグリーンの様に刈込まれ、 水は澄み、飛び板もしっかりしておりました。シビリア ンが数名残っていたためとの話でした。 その頃は防衛技研も居なくてフェンスも無く、我物顔 であの広い構内を探検して歩きました。50号の裏あたり から森に入り、藪をかき分け小川を渡り、正門にたどり 着き、翌日は西側から一巡。藪から飛び立つ雉に驚き、 鶉を追いかけ、楽しい毎日でした。30号の所は、ボイラー から出る石炭殻を敷き詰めたグラウンドで、昼休みには、 時に橋本先生もまじえて野球で暴れていました。 そのうちに24号が建ち30号が出来て、暴れる所が少な くなって来ました。研究所も充実して、研究部員も年毎 に増えてきました。橋本先生は殆んど外出、という事は 私も研究所に居る時間はありません。数か月経つと知ら ない人が多くなっていました。ある庶務課員が、所長が 居なくて決裁がおりず困るので、私から所長に言ってよ と、冗談話に語りました。私にもかかわることなので、 ある時先生にその話をしますと、笑いながら、「君も楽になることだし、午前中は外出しないことに するよ」庶務課も喜んだが、三日で元通り。橋本先生在任中に、筑波移転の話が具体化してまいり ました。建設予定地の視察が始まり、その当時の筑波は 遠い所で、片道四時間位の見当でした。前日は車の点検 整備に半日を費やし、トラブル時の連絡法を決め、水杯 の様な気分で出発したものです。早朝にそれぞれ都内各 所を出発し、牛久沼のあたりで待ち合せて昼食。橋本先 生はレストランではなく、車がやっと通れる奥の方の老 舗に入り、私達は喜んだが、会計担当はヒヤヒヤ。 現地に到着後、先ず建設省事務所に寄り、職員をナビ ゲータ—に、先ず高層気像台の観側塔に登り学園都市予 定地を展望、松林と作物の無い畑ばかりでした。東京し か知らない私には、地球の丸さを感じる程に見えました。 土浦野田線が工事中の土煙りで前が見えず、やっと谷田 部の町を通過、森を抜け、畑道を辿り、竹藪の細道をガ サガサ、車の両側はキヅだらけになりました。地図を見 ると、丸で囲った斜線が方々にあります。聞くと、雨の 後は池になる所とか。森の中の湿った所で前輪がめり込 む事もありました。学園都市反対の筵旗なんかも見まし た。最初の当研予定地は無機材研の隣りあたりと思います が、背丈程のすすきの原で、水の無い用水路が通ってい ました。その用水路が今の当研敷地内に残っているそう ですが、どの辺なのか見当もつきません。東大通りは工 事中で、南大通りもブルが忙しく唸りを上げ、松林や山 を崩していました。年月が経ち行く度に建物が増え、人も多くなり、見渡すかぎりすすきの波という所は少くなってまいりまし た。空は広く、楓の並木が四季を彩り、今や金材技研も 立派な研究棟も完成した今日、私が今少し年令が若かっ たら、公私共に筑波で暮してみたいと思います。 中目黒で産声を上げ、筑波移転完了までの三十八年間、お手伝い出来ました事を誇りとしてこの先を過して行き たいと思います。皆様のご発展をお祈り致しております。(会計課S31・7・1～H6・7・31)研究の思い出a4 O H9a => ~l— 19 —珪素鋼板研究の思い出田岡忠美はじめに机の上に、千六百字詰原稿用紙六センチ厚さの報告書 と十数編の論文がある。昭和三十三年から六年余の金材 技研―八幡製鉄共同研究の全容である。研究員延べ十五 名、一億円の研究成果で、ウンザリする量であるが思い 出は尽きない。この特長と幾つかの断面の思い出をひ ろってみることにする。一、動機入所翌年の昭和三十三年、茅先生から、方向性珪素鋼 板について、八幡製鉄との共同研究の申し出があった。 当時、物理冶金研究室の主テーマとして、BCC金属、 特に鉄系の塑性が決まっていた。また、先に、理工研で 商用珪素鋼板の研究に手を焼き、茅教授に単結晶の圧延 ―再結晶組織の研究を提案した事があった。心を動かさ れながらも、重要テーマの責任の大きさに躊躇も覚えた。 これを踏みきらせてくれたのは、橋本所長と河田部長 であった。国立研究機関として、大八幡の私企業と機密 を要する共同研究を取り上げるには問題が多かったであ ろうが、新しき研究所の試案として許可してくれた勇断 には感謝の外ない。二、研究の大要当時、方向性珪素鋼板には、一方向性のGoss鋼板の外 に、二方向性Cube鋼板が米国から発表され、日本の鉄鋼 各社はそれぞれ開発態勢を整えつつあった。 我々の目標は、Goss、Cube鋼板の外に、特殊方位鋼板 の特性も視野にいれ、少々気負ったものであった。また、 国立研究所と私企業の研究の二重性格から、基礎研究と 応用研究に分けた。前者には、主に金材技研の研究員が あたり、単結晶から、後者には八幡の研究員があたり、 柱状晶インゴットからの圧延組織―再結晶組織形成を追 うことにした。柱状晶インゴット(五～十キログラム)からの研究は 意欲的で膨大な資料を残したが、私企業の研究の性格か ら今も未発表、ここでも割愛せざるをえない。三、基礎研究(一) すべり系と臨界せん断応力 圧延機構の基礎はすべり系にあると考えた。 三%珪素鉄単結晶の〈111〉晶帯に属する{110 }、 {112  }面に亘るせん断応力が最大になる方位を選び、 引張り試験の結果、{110  }、{112  }面がすべり面と して確認できた外、{112}面のせん断応力は、双晶形 成の向きと逆の向きでは五%違うことがわかった。当時 のすべり系の諸説に明解を与え、高く評価された。BC C金属の塑性の最重要な特性で、圧延集合組織形成を考 える上で不可欠であった。竹内の考えによるもので一九 六四年、JPSに発表された。(二)単結晶の圧延・再結晶組織系統的に全方位の単結晶の圧延の結果、最終の安定方 位は、{1  0 0 }〈 0 11〉、{111}〈2  11〉、{  2  11}  〈011〉の三方位のいずれかであった。冶金学者を驚 かせたのは圧延後の外形で、巾が伸びたり縮んだり、時 に多角形であった。これらは、すべりの系から充分に説 明できた。それぞれの再結晶組織も特有な方位であり、Goss方位 は{111}〈211〉圧延組織から生まれた。その機構 については、古林により、超高圧電子顕微鏡を含むあら ゆる技法で調べられ、圧延・再結晶の方位関係が明らか になった。最初の論文は非常に遅れ、圧延組織と再結晶組織に分 かれ、一九六六年、一九六七年にTrans.  ISIJに発表され た。それぞれ二十七頁および二十九頁の長い論文で、当 時の学会誌では一括掲載されず、六、七編に分けなけれ ばならず、それではこの論文の価値が失われる恐れが あった。Trans.  ISIJが投稿論文になった初期、編集委員 の好意により掲載された。鉄鋼協会の俵論文賞を受賞し た。当時から今まで、単結晶のある方位系での圧延・再結 晶の論文は数え切れないが、本質的にどこに違いがある のか不勉強で分からない。当時、米国の大学の講師、氏家信久氏から、論文別刷 二十部送付の要請があった。「大学院の再結晶のテキスト として最適」と。四、装置の開発この広範な研究を能率よく進めるには、万能商用装置 でなく専用の単能装置の開発が必要と考え、次々に我々のアイディアの装置の開発を専門メーカーに依頼した。 まず、全方位の大きい単結晶板の製作である。 (a)単結晶の製作装置、温度傾斜炉 種結晶からの目的の方位の単結晶の製作法には藤原等 が成功していた。しかし、後の圧延条件を整えるに必要 な、巾三センチ、長さ三十センチの単結晶の製作には、 目的方位の種結晶の揃え方、温度傾斜炉の特性と素材の 前処理が一体となって微妙に影響した。これをみごとに 解決したのは武内で、斎藤に引き継がれた。一日一試料 の割合で目的方位の単結晶が製作された。素材は八幡の 熱延板で、2.89%Si-Feの二・三ミリ厚と、2.80%Si—Fe の、一・六ミリ厚のそれぞれ二トンのフープであった。 これを三センチ×三十センチの試料片に刻み単結晶板に したのは我ながら驚いた。金材研の単結晶は世界に知ら れ、見知らぬ英国の大学院生から「実験途中に珪素鉄単 結晶を使い果たした。至急、かくかくの方位の単結晶贈 与されたし」の手紙がきた。早速急送したのが思い出さ れる。私が退職してからも、こうした引合いが絶えなかっ たという。(b)傾角顕微鏡マイクロ X線法に代り、微小領域の結晶方位を腐食孔 のファセットの法線方位から決定するもので、数ミクロ ンの結晶方位を短時間で良い精度で決められた。いわゆ る光像法を手掛けていたユニオン光学で開発され、研究 に大変役立った。一九六五年、JJAPなどに論文が載っ たが一九六八年、ドイツのPrak.  Metalの依頼論文とも なり、国内外で認められ、応用範囲も拡大された。それ に小笠、早川が寄与した。また、金材技研特許実施第一 号の名誉を得た。(c)高温顕微鏡再結晶粒の成長のその場観察を目指し、従来の顕微鏡 の付属としてでなく、大きい試料の温度、雰囲気等の制 御範囲の広い高温炉に顕微鏡を付属する形のものであ る。当初の目的は、表面のエッチングの遅れで充分果た せなかった。しかし、高温で金属材料の種々の変化を直 接見たいという素朴な要求は金属・材料学会で多く、開 発以来長くユ ニオンのブランドHB ― 4として販売され た。主に大河内により試験され、一九六三年にJJAP に発表された。(d)半自動差動熱量計圧延した珪素鋼板の内部エネルギーの加熱時の放出か ら、再結晶機構を明らかにするものである。二段階の熱 放出がみごとに観察された。同時に測定された電気抵抗、 硬度、降伏応力等の変化から、一段目は短範囲規則度の 形成、二段目は回復・再結晶による転位の消滅によるも のと結論した。学会でも高く評価され、専門書によく引 用された。真空槽内のガス吸着が結果を左右するので、測定に 当った鈴木は真空技術を厳しく訓練された。論文の英文 も厳しく直され、少し不満だったらしい。しかし、当時、 アクセプトが難しかったActa. Metall. (1965)に一発で 通ったのに驚き、鈴木は私に最敬礼、研究態度も一変し た。五、八幡製鉄での報告と評価本社での毎年の研究成果の報告には、茅先生、橋本所 長に八幡の担当役員、湯川副社長、島村、武田専務の超 豪華メンバーが出席、田岡、今村が報告した。技術的報告のほかに、等方性鋼材を目指したMetallurgyでなく、 方向性鋼材を目指す Crystal  ＋ Metallurgy ＝ Crystallur-  gyの考えを強調した。この新語は社内に行き渡り、その 後のプレス成形冷延鋼材、薄鋼板の組織研究の起爆剤と なったというのが、今村の思い出である。 詳しい技術報告は八幡技研の田口、長島グループに古 林、竹内、今村が当たり討論された。その評価は？ 八 幡の誇る高透磁率方向性珪素鋼板の開発リーダー、田口 悟氏は「金材技研の基礎研究が直接役立ったとは思わな いが、開発の方向のチェックになった」と。 六、研究の進め方と研究者の相互訓練 多人数の多岐に亘る研究をどう進めるかは重要なテー マであった。毎週金曜日の研究連絡会で各担当は各テーマの実験結 果を報告し、全員が厳しい討論をして次週の方向付けを した。各担当テーマに専心すると共に、研究全体の理解 とその中での位置付けを考える巾の広い研究者となるこ とを願った。この進め方は、学部新卒が主力のグループ では受け入れやすかった。各テーマの区切りごとに報告 書を出し、田岡が修正し、系統的に全体の報告に組み入 れた。美しく読みやすい字で克明に清書したのは永瀬さ ん。これが後の論文作成に役立った。ほかに、新しい思考訓練もかねて、転位論の基礎の輪 講も毎週続けられた。また毎週土曜日は物理冶金研究室、後に金属物理研究 部の雑誌会と言う研究連絡、新論文の紹介に加わり、発 表も義務付けられた。この雑誌会には優れた特別研究生、 住金の寺崎富久長氏、NKKの越賀房夫氏、富士鉄の岩山健三氏等が参加し、討論の巾を広げ質を高めてくれた。 ここで、優れた脆性破壊の研究者、夭折した本多龍吉君 の役割は大きかった。終りに恩師茅誠司先生は「凡そ、師と言われる者の役目は、 自分を越す者を育てること」と。共同研究や雑誌会に参加したメンバーのその後の研究成果、学会、教育界、産業界での活躍は良く知られ、枚 挙に暇がない。私が育てた覚えはないが、相互訓練で育 てられたことには間違いない。この稿を閉じるに当たり、私を越していった諸君を誇 りに思うと共に、この環境を与えてくれた金材技研と八 幡製鉄の関係者に深く感謝する。(金属物理研究部S32・10・1～41・4・1)トリウム実験棟での研究河村和孝大学院の指導教官の小川芳樹先生が科学研究官を併任 されておられた関係で、博士論文の一部―溶融塩電解に よる金属トリウムの製造―が金材研の「金属トリウムに 関する研究」として取り上げられることになった。 金属トリウムを製造するといっても鉱石の選鉱―粗精 錬―精精錬―還元と多くの工程が必要になるが、博士論 文で研究したところは、最後の還元、即ちトリウムフッ 化物の溶融塩電解の部分のみであった。研究の目玉はト リウムの一貫製錬ということで、韓国産のトリウム鉱石 (モナズ石、トリウム含有率五%)を出発原料と決め、 大方針を打ち出して見たものの、小生にとっては未経験 の分野が殆どであった。そこで通産省の機械試験所(現 在の機械技術研究所)から来られた磯野穣さん、東北大学選研(現在の素材工学研究所)から見えた柳橋哲夫先 生と金研から来られた黒沢利夫さんにご協力をお願いし た。割り当てられた実験場所は25号庁舎(当時のトリウム 実験棟)で、進駐軍がここを食堂として使っていたらし い。その証拠に小生が初めて入ったときには、黒板に最 後の食事のメニューが書き込まれていたままになってい た。早速磯野さんと相談しながら放射性物質が取り扱える 施設に改良するとともに、選鉱から還元までを行うには どのような実験室の間仕切りをしたらよいかを考え設計 をしていった。その結果、特に実験室は口字型とし、口 の右側を入口、残りの三側面を大きなガラスで囲み、見 学者への便宜を計ったらどうかということで落ち着い た。即ち見学者はガラス越しに装置を見ることができ、 その上ガラスにより見学者は放射性物質からも隔離さ れ、安全に見て頂けるようにとの配慮であった。 この時点で特に印象に残っているのは、工事前では放 射性物質関連の経験が殆どなかった建設省の関東建設局との打ち合せ、工事後では検査官の検査(例えば放射性 の塵がたまり易いドアの上縁の汚染防止用塗料の塗り具 合等を調べるのに鏡を器用につかっていたこと)等で あった。他方、装置を入れる段になって困ったことは、大きな ガラスに高周波電力供給用ケーブルを通すための丸穴を 開ける作業であった。われわれは、当時丁度国鉄の切符 を購入する時目にするガラスの窓口を想像していたの で、ガラスの穴開けはそれ程大変だとは思ってもみな かった。ところが横三メートル、縦一 メートルもあるガ ラスに径三十センチ程度の穴を開けるには、それを請け 負う業者を先ず見つけることが大変であった。やっと見 つけた業者が慎重に作業をして見事に穴を開けてくれた 時には、思わず胸をなでおろした。予算については、当時原子力平和利用の枠から頂いて いたが、初年度を除き事務の方と一緒に多くの資料を紫 色の風呂敷に入れ、かかえて本庁まで出向き、当時の井 上核燃料課長はじめ多くの事務官に説明して回った。い ろいろ質問を受けたが、この時のやり取りがその後の予 算請求に非常に役立ったことは有難く、現在でも感謝し ている。原子力平和利用の予算の内、核燃料関係につい ていうと、ウラン関係は通産省の電気試験所(現在の電子技術総合研究所)、トリウム関係は金材研という線引き があったようである。放射性物質を扱う関係で管理区域が設けられ、実験室 と居室が明確に区分され、汚染除去室(風呂、シャワー 室)と便所は実験室と居室の間に設けられていた。食堂 を改装しただけあって天井は高かった(実験室は送排気 ダクトが上にあった関係で吊り天井になり、多少低く なっていた)。高い天井の実験室はなにか圧迫感も少なく のんびり研究ができ、よい考えも浮かんできたような気 がして、トリウム実験棟は殊更懐かしく思い出される。 トリウム実験棟で楽しく研究に専念できたのは、磯野 さんをはじめとし、非常にすぐれた新進気鋭の武内、柴 崎、平山、中村、岡田等多くの研究員に恵まれたからで あって、今でもこれらの方々に深く感謝している。ただ 放射性物質を扱っている関係で、定期健康診断が義務づ けられ、例えば血液中の白血球が減少すると実験中止を 言い渡された。研究への情熱はあっても、実験できない もどかしさをこのトリウム実験棟で味わうことになった が、熱意だけでは研究が進められない原子力研究の限界 を実感させられた。(金属化学研究部S33・4・1～47・7・31)超電導と私太刀川恭治一、超電導事始め―ゼロからのスタート(一九六二年度) 私は、東京大学時代に、はじめ磁石材料の研究をし、 ついで、将来のロケットのプラズマ推進にそなえて、超 高温プラズマの発生や計測の研究をいたしました。そし て、一九六一年、米国、MITで強磁場の会議があり、 将来の核融合装置に超電導マグネットが必要であるとい う発表がいくつかありました。そこで、材料、物理、電 気等の境界領域にあり、しかも新しい応用につながる夢 のある超電導に興味をもち、一九六二年、中目黒に移り まして研究に着手しました。その当時は、わが国では材料としての超電導の研究は まだ全く行われていませんでした。また、私自身も仕事 が常温の磁石から超高温へ、そして極低温へと変って、 超電導には全く素人でしたので、半年ほど東大・物性研 の低温物理の研究室にお世話になって、低温実験の手ほ どきをうけました。一方、金材技研では、当時注目され ていたNb—Zr合金の溶解や加工の研究に、はじめから私 の助手をされた吉田勇二氏と、他の研究をされていた岡 井敏氏(のち物性研→無機材研)に手伝っていただいて 着手しました。一九六三年春の金属学会でNb—Zr合金の 研究について発表したのが、わが国での超電導材料の研 究発表の第一号となりました。二、研究の基盤固め(一九六三― 一九七〇年度) 初代所長橋本宇一先生の御尽力で、超電導材料に関す る特別研究が一九六三年からスタートし、初歩的な測定 装置や試料作製装置を整備しました。その他、ヘリウム の液化装置、アーク溶解炉、電子ビーム溶解炉、EPM A等の必要な設備は別に研究所の共通設備として設置さ れており、有効に利用させていただきました。しかし、 当時まだ、超電導マグネットはわが国にはなく、二十六 号庁舎の三テスラの電磁石にガラスデュワーをかつぎ上 げて臨界電流を測定しました。一九七〇年頃から、写真 にあるような手づくりの七テスラ超電導マグネットで測 定するようになりました。最初の七―八年間で研究が軌道に乗りましたが、研究 スタッフとしては、田中吉秋氏、福田佐登志氏(のち科 技庁→電中研)、井上廉氏及び吉田勇二氏の四名に固定さ れておりました。この間に行った主な研究は、前述のNb —Zr長尺線の加工、Nbチューブ法によるNb3Sn線の作 製、拡散法によるV3Gaテープの作製とCuの触媒的効果手製の超電導マグネットを 運転しての実験風景の発見、パルス磁場による強磁場特性の測定、超高圧 TEMによるV3Ga結晶組織の観察等があり、終り頃に、 化合物超電導線材作製のいわゆるブロンズ法の発明もあ りました。そして、一九六六年、わが国で開催された第 一回の国際低温工学会議(京都)で金材技研の発表が注 目され、国際的にもデビューすることが出来ました。 この間とくに印象に残ったのは、信木稔氏に手伝って いただいたNb—Zr長尺線の加工で苦労したこと、またV3 Gaに対するCuの効果については自分でも驚いたほどで した。研究室のチームワークもよく、また、当時の吉田 進電磁部長の御指導の下で楽しく研究を進めることが出 来、今でも印象深い時期となっています。毎年一回の部 の懇親旅行も楽しみにしていたものです。 三、発展期(一九七一―一九七八年) この期間は、前記の四氏に加えて、戸叶正氏、伊藤喜 久男氏、川村春樹氏(のち姫路工大)、和田仁氏、関根久 氏、黒田恒生氏、熊倉明氏、浅野稔久氏が加わり、私も 電磁部長にさせていただいて、研究室も二つに増え、研 究が発展した時期です。この間の主な研究内容としては、ブロンズ法によるV3 Ga, V3sSi,  Nb3Sn等の化合物極細多芯線の開発とその線 材を用いた世界最初の十テスラ超電導マグネットの作 製、V3Ga拡散テープを使って筑波に設置した十七・五テ スラ超電導マグネットの作製、新しいラーベス型超電導 化合物の発見とその線材化の他、融体急冷法による非晶 質超電導体の研究、CVD法による高臨界温度Nb3Ge テープの作製、超高圧による新超電導物質の合成等、研 究範囲が広がりました。おかげ様で、金材技研は超電導材料の研究分野で国際的にもリードするレベルに達する ことが出来ました。とくに印象深い思い出としては、ブロンズ法の成功と 普及、当時の世界レベルを抜いた十七・五テスラマグネッ トの完成、井上氏による独創的なラーベス型化合物の発 見等があります。しかし、やはり一番強い思い出は筑波分室の設置で しょう。幸い、超電導棟の完成、マグネットの設置及び 人員の移転をうまくタイミングを合わせることが出来ま した。一九七六年一月、まだ極めて不便な筑波に先発勤 務した田中氏、浅野氏の辛抱強さには頭の下がる思いで した。同年には引続いて伊藤氏と吉田氏も筑波分室に移 りました。つづいて一九七九年の筑波一部移転にむけて、強力材 料、原子炉材料及び電磁気材料の三研究部の準備が始ま りました。しかし、超電導グループは、それまでも十七・ 五 テスラ マグネ ットの実験で時々筑波に行って おりまし たので、精神的には比較的抵抗なく移転計画を進めるこ とが出来ました。七九年の筑波移転時には、超電導グルー プに竹内孝夫氏と飯嶋安男氏が加わりました。四、おわりにこのあと超電導と私とのかかわりとしては、筑波支所 時代(一九七九―一九八六年度)と東海大学時代(一九 八七年度―現在)があり、筑波時代にも研究上の思い出 が数多くあります。しかし、私としては中目黒時代の研 究が一番なつかしく思い出されます。ふりかえりますと、歴代の所長をはじめ、管理部、研 究部の皆様に一方ならぬ御支援をいただいたことがひしひしと感じられ、感謝の気持は筆では書きつくせません。 中目黒時代には、研究を進める上に当時の工業化研究部、 物理分析室さらに非破壊検査(材強)や溶接研究部にも お世話になりました。金材技研のような総合的な研究所 であったからこそ、超電導材料の研究が育ったことを強 く感じます。また、本文に氏名をあげさせていただいた私と研究を 共にして下さった方々にも感謝の気持で一杯です。私と しては常に新しい試みを行うことを心掛けましたが、そ のためには無駄になった研究も多くありました。野球で いえば三割打てればよいという気持でしたが、その結果、 研究を共にして下さった方々にご迷惑をおかけしたと思 います。新しいアイデアについては、外国出張の帰りの 飛行機の中でよく頭をひねったものです。さて、超電導のような長期的プロジェクトは、五年単 位にみますと明瞭な進歩がみられます。その応用も、当 初は核融合や物性測定への応用が考えられただけでした が、その後MRI医療装置、磁気浮上列車、発電機、高 エネルギー加速器等、当初考えられなかった分野に拡が りました。そして最近は、従来の金属系超電導材料と新 しい高温超電導材料との研究が平行しておこなわれてい ます。しかし、現在では両者の研究開発を統合し、互に 補完しあって進める時代になったように思います。 今後も二十一世紀に向けて、超電導材料の研究が金材 技研で継続して活発に進められることを願っておりま す。私も新しいアイデアが出る限り、研究が続けられれ ば幸せと思っています。(筑波支所長S37・5 ・1～62・3・31)キュポラの思い出牧口利貞一、キュポラ操業の考え方とその実用化映画「キュポラのある町」で衆知のように、キュポラ はシャフト炉の一種で、銑鉄、鋼屑、合金鉄を原料とし、 コークスを熱源として再溶解、加炭反応、脱硫反応を中 心に操業が行われ、現在に至っている。しかし、キュポ ラはシャフト炉であるから、高炉と同じように還元反応 を伴う操業もできる筈であると考えていた。ただ、キュポラは高炉に比較して炉高が低いので、高炉ほどの還元 を期待することができない。そこで、炉高の低いことに よる還元不十分の現象をロータリーキルンにより補い、 本還元、成分調整などをキュポラで行えば、新しい操業 技術が開発でき、キュポラの新分野が開けるものと考え ていた。この時期(昭和三十五年)に当時の橋本所長がベルギー より二トンMBCキュポラの図面と操業ノウハウを購入 して下され、建設することができた。このキュポラは従 来の日本のものと異り、ノー ・ライニグ、熱風キュポラ で、数日間の連続操業ができる。この炉の特性を知るた め鋼屑百%の試験操業を繰り返えしたところ、希望通り の成果を挙げることができた。そこで、早速、キュポラの高炉化操業を計画したが、予算的にも人員的にも不可 能であった。当時、鋳鉄管を製造していた久保田鉄工(株)(現(株)クボ タ)が、高炉を導入するかキュポラを建設するかを技術 的、経済的な面から検討していた。つまり、鋼屑が価格 的に高く、従来のキュポラ操業法では経済的メリットが ない。一方、高炉を鋳物工場に導入すると生産量が多過 ぎて、鋳鉄管の製造のみでは溶湯を処理しきれないとい う問題をかかえ、何れを採用するか検討を重ねていた。 この時に筆者等の計画を知り、共同研究の申し出があった。我々としても「渡りに船」とばかりに共同研究 を進めることにした。つまり、ロータリー ・キルンで半 還元した鉄鉱石と作業者の一部を久保田鉄工(株)で提供 し、キュポラとその操業ノウハウ及び人員の一部は金材 技研で提供するという形で研究を計画した。半還元鉱は インドのゴア産鉄鉱石を日本で半還元し、還元度四十 七・五%のものを使用し、人員は金材技研十六人(工業 化研究部と鋳造研究室)、久保田鉄工(株)十六人の計三十二 人の混成旅団で行った。研究の際の原料配合は、鋳物工場の発生鋳鉄(湯口、 押し湯、揚りのような鋳造品にならないもの)が二十% 程度あることを考慮し、半還元鉱八十%鋳鉄戻り二十% とし、これに計算で求めた量のコークス、石灰石などを 使用し、五一 〇℃の熱風で種々の操業を行った。 その結果、出湯組成は三・五%C、〇・二%Siで、炉 前でSi添加を行えば、鋳物に十分使用できる溶湯が得ら れた。ただ、Sが〇・一六%であるため、必要に応じて 炉前脱硫処理を行った。このようにキュポラの高炉化が 可能であり、溶湯のバージニティーも良好であった。 この研究結果を踏まえて、久保田鉄工(株)では船橋工場 にロータリー・キルン及び十五トンキュポラを建設し、 生産を行った。その後、鋼屑の価格が安くなったので、 半還元鉱を使用するよりも鋼屑を原料とする方が経済的 メリットがあるようになり、現在では鋼屑を用いる操業 が実施されている。鋼屑の価格が高くなると、また筆者 等の操業方式が採用されるのではないかと考えている。 この研究で、技術以外の二つの勉強をさせられた。一 つは技術者の信念の問題である。前述のように、このキュ ポラの図面はベルギーから購入したもので、その建設に2トンMBCキュポラ当ってはモーシャンという技術者が来て指導した。彼は 日本人と違って技術的妥協をしなかった。日本人であれ ば或る程度妥協する施工なども、それでは技術的に責任 を持つことができないと頑固なまでに自説を主張し、再 施工をさせられたことがしばしばあった。これが研究の 成功に非常に役立ったと考えている。第二は人の和である。前述のような人的に金材技研と 久保田鉄工(株)の混成旅団であり、誰か一人でも異端者が いれば、順調な操業やデータ収集を行うことができない。 所期の成果を挙げることができたのは、関係者が互いに 協調したためである。プロジェクト研究には「人の和」 がいかに大切であるかを痛感した。 二、キュポラ操業のコンピュータ・コントロール 従来のキュポラ操業は溶湯の化学分析、チル試験など を行って操業の妥当性の可否を判定していた。これらは 操業が或る程度進行した後、または操業が終了した後に 結果が解るので、操業中の炉況制御にはすぐに役立たず、 次の操業に対し利用されることが多い。従って或る意味 では「勘」による操業が行われていた。これでは溶湯の 品質保証を得ることができず、鋳造品の信頼性を高める ことが困難である。そこで、この問題を解決するために はキュポラ操業のコンピュータ・コントロールが必要で ある。この最初の手段として、品質に直接影響する溶湯の五 成分(C、Si、Mn、 P、S)を特性値、炉況を察知する 因子(炉頂ガスの化学組成とその温度、風圧、出湯温度) を情報因子、炉況を制御できる因子(追加コークス量、 送風量、熱風温度、スラグの塩基度)を制御因子として、二分毎の時系列データを採取し、プロセス解析を行っ た。すなわち、これら三因子を用いて相互間の相関分析、 重回帰分析を行ない、相互の関係を求めた。その結果、 特性値に対し、情報因子、制御因子は直接的関係が認め られなかった。これは炉況が変化してから特性値が変動 するまでに時間的ずれがあるためと、冶金学的常識から 考えられた。そこで、時差の考え方を導入し、時差相関分析、時差 重回帰分析を行った。その結果、特性値に対し、情報因 子のうち出湯温度が時差一四分で一%有意であり、制御 因子のうち熱風温度が時差二十四分で一%有意であるこ とが解った。そこで、出湯温度に変化が認められるか、 あるいは変化が予測される場合には、熱風温度を制御す るソフトを開発し、キュポラ操業のコンピュータ・コン トロールのノウハウを確立した。この手法は半還元鉱を使用しない従来のキュポラ操業 にも適用できるものと考え、一トンキュポラ及び五トン キュポラの従来操業について実験を試みた。その結果、 特性値と情報因子、特性値と制御因子の時差は、炉の性 質、操業条件などにより変化するが、上記の手法がその まま適用できることが明らかとなった。 その後、このキュポラ操業のコンピュータ・コントロー ルの技術が着目され、平成二年から三年計画で、中小企 業事業団の技術開発事業の対象として取り上げられた。 すなわち、「鋳造工場溶解工程のコンピュータ制御技術」 の実証化研究が実施され、筆者は検討会委員長としてそ の推進にたずさわった。この研究では制御因子として反応性の速い酸素富化法が採用されたが、コンピュータ・コントロールの基本的 なものは、金材技術で開発した技術と異るところはない。 現在、鋳造業界へこの技術を普及することが推進されて いる。この研究を遂行している際に、一つの見解の相異が生 じた。プロセス解析を担当しているコンピュータ屋は、 その解析結果が固有の冶金学的技術では説明できなくて も解析結果は正しく、これにより制御システムを決定す べきであると考えた。一方、筆者のような固有技術を重 視する者は、解析結果を再検討し、解析結果と固有技術が整合した段階で制御システムを決めるべきであるとし た。コンピュータは計算機であるから、その解析手法や データ処理の如何によっては思わぬ落し穴に陥ることが ある。これを固有技術でチェックすべきであると考えて いた。この考え方の相異は鋳造業界にもあった。数年にわた る話し合いの結果、固有技術を無視せず、解析のソフト を検討し、両者が整合した場合に初めて制御システムが 確立されたと考えるべきであるという結論に達した。 (筑波支所長S34・9・1～56・12・31)高速衝撃鍛造機「ダイナパック」池田定雄ダイナパックが二十三号庁舎小型溶解加工実験室に設 置されたのは昭和三十六年五月。だが、設置されるまで には紆余曲折がありました。まず重量制限で『田楽橋』を通ることができず、管理 部の皆様が関係方面と折衝し、最後は防衛庁技研の正門 から搬入することができ、多くの方々に大変お世話にな りました。設置場所の基礎工事、これがまた難工事。旧海軍技術 研究所の電動機関係の実験室跡とかで、コンクリートの 厚さは想像を絶するものでした。ようやくコンクリート の壁を破ると次は地下水の噴出。担当業者と顔を合わせると、「こんな筈ではなかった」とのボヤキを毎日聞かさ れました。悪戦苦闘の末、基礎工事も無事終了。本体の 搬入も終わり、最後の据付け。建屋の高さでまた一苦労、 さすが重量物専門業者、無事据付けを完了しました。 ところで、ダイナパックとは表題のとおり高速衝撃加 工機で、アメリカ・ジェネラル・ダイナミック社製の商 品名です。十年のあゆみには、おもな設備一覧として次 のように紹介してあります。「圧縮された窒素ガスの膨張圧力で加速されたラム ウェイトをボルスター上の素材に衝突させ、この時に放 出される運動エネルギーを利用して成形を行なう。瞬間 的に大きなエネルギーを放出させ、エネルギーを正確に 制御でき、超硬金属の加工も比較的容易にできる」 ダイナパックが輸入された当時、世界各国で高エネル ギー高速度を利用して金属材料を加工する技術が注目を 浴び、それに応じて、衝撃鍛造成形法、放電成形法、爆 発成形法等新しい加工方法も開発されつつあり、急速に大きな衝撃エネルギーを加えて加工する際の金属材料の 挙動や材質の変化などについての基礎的研究が盛んに なってきた時代でした。金材技研でも、「金属材料の高速加工に関する研究」が 総合研究の一環として昭和三十七年に発足しました。ダ イナパックを擁するグループは、河田鉄鋼材料研究部長 指導のもと、「鉄鋼材料の高速加工に関する研究」と、高 速加工技術の実用化と普及を図る場として国内輸入第一 号機ダイナパック1220B型の実用性と理論の検証を すべく、日本塑性加工学会の依頼に基づく産・学・官三 者による共同研究「高速加工技術(鍛造・押出)研究委 員会」が発足し、基礎研究と実用化研究が平行して実施 されました。研究委員会の委員長は河田鉄鋼部長。金材技研以外の委員は、国研からは一名、大学からは八名、産業界から は二十二社・二十二名の豪華なメンバーです。また、委 員長の補佐役として森本元化学部長が金材技研側の委員 でした。この研究委員会の所内の支援メンバーには鈴木 元支所長、武内元部長、隈部さん(現千葉大学教授)が 参加し、多方面にわたるご尽力のお陰で諸々の難関を切 り抜けたことが思い出されます。プロジェクトの最終段 階では、隈部さんの後任として入所してきた田頭さんに 実作業の面でも助けていただきました。また、日本塑性 加工学会の皆様にも大変お世話になりました。装置の操 作、管理は、バレー部の花形でスポーツ万能の好青年、 小島氏(旧姓西村重信さん)と私との異色の顔ぶれでし た。私がダイナパックに対面したのは昭和三十五年頃です が、日時に関しては記憶があやふやです。河田部長によ ばれ、「今度、高速加工に関する研究が始まり、実験機と してダイナパックを使用する。君が実験機の担当者とな る。実物が今度開催される晴海の国際見本市に展示され るので、見学してこい」との仰せがあり、早速晴海に出 向きました。当時の見本市は、国外、国内、特に国外の 輸入機械の展示品は技術の粋を競い、各小間毎に実演が あり、各社のカタログを小脇に抱えた人の群れが行き交 い、展示する側、見学する側お互いにお祭り気分でなく 皆真剣に対応し、熱気が感じられていました。機械館の 一角に黒山の人だかり、一際異彩を放つがっしりした本 体、瞬時に押し出し加工で作られるタービンブレード、 すさまじい衝撃音…。私がダイナパックに対面した記念 すべき瞬間でした。この日から昭和四十一年まで約六年 間余付き合うことになりました。ダイナパックだが、実際に実験を開始するまでには思わぬ難件に出 合いました。押し出し工具(ダイス、ポンチ)を依頼し た特殊鋼会社の社内事情の急変(会社更生法)により契 約期間までの納入が危ぶまれ、催促の電話をかけ続け、 最後は相手先の交換手さんに声を覚えられて挨拶を交わ す始末です。何とかこの問題も解決しました。 いよいよ予備実験開始。とは言え、ボルスターの高さ 調整時の巨大なナット、それを締め付ける工具の重さに 悪戦苦闘し、ダイスの締め付けに用いる六角ボルト、レ ンチでまた一苦労。ダイス固定用のボルトを、パイプを 用い二人係りで締め付ける大掛かりな作業です。このた め度々ボルト、レンチの捻れ、破損が生じ、国内各社の ボルト、工具では事は解決せず、急遽航空便で輸入した 苦い思い出もあります。高速加工研究グループの最初の実験は、室温でのアル ミニウムの衝撃押し出しでした。ここに到着するまでに はいろいろとつまずきがあったが、無事成功。押し出し 比四で押し出された短い試験片に対面した時の感激は格 別でした。その後の実験は順調に進みました。 高速加工(鍛造、押し出し)技術研究委員会も、研究 グループで得られた知見に基づき、形状複雑で平打ち鍛 造に特徴がある歯車、割型を用い異形断面で押し出し鍛 造に特徴があるタービンブレードなど成形品を対象に、 活動が始まりました。しかし、完全な成形部品を造るのは予想以上に大変で した。完成品を目指し、型の手直し、最適潤滑剤の選択、 成形品取り出し時のノックアウト方式の検討等、研究と は異なった点で各社の専門家による活発な意見交換が行 なわれたことを思い出します。それと共に、委員会での作業を通じて考えの異なる各社の方々とのお付き合い は、良きにつけ悪しきにつけ対人関係でいろいろ勉強に なった数年間で、その後の仕事に大変役に立ちました。 一方、ダイナパックで忘れられない事は、見学者むけ のデモンストレーションの回数が多かったことです。予 定以外の突然の見学者で呼び出され、二十四号庁舎より 現場に駆けつけたことも度々ありました。 高速加工(鍛造、押し出し)技術研究委員会も終了し、 河田鉄鋼材料研究部長は材料試験部長に転任され、ダイ ナパックに関連した鋼の高速加工に関する研究も一段落 すると、田頭さんのグループは新天地のプラネタリ圧延 機を対象にした新たな研究に向いました。私は河田材料 試験部長によばれ、「クリープ受託試験を8月より開始す る。受託試験の担当者として、クリープ第一試験室に配 置換えをする」との仰せ。秒速十メートルでデータが得られた動の現場から、十 万時間(十一年五ヵ月)でようやく一ポイントが得られ る静のクリープ第一試験室に出向したのは、昭和四十二 年八月十日、真夏の暑い日でした。この日をもってダイナパックとお別れです。思えば河 田部長の指導下で、緊張と充実の六年余の年月でした。 以上、自分本位の狭い範囲の思い出になってしまいま した。最後にダイナパックを通じてご指導、ご尽力を頂 いた多くの方々に紙面を借りて心から御礼申し上げま す。この拙文をまとめるにあたり、ご協力下さった皆様 に感謝申し上げて筆を置きます。(環境性能研究部S33・5・1～H4・3・31)大型実験炉設置前に使用した予備実験炉の一部(H 7年撮影)男たちの熱き思い出、連続製鋼実験(寄せ書き)連続製鋼事始め中川龍一 「地獄谷製鋼法」、これは昭和三十八年秋のある日の昼 休みに皆でだべっていた時、ふっと口に出した小生のア イディアに対して、当時の部長で後の二代目所長がつけ たニックネームである。その頃、ある事情で我々の研究 室全員が鉄鋼研究部から工業化研究部に移り、毎日やせ る思いで必死に新しい部にふさわしい研究テーマを模索 していた。この思いつきのアイディアのために、十年以 上にわたって多数の研究者が振り回されることになった わけである。当時、純酸素転炉製鋼法が漸く盛んになった頃とはい え、溶銑に純酸素を吹けば鋼になるという位の常識しか なかった材料屋にとっては、研究内容の大転換であった。 プロセス研究の常道として、研究者すべてが鈑金・溶接・ 組立工、配管・配線工、あるいは築炉工、炉前作業工と なり、数多くのテストプラントはすべて自作自演だった。 汗と血にまみれ、朝夕の区別なく全員の体力と頭脳をか き集めて一つの研究テーマに長期間文字通り没頭出来た その「源」とは、一体何であったのだろう。 「金材研の連続製鋼」、「連続製鋼の金材研」との自負がそうさせたのであろうか。この稿の最後に吉松君が「連 続製鋼思い出カルタ」を書いてくれたが、この研究に参 加した研究者の一人一人がそれぞれの「思い出カルタ」 を今でも持っているに違いない。二十年後の今になって も、若い頃の充実した研究生活を持てたことを幸福感一 杯で思い出している。終りに、当時本当に世話になった周辺の方々、特に管 理部、技術課、分析室の方々に心からお礼を申し上げま す。(所長 S31・ 7 ・1～H元6 ・27)熱い思い出三井達郎昭和三十八年に入所して間もなく、連続製鋼の研究が スタ—トした。だんだんに実験の規模が大きくなってく ると、連続製鋼炉の予熱を充分にしておかないと実験が 順調に進まなくなってきた。最も大きな規模の溶銑十二トンの実験に移ると、エ ルー炉で四回溶解し、十二トン貯めるまで約十二時間も 溶銑の温度が下がらないように保温していなければなら ない。製鋼炉の予熱分も合わせるとプロパン五〇〇キロ 入りボンベは二時間ちょっとで空になった。22B庁舎の 周囲に直径約一 メートル、長さ約二メートルのボンベを ゴロゴロ並べ、一回の実験で十六本も使用したことが あった。プロパンの量が多いため、ボンベの交換中のトラブル が心配でヒヤヒヤしながら作業した。ボンベの口金から少しガス漏れがあったときはもし引火したら大変と思う と足がガクガクする程だったが、実験が無事終わると ホットしたものである。あの頃を振り返ってみると、各分担毎の強力なチーム ワークのもとに仕事が進められ、さらに何よりもメン バー全員が若かったから体力もあり、準備を含めた長時間の実験が可能だったと思われる。(組織制御研究部)思い出あれこれ市村正治 私が金材技研に入所した昭和四十四年の四月頃には、 連続製鋼実験設備は大型の三段炉となり、実験も大規模 に行われるようになっておりました。その実験ですが、 スムーズに終了した時のことより、何かアクシデントが あった時のことがより強く思い出されます。 その一つは、ランスを冷却する冷却水が循環されず、 実験設備の地下にあった冷却水貯水槽にへばりついて、 徹夜で改造したこと。又、混銑炉を傾斜させる油圧機構 が作動しなくなってしまい、出銑が危ぶまれたことなど 記憶が蘇ってきます。もう一つ、連続製鋼実験では、実験設備の付属装置を、 かなりの部分手作りで製作しました。温度電光掲示板、 添加物装入装置など、材料切りから溶接組み立て、及び 電気配線等、全て手作業にて製作し、実際に実験設備の 一部として役立たせました。連続製鋼実験が円滑に行われ、成果を挙げることがで きたのは、何と言ってもチームワークの良さではなかっ たでしょうか。中川一家と言われるような家庭的雰囲気 の中、各人が自分の分担に責任を持ち、その役目を忠実 に果たした結果だと思います。私もその一員として参加 できたことを非常にうれしく思い、また、時折懐かしむ 今日この頃です。(工業化研究部S44・4・1～51・3・31)実験中の多段連続製鋼思う こ と上田卓弥 浪人中のところを中川さんに拾われて、多段樋型連続 製鋼プロセスの開発研究の最初から最後までお手伝いさ せて頂きました。私の若い時代はSturm-und-Drang-Zeitでありました。 そしてその時の経験、人のつながりが私の現在やってい るC/C Compositeの事業に、どれ程プラスになってい るかということをしみじみと感じています。苦しかった こと、残念だったことが無かったとは言いませんが、そ れもきれいに昇華されて、同じ塹壕の中で苦楽を共にし たなあという思い出になっています。上から下まで、こ れだけの顔触れで一つの目標に邁進したという事は、広 い世間でもそうある事ではなく、その一事をとってみて も、時代の風潮が変わり、人の変わった現在でも、連続 製鋼の研究は、関係した全員にいい財産を残したといえ ましょう。抽象的な文面になってしまいましたが、正直な気持ち を書きつらねて見ました。(工業化研究部S42・3・1～56・4・1)何十分の一かの連続製鋼実験尾崎 太 私のイメージとしては連続溶解還元、連続脱ニオブ実 験も含まれた流れの中に連続製鋼実験の日々があります が、昭和四十六年に入所してすぐに経験した樋型連続製 鋼の開発研究での印象は特に強烈でした。大学の時の工場実習で八幡製鉄所の洞岡高炉に配属さ れて以来、現場での勤務はこりごりだという思いがあっ た(？)にもかかわらず、工業化研究部に回されたのは運 命の皮肉であったのでしょうか。予熱時にはLPガスボンベの監視・交換、実験時にはノ ロ搔き、スラグサンプリング、あるいはガス分析等を分 担したことを憶えています。カントバックによる炉前分 析もありました。むろん、実験準備や後始末の方にはる かに多くの時間が費やされました。また、連続製鋼制御の ための直接分析の研究の打ち切りを告げられ、部長の前 で思わず涙をこぼしてしまった遠い思い出もあります。 このような仕事の中で、人と人との付き合いについて 多くを学ぶとともに、開発研究の何たるか、あるいは困 難さを垣間見させていただきました。今後はこのプロ ジェクトに参加した全員がそれぞれの考え方でこれらの 経験を生かせるようにしたいものです。(反応制御研究部)球はやっぱり理想の形状か!?佐藤 彰 溶鋼が幅三百ミリ、深さ百五十ミリの断面形状で、長 さ四千ミリの距離を流れ、これが三回繰り返す形の三段 樋型炉からなる金材技研式連続製鋼炉の形状は、ギリ シャの哲学者アムパン・オイシス(餡ぱんは美味しいな！ 実際にいる筈であるが、名前は失念したので仮名。年の せいではない!!念のため！)が、理想の形状と考究し た球の形からは程遠い。金材技研式三段樋型連続製鋼炉 の形状は、室温で反応が進行する場合には理想的な反応槽形状であるが、千六百〜千七百℃の高温での反応が進 展する場合には多少問題になるかなという気はしまし た。しかし、幸いなことに、私がこの実験に参加すること になった時期は実験データがかなり蓄積され、大型の実 験炉による研究が遂行されようとしている最も充実した 瞬間でした。文部省(大学)も通産省(会社)も行えな い研究こそを、科学技術庁(金材技研)が実施するとの (研究所の？)若さ溢れる意気込みがあったと思います。 英、仏、米、ソ、オーストラリア、スウェーデン等が遂 行中の連続製鋼法と比較検討すべき、独特の特徴を有す る方法であることは確信しておりました。ただ、最後に アムパン・オイシウスに負けたのが残念である。(組織制御研究部)熱き男達の夢ものがたり上原 功 ふりかえれば、それは一幕の舞台をみているような想 いである。大勢の人々が、それぞれの役割を分担して一つの目的 に突き進む。参加したそれぞれの人々の個性がはげしく 躍動してぶつかりあい、助け合った。ひところ、霞ヶ関の科学技術庁内では金属材料技術研 究所と言えば、決まって連続製鋼の実験という言葉が 返ってきた。それを聞く度に、よい経験をさせてもらっ たなあと胸をはって喜んだものである。「連続鋳造」に続いて実施された「連続製鋼」の実験。 工業化研究部は夢のルツボだった。灼熱の溶鋼があふれ出る湯口を覗き込みながら、その高温にもめげずにノロ をかきだす。この時こそ本当に仕事をしているなあと、 何かしら充実感を実感したものである。溶鋼からくる熱 のために腕時計が壊れてしまったくらい、熱い熱い思い 出である。歳月が過ぎ、くる日もくる日も、座ったままのいわゆ る机の上の仕事が続く中で、ストレスもたまり、実際に 物を造るよろこびも失われていった。そんなある日、再 び「連続製鋼」の話題を聞いた。目黒のあの熱いイブキ が北海道で芽生えているという。さっそく北海道へ飛んだ。工業団地の一角にある工場 の中で、それはたくましく躍動していた。まわりで男達 が生き生きと息づいている。苫小牧に激しくふぶく粉雪 が、熱く紅潮した頰にここちよい。血の躍動にも似た高 揚感であった。今、物造りの第一線でもある原子力発電用の核燃料加 工工場の一隅で、「連続製鋼」の名を耳にする。電話口の 壊かしい声と、目の前に彷彿とするあの熱い光景に、心 のふるえる思いがする。あのような実験に参加できた〝幸運〟と、このような 思い出をもてるよろこびに想いをはせる。(工業化研究部S37・8・1～46・4・30)苫小牧のこと福澤 章 昭和五十年代の終わりごろ、二度苫小牧に行った。 最初は河田先生に見ていただくのに便乗して、二度目 は滞留時間分布の測定に徒党を組んで行った。いずれも晩秋か初冬の寒いシーズンで、漁港には鱈が山積みに なっていた。溶湯の滞留時間分布は先方が訝しがるほどきれいな データが得られたこと、川鉄から来た岡部、江見、藤井 の三氏への説明役をおしつけられ、「原価計算が出来るよ うになったでしょう」と江見さんに冷やかされたことを 思い出す。だが何と言っても最高の思い出は、夜、苫東の工場群 をホテルの窓から眺め、「あー、今も湯がながれているん だ」、「これで鉄屋と対でやれる」と満足しながら寝られ たことに尽きる。実際はトラブッタこともあったようだが。目黒で、二十分ほど寝過ごして予熱用のプロパンボン ベが空になり、エアだけが静かに流れていたことなどは、 また次の機会に……(反応制御研究部)連続製鋼思い出カルタ吉松史朗 (い)何時迄も世に波及するプロジェクト (ろ)炉の仕上げ名人芸に支えられ (は)迫力は誰にも負けぬ関係者 (に)日夜無し考えてみればようやった！ (ほ)本音だす青筋立ててミーティング (へ)平衡が成り立たないのが連続化 (と)苫小牧男のロマンに灯がともり (ち)力こぶ頭脳とともに求められ (り)理論なしある日突然高脱燐(ぬ)ぬくもりで支えて呉れた十四号(管理部) (る)ルンルンな気分を醸す分析値 (を)終わりなき想いを断ちて六十六(操業回数) (わ)我が店のママに無理言う夜食番 (か)傘の下プロパン番の夜の悲哀 (よ)夜明けから二十四時間エルー吠え (た)大過無く天に感謝の安全性 (れ)レーザーもしつこく続けて良い結果 (そ)卒業生皆それぞれに飛躍あり (つ)ついに出たランスの口から脱燐剤 (ね)熱収支耐火物でも大苦労 (な)中目黒心の憂さの洗濯場 (ら)ライバルの英仏豪と抜き抜かれ (む)無理通る予定日変えれぬ我孤独 (う)うたた寝の夢の中でも湯がこぼれ (ゐ)胃が痛むいつか医務室常連に (の)のっけから材料屋が宗旨変え (お)オリジナル、努力が支えトップラン (く)苦労したデマンド調整ただ感謝 (や)夜勤にも頭を悩ますその手当 (ま)纒まった論文特許は数知らず (け)結果良し酒の強さも一段と (ふ)分析の尊い助力に支えられ (こ)高圧のガス規制にも悩まされ (え)永久に国研研究は先見性！ (て)手作りの送酸装置はよく応え (あ)朝一番十二屯のいい湯日の出待ち (さ)サクセスも皆の汗が担ぎ上げ (き)キャビティの深さで変わる後始末(ゆ)湯漏れ止め反応以前に大苦労 (め)名物は人いうタコ部屋工一研 (み)水モデル世に問いかける多段槽 (し)湿気には最後打ち克つ粉準備 (ゑ)江崎さん大味さんに感謝の事業団 (ひ)昼休み雑談から皆巻き込まれ(も)持つべきは鉄鋼協会委員会(せ)銑鉄を割って代償腰痛め(す)すべからく歴史は我の後を追い(ん)運命は末だに続く連続化(製錬研究部S35・4 ・1～H2・1・31)流動還元実験の思い出田中 稔思えば、あの頃からもう二十年以上の歳月が流れまし たが、昭和四十六年頃から約五年間続けられた流動還元 実験は、悪戦苦闘の連続でした。中目黒の22B西北部に設置した流動還元実験プラント は粉状の鉄鉱石を一日に約四トンを連続的に還元できる 規模のもので、当時日本最大規模の設備でした。還元ガ スは純水素を使用し、炉内圧力は最高八気圧、還元温度 九百℃と高く、高温で大量の水素を供給することによっ て還元能力を大きくしようと考え、また各所に新しい工 夫を取り入れた装置でした。新しい装置の開発研究の宿命とはいうものの、これだ けの規模の設備を安全に、安定的に運転できるかどうか の不安に悩まされたものでした。大型装置では、小型装置の場合の様にやり直しが簡単 でなく、小型装置で予想もしなかった現象が起ってトラブルの原因となるために、これらを解決しないと命取り になりかねない不安があります。もし装置の連続運転が できない場合は全く成果は得られないので完全に失敗で あり、莫大な金と人と時間は無駄になるわけですから、 責任者としての不安は大きなものでした。 実験装置が完成して、実験に入ってから数えきれない 程のトラブルが発生し、設備の殆どの部分を分解するこ ととなり、研究どころか分解修理屋ではないかと思う程 でした。それでも、分解の結果原因が明らかになれば良 いのですが、解決法が見出せず絶望的な気持になったこ ともありました。しかし、実験に協力して下さった多くの人達に支えら れて、これらの困難を乗り越えて金材技研法として評価 される成果が得られたことは、苦しみの重圧が大きかっ ただけに忘れられない思い出です。このプラントの解体の時に、鉄製錬第一研究室の皆さ んがプラントの心臓部のガス分散板から作成した文鎮を 記念として戴きましたが、これを見つめてこの思い出を 書いていると、当時のいろいろなことが次から次へと思 い出されてきます。この流動還元実験プラントを設備するに至った経過は、昭和四十年の始め頃にさかのぼります。 当時、西独のアーヘン工大が原子力製鉄の特許を出願 したという情報が入り、日本鉄鋼協会が急據関係者を召 集して、原子力を用いる製鉄法について検討を開始する こととなりました。これが日本での原子力製鉄の始まり です。間もなく新日鉄の湯川さんが原子力部会長となら れ、各委員会で原子炉の検討、現行製鉄法への原子力利 用の可能性の検討、また熱交換器の検討などが行なわれ ました。この結果、高炉法に原子力の利用は無理であり、還元 ガスを用いる直接還元法の中でシャフト炉法か流動還元 法のいずれかが有力であるという結論に達しました。 当時、製錬研究部では流動還元法の基礎研究を行なっ ていましたので、原子力部会でも流動還元法の利点を常 に強く主張し続けました。しかし当時、シャフト炉法は 実用炉としての実績が多かったのに対して、流動還元法 は南米のベネズエラに一基あるのみで、しかも操業が順 調でなく原因も明らかにされない状態でした。見学に 行っても遠くから眺めさせるだけで近づくこともできな い有様で評判も悪く、何か重大な欠陥があるのではない かと噂される状態でした。一方、シャフト炉法の方は新日鉄が日吉の研究所で小 型シャフト炉の実験に間もなく入る状態にあり、この結 果にもとづいて近く広畑製鉄所内に日産五百トンのシャ フト炉を建設する予定でした。さらに原子力部会がこの 小型シャフト炉による共同研究を各社の協力で実施する こととなり、私も委員として参加する状態となり、シャ フト炉と流動炉の勝負はついたと思う様になりました。 丁度その頃、当時の河田所長から流動還元をもう少し 力を入れて進めよと提言されました。私は流動還元法は シャフト炉法に勝てない情勢にあるし、もし、やるなら 大型装置になり労多くして報いは少ないと思い、今更こ の段階でその気は持てないと反対したところ、〝企業の技 術部長の様なことを言うな〟と強く叱られたことを覚え ています。私も今まで流動還元を研究してきた関係で、 心の底には悔しさもあり、この際腹を据えて挑戦して見 ようと決心しました。そこで、同じ苦労をするなら日本 で最大のものを実験しようと考えました。流動還元実験プラントその頃の流動還元装置の最大のものは新日鉄の日吉の 研究所の日産一トンのものでしたから、これより大きい ものを設備しようと思ったわけです。この新日鉄の装置 は社外秘のもので、実験が終了してからも長い間見学し た人はいなかったのですが、金材技研の大型流動還元炉 の話が進んでいたある時、今は亡き近藤室長の御好意で 見学し、設備の大きさや水素ボンベ置場の広さなど大型 設備の様子を知ることができたことも忘れられない思い 出です。その後、大体の計画の出来た頃、河田所長の所に説明 に伺った時、こんな大きなものは考えていなかったと驚 ろかれた様子でしたが、やめろとは言われなかったので、 いよいよこの計画を推進することになりました。 装置を設計して行くに従って多くの問題点が出てきた ので、小型還元実験やガラス製の模型実験などで検討し ていきました。装置メーカーの方が勉強させてくれとい う状態であり、いわれる通り製作しますということで、 ますます荷が重く感じたものでした。これらの中で水素 ガスの温度を千百℃位まで上げたいのですが、普通の熱 交換器では八百五十℃以上は無理なので炉の入口に純酸 素を少量吹き込む方法を考えましたが、別のメーカーの 人から〝勇気があるなあ〟と感心されて一段と不安になっ たものでした。しかし本番の実験で酸素を吹き込んだ時、 水素温度が急速に上昇した時の感激は忘れられませんで した。また、実験に使う鉱石の量が非常に多いので、鉱石の 粉砕、篩別、運搬作業が大変となり、なんとか自動化し たいと試行錯誤し苦労をしました。たまたま卆論生が何 人か来ていましたので彼等に毎日この作業をさせて、私達は流動炉の方の仕事をしていましたが、時々様子を見 に行くと、彼等が鉱石まみれになってこれで卆論が書け るのかと心配そうな顔をしていたのを思い出します。 この様にして本格的に実験に入ったのですが、前に述 べました通り失敗の連続で、失敗するのが普通とまわり の人達にも思われていました。当時、高圧ガス規制が次 第に厳しくなってきた時期でもあり、炉の調子が悪く なって水素の使用量が少なくなってきても計画通りに水 素ボンベがどんどん搬入され、赤い水素ボンベが一杯に なり、こちらにも気を使わなければならず、命が縮まる 思いでした。しかし次第に初歩的な失敗は少なくなり、一度成功す れば更に厳しい条件下での実験に挑戦し、この装置の最 大限の能力を求めるために失敗するという状態になりま した。その間、原子力部会の還元関係の委員の人達に稼動中 の装置を公開し、大型流動還元装置の運転状況を詳細に 見てもらい、流動還元のいままでの不安材料を少なから ず払拭したのではないかと思いました。また、この実験 によってこれまで流動還元法で達成できなかった成果が 得られたことは、苦労は大きくシャフト炉に逆転はでき なかったけれど、悔はなかったと思っています。 いろいろと思い つくまゝに当時の思い出を書きました が、最後まで大きな事故もなく、無事実験を終了できた ことは協力して下さった皆様のお蔭であると感謝の気持 で一杯です。大型プロジェクトである原子力製鉄が終了し、新しく 高炉に替る新製鉄法として溶融還元法が進行しました が、このプロセスには流動還元法が採用されるとか聞き、何か研究にも時代の流れや運、不運があることをしみじ みと感じながら、この思い出の筆をおかせていただきます。(製錬研究部S38・4・1～58・12・31)溶解加工設備の設置と運転(寄せ書き)大型設備の苦労話三井達郎 私の入所時の印象といえば、工場のような大きな建物 (22A、B庁舎)、高い煙突、沢山の大きな設備があるこ とでした。研究所にしては規模の大きい設備を設置する 計画については「五年のあゆみ」で初代橋本所長の「ご あいさつ」に述べられているし、研究所設立の経緯や研 究所の性格、使命、運営の基本方針、予算などからもそ の必要性が伺えます。溶解加工設備の建設に当っては田中龍男室長(当時) が指揮されて、大層苦労されたと聞いていますが、今と なってはお話し頂けません。そこで、当時の若手で各設 備を担当されたOBの方々に伺ったところ、思い出話し というより苦労話しをお寄せくださいましたので、特に 大型設備についていくつか御紹介します。(組織制御研究部)百キロ高周波真空溶解炉の設置と運転尾澤正也 金材技研に入所して、初めての仕事が標題の仕事で あった。上司の田中龍男室長は溶解圧延設備の設置と運 転の総括責任者として、百キロワット高周波溶解炉、実 験用圧延機等々22A庁舎に並んだ一連の設備の購入、配 置から検収、人的配置、訓練に至る殆どすべてを一身に 被って処理しておられた。入所したばかりの私であったが、真空関係の建設は任 せるから充分調査してやってくれと命ぜられ、真空の技 術、真空機器、そして当時話題に上り始めた真空冶金に ついての勉強から始めた。日本真空や日本電子にも見学 に行き、資料を集めた。一足先に十キロプラントにはバ ルツァースの真空溶解炉が導入され、渡辺敏昭氏と共に それを使って実験するようになったので、その経験も加 えて案を練った。新しい装置を導入することは、その種類を問わず心躍 るものがある。その中に何か新しい工夫が盛り込まれた り、発展の可能性が感じられれば尚更のことだ。その概 念設計の段階では大変楽しい作業であった。 調査を進めるに従って、大型の真空ポンプを製造する 技術、更に言えば百キロクラスの真空溶解炉を製造する 技術はA社以外には無いということが明らかになった。 A社に選定するよう主張し、室長や遠藤勝次郎部長も理百キロプラント工場開き百キログラム高周波真空溶解炉二トンエルー式電弧炉解してくれたが、「大学を出てまだ一年か二年の人の言う ことは信用しません」との一言で退けられ、製作担当は (入札の結果だったと思うが)B社に決まった。橋本宇 一所長のご指示で工業デザインの専門家の手が加わり、 模型によって形が整えられたが、この種の装置としては 大変珍しいことだった。据え付け調整に入ってからは苦難の連続だった。一緒 にその任に当たった渡辺敏昭氏、電気関係を担当した持 田忠明氏はその苦難の中にもろに巻き込まれた。大きな 缶体とゲートバルブのあちこちから容赦なく真空漏れを 生じ、なかなか真空度が上がらなかった。肝心の大型の 拡散ポンプは、排気速度を実測するとスペックの一割も 出ていなかった。真空関係の測定は時間がかかり、系が 大きければ大きいほど困難さを増す。複雑な配線は錯綜 しチェックに大変な労力を要した。しかし、ともかく何とか使えるようにしなければなら ない製作会社側との際限のない議論、そして挙げ句の果 ての徹夜作業のお付き合いをさせた御両所には、今でも 大変申し訳なく思っている。因みにA社の担当した真空 鋳造装置は殆どトラブルもなく完成したが、担当の笠原 和男氏の入念な整備にも関わらずあまり利用者がなかっ たようである。百キロプラントの建設に心血を注がれた田中龍男氏が ご存命ならば、これにまつわるいろいろなお話が伺えた と思うが詮方もない。装置の縮尺型紙を切り抜いて、配 置の検討のお手伝いをしたことなどが懐かしく思い出さ れる。(第4研究グループ S32・4 ・1～H3 ・ 3・31)二トンエルー式電弧炉の設置と運転神谷昂司 トン トン トン、リズミカルな金属音が響く。これ は、中二階に昇る取り付け階段を駈け上がる時の心地よ い音です。ドアーを開けると、青図を広げた田中龍男室 長の顔がありました。第四部工業化研究室の三十数年前 の姿です。私が入所した昭和三十五年は、目黒地区も建 設の真っ只中で、大型設備(百キロプラント)の設置に 慌ただしい日々を送りました。「細粒鋼の研究」と二トンエルー炉の建設が、私の最 初のテーマでした。二トンエルー炉は、既に、設置建屋 がその前年に完成し、購入業者も決定されていました。 大同製鋼社製のレクトロメルト炉で、小型炉としては、 確か、一号機だったと聞いていました。当時、機器の設 置には現場作業が多く、名古屋から泊り掛けで職人が来 ていました。現場作業で思い出すことが一つあります。それは、組 み立ても順調に進み、炉蓋旋回用油圧配管のフラッシュ 試験のとき、溶接配管から出てきたスラグの多さにびっ くりしたことです。今では配管ジョイントも良くなり、 工場で試運転されてくるので心配はないが、当時はこの 様なトラブルが多く、仕様書どおりの性能が出てくれる ことを願ったものです。今一つ、心配だったことがあります。それは、溶解中 の炉蓋の崩落です。生産炉では全く生じませんが、とき たま動かす試験用炉では煉瓦の目地が乾燥し、スラグに よる接着効果が弱くなり、操業中に落下して溶解不能と なることでした。幸い、当時の溶解班の方々の努力によって、無事大きなトラブルもなく過ごさせていただきまし た。アークによる網膜の炎症で、小石が数個目の中に入っ てゴロゴロするような痛さは、今でも思い出されます。 (反応制御研究部S55・4・1～H元・3・31) 五百トン油圧鍛造プレスの設置と運転渡辺 敏百キロプラントの設備なのだから、百キログラムイン ゴットを鍛造圧延できるプレスというのが、当時の機種 選定の基本方針でした。初め、小松製作所と打ち合わせをしていたのですが、 上からのお達しで、急遽、イリス商会という会社から青 い目の人達がやってきました。日本人の商社員も同行し ていたのですが、彼氏の英語もわれわれとチョボチョボ で、細かい打ち合わせをどうやってまとめたのかいまで はよくわかりません。入荷したとき芝浦の保税倉庫に荷姿を見に行って、その大きさにびっくりしてしまいました。とても建屋の入口から入らないので、当時室長だった田中龍男さんに報 告したところ、入口の鉄骨を溶断することになりました。 具合の悪いことに、ちょうど暖房工事の最中で、入口の 前には幅二メートルほどの深い溝が掘られていて、そこ をどうやって通すかで大騒ぎしたことをおぼえていま す。そのとき、尺角だの風珍だのいろいろな土木用語を 覚えました。装置はオイムコ社製の五百トンプレスで、ドイツ製で あることがお気に召したのか、当時所長であった橋本先 生はしばしば建設現場に足を運んで見学されていまし た。エレクタはまだ若いドイツ人で、彼氏となんとか会 話をしようと、毎朝テレビでドイツ語を勉強したのが アーヘン工科大学への留学のきっかけになりました。 私事はとにかくとして、このドイツ人はなかなかのわ がまま者で、工事の最中にクリスマス休暇で国に帰りた いというのです。私は仕方ないと思ったのですが、さす がは田中室長、簡単にはOKせず、大分もめました。結 局、正月早々から仕事に掛ることで話がまとまりました。 お陰様で、私は一月四日から残業するハメになってしま いました。いよいよ試運転の時がやってきました。その時、私と 一緒に仕事をしていた持田技官が配線のミスを発見しま した。そのことを私から彼に伝えたのに、ドイツ人は信 用しないのです。とにかくこのままやってみようという ことなりました。ラジアルポンプは轟音と共に始動しま したが、その途端に停止してしまいました。ほれ見ろ、 gewonnenと私は得意そうな顔をしたのですが。それに しても、持田技官は偉いなあ。(製造冶金研究部S32・10・1～53・10・21)500トン油圧プレスエアハンマー防震基礎の思い出木村勝美 井荻にあった機械試験所の工場に1/8トンのエアハ ンマーが昭和二十七年頃に設置されたが、二百メートル も離れた本館の四階の金属顕微鏡の視野が動き、写真撮 影が出来ないという障害が発生した。このことがあり、 しかも金属材料技術研究所では、鍛造用のエアハンマー を設置する場所が敷地のほぼ中央になるので、防震構造 にすることが絶対必要であった。 当時は、防震基礎を備えたエアハンマーは我が国には 無かったので、鍛造用ハンマーの防震基礎について調査 の結果、ドイツで大形のハンマーに備えたことが一九三 六年に報告されていたが、極めて大形であった。我が国 では、大阪の後藤鍛工所で同社の設計による防震基礎を 備えたドロップハンマーが設置され良好な成績を収めて いることが昭和二十九年に報告され、この方式が大阪地 区に普及し始めた。しかし、京浜地区には実績は全くな かった。そこで、防震基礎を根本的に研究することにした。構 造としては、ハンマーを大きなコンクリートのイナー シャブロックに載せ、そのブロックをばねで支える本格 的なものにした。地盤も一種のばねであるので、振動系 は二重振り子として取り扱うことが出来る。解析解を求 めたが、計算の実施の段階で行き詰ってしまった。しか し、近似解法を見出した。そして1/10トンのエアハン マーの場合に、地盤に伝わる振動を二・〇ガルと極めて 小さく出来ることがわかった。これに片利きのオイルダ ンパーを付けて、ブロックの振動が早く減衰するようにした。これで実機を設計製作し、完成したものについて興味 を示された東京都建築局に振動を定量的に測定して頂い た結果では一・四ガルで、防震構造にしないときの百分 の一にでき、研究所の期待以上のものができた。この結 果により、昭和三十三年度には1/2トンのエアハン マーの防震基礎を、ほぼ同じ考えではあるが価格が幾ら か安くなるもを設計製作した。何れのハンマーも、研究所の皆さんに大いに利用して 頂いた。設置後三十五年以上の間、特に問題はなかった のは管理と手入れをこまめにして下さった方々のお陰だ と思っている。この方式の防震基礎は関東地方で一時流 行した。(材料強度研究部S31・7・1～59・4 ・1)実験用圧延機の設置と運転持田忠明 溶解圧延設備(百キロプラント)のなかでも、最初の 時期に整備された大型の設備が実験用圧延機であった。 昭和三十三年度の始め、芝浦共同工業(株)(後に石川島播 麿重工業(株)と合併)に発注され、製作が進められた。こ の設備は研究所の設備としてはかなり大型で、圧延機本 体の機械系のほか、これを駆動する直流モータ、電動直 流発電機、制御装置などの同等規模の電気系設備で構成 されていた。三十三年五月に入所したばかりの谷治治男氏と私が、 田中龍男第四部工業化研究室長(当時、故人)からそれ ぞれ機械系、電気系の運用担当に指名され、メーカーか実験用圧延機ら提出された承認図等の勉強が始まった。三十三年の末 頃から22号庁舎の西側三分の一位のスペースで基礎工事 が開始され、翌年になると我々二名に対する圧延機実習 の話が具体化した。メーカー側の配慮により、実験用圧延機電気設備の製 作担当であるとともに類似の圧延作業を行っている(株)東 芝柳町工場(川崎市)で、二週間の実習を受けることが 決まった。三十四年二月二日から十四日にわたり、東芝 の社内向け特殊金属の圧延加工工場にて現場に立ち会い、 実地の圧延機運用状況をつぶさに把握した。電気系は全 く同等の設計ではなかったが、システムとしての機能は 同様であり、基本的な理解に役立った。機械系について は、ここで学んだオペレーション法が実地に直ぐに生か されて金材技研での実作業に反映され、研究用試料の圧 延加工作業が早期に円滑に実施できる結果となった。 実験用圧延機の特徴は、熱間二/四段、冷間二/四段、 棒鋼圧延と五通りに切り換え使用が可能な設計となって おり、原型は米国での製作実績のある設計となっている という話であった。しかし、この欲張った多用途型であ る点が長所であり欠点でもあった訳で、三十四年二月十 七日から設備の据え付けが始まり、試運転に入るにつれ て問題が続出した。最も大きなトラブルは各駆動モータの速度制御に関す るもので、要求機能である熱間圧延での主ロール急速逆 転制御と冷間圧延での主ロール定加速度、巻取りリール 定張力制御がなかなか円滑に機能しないという問題で あった。二段と四段主ロール構成で、主ロール駆動電動 機の要求速度範囲が一対四にも変わるのも技術的に困難 な条件であった。そのため、相当長期間にわたる制御系の調整が必要と なったが、その後、ある程度妥協して使用可能となった。 またこれに関連して、こうした制御条件を切り換える手 段は非常に沢山の電磁リレーによって行われるが、リ レー接点にかかる電圧が微弱であるため、接触不良がよ く起きた。しかも、リレー接点が強電用の単純な銅接点 であったため、酸化皮膜の影響で接触していても導通し ていないことが往々にしてあり、主ロールが突然回らな くなったり、回転振動を生じたりすることがあった。こ の問題は、後に銀系合金を付けた接点に交換し、多少改 善された。また、主ロール圧下装置のモータのトルク不足により、 圧延材が主ロールに嚙み込んでいない状態でも圧下装置 がきかないという事態も生じた。この件は、モータの大 型化、減速装置の改善により対処した。三十四年七月四日には、百キロ高周波溶解炉、1/2 トンエアーハンマーなどと一緒に所内外の方々にご披露 する工場開きが行われ、圧延のデモも行われた。 このように、初期段階では多くのトラブルが発生した が、機械系、電気系ともそれぞれの欠点を認識し使いこ なすことにより、長い間各種材料の大型テストピース作 成用の主力設備として活躍した。(技術課 S33・5・1～45・3・31)熱処理設備の設置と運転倉部兵次郎 昭和四十年代は鉄鋼産業の隆盛期に当り、金材研は従 来の研究室的規模から生産技術に直結する規模での研究光輝ベル型炉10kg高周波真空溶解炉ボタンアーク炉熱間2段圧延機が要請され、研究設備の大型化が計られた。新設された主な熱処理設備は、(一)帯状コイルのベル型焼鈍炉(二)帯状金属薄板の無酸化連続焼鈍炉(三)小型ガス浸炭炉(四)無酸化塩浴炉などである。当時、ベル型は抗張力鋼板および珪素鋼板 の研究に用いられた。すなわち、当所で溶解、圧延した 鋼板に所定の熱処理条件を与え、新材料の開発に当たっ た。この際、処理条件を同じにするため、操業技術の検 討に長時間かかり、時には徹夜したことも間々あったが、 なつかしく想い出される。(二)の連続焼鈍炉は、当時はまだ新しい技術として期待 されたものである。これらは生産性の向上と品質の改善 が目的とされた。対象材は炭素鋼、銅合金、特に黄銅、 ステンレス鋼の帯状薄板金属で、無酸化焼鈍を行った。 これらの連続焼鈍は生産性の向上を目的とするところか ら、無酸化は必須条件である。雰囲気としては窒素に七 十五%の水素を混合したガスを用いるが、ステンレス鋼 と黄銅は非常に酸化しやすく、炉内の雰囲気を最適条件 にもっていくため数日間の連続運転が必要で、連日徹夜して実験を行った。(三)と(四)の熱処理炉は主として疲れ試験およびクリープ 試験用テストピースの熱処理を目的にしたもので、多量 の処理が可能であり、金材研のデータシート用試料の作 製に大きく寄与した。このように、研究設備のスケールアップは生産技術に 関連したデータが得られ、従来の実験室的な規模と異な る成果を得ることができ、以後の鉄鋼生産技術の発展に 少しでも役立ったのではないかと自負している。(第3研究グループ S34・4 ・1～H 5 ・ 3・31)設立当初設置された諸設備のうち、配管の詰りや洩れ、 電気部品の接触不良などの老朽化に悩まされながらも筑 波移転(平成六年)まで頑張って、三十数年もの長い間 現役で活躍したものは、百キロワット高周波溶解炉、十 キログラム高周波溶解炉(筑波に移設)、五百トン油圧鍛 造プレス、実験用圧延機、横型炉などの他、一〇キロプ ラントではバルツァース高周波真空溶解炉、アーク溶解 炉、エアーハンマー、熱間圧延機などがある。長い間、 本当に御苦労様でした。センジミアミル信木 稔出会い一九六〇年四月、当時の第四部工業化研究室の田中龍 男さんの下で、センジミアミルのオペレータ要員として 本研究所に雇われたのがことの始まりです。三十年以上 も前のことですが、度重なる配置替えにもかかわらずつ い一年前までは当時からの資料などをわずかに残してお りました。けれども一九九四年四月の筑波引越しで材料 棚や書棚の許容量から捨てざるを得なくなり、いま手元 に何一つ残っていません。定かでない記憶をもとに、セ ンジミアミルについて回顧してみます。 工業化研究室はボイラーの煙突がそびえる22号棟の一 角にあり、四棟続きの工場の北東隅にある錆び付いた鉄 板製の高い階段を昇った二階に、化学分析室と隣り合わ せにありました。その二階は、後に建設省の調べで床が 落下する危険があるとのことで、取り崩され消滅しまし た。入所の当日、田中さんと部長の遠藤勝治郎さんへ挨拶 に伺いました。田中さんは最敬礼、直立不動の姿勢で紹 介してくださり、身の引き締まる思いを致しました。う つむいていたわけではありませんが、遠藤さんの顔を見 たのはかなり後日のことです。ソファーに深々とかけら れ、両手で大きく開いた新聞をご覧になっていたためで あります。その部屋は、後に、奇しくも現科学研究官の小口醇さんと共に、超高静水圧下の材料試験装置の高圧 装置がヒビ割れて使用できなくなるまで、長い間使用さ せていただきました。センジミアミルの輸入、据え付けなど一切の手続きは 中島義雄さん(現末吉工業株式会社)、持田忠明さん(現 (株)イメージアンドメジャーメント)と田中さんらによ り進められていて、面倒な作業は何もありませんでした。 22号棟南西隅の一角に据え付けることが決まっていまし たが、工場内には電燈も付いておらず、そこには戦前の 大型エンジン部品などがほこりにまみれて散乱しており ました。床は赤レンガ張り製造設備と比較すれば小さなものですが、それでも深 さ二メートル程の基礎工事が必要です。床下は戦前に付 けられた深さ数メートルにおよぶエンジンの基礎コンク リートやその周りは一メートル以上の赤レンガ張りで、 大変な難工事でありました。その工事も完成し、装置の 据え付け段階のことです。組み上げられた受電設備から 銅の配線が分解され盗まれました。その配線は分厚い銅 板ですからよく目立ったのでしょう。電源は元で切って ありましたので、賊は大事に至らず幸いにも難を逃れま した。部屋の床は大理石の粒を混ぜたピンク色の化粧コンク リートに目地板という真鍮板を基盤目に埋め込み、砥石 で磨き上げた立派なものでした。これは遠藤さんにはお 気にめさなかったようであります。装置は渋い緑の塗色 に決められました。翌年には立派な空調設備も付きまし たが、当初は厳しい環境の下で、運転開始まで電気系のセンジミアミルのロール構成配線、制御トラブルが数々あり、持田さんや日立製作所 の技術者が大変苦労いたしました。一九六〇年製？この装置はウォーターベリー ・ファーレルという米国 の機械メーカー製で、岩井産業(後に日商岩井産業とな りました)により納入されました。その輸入商社が手掛 けたもので同タイプの第一号機が東北大学の金属研究所 にあり、本研究所のものは国内で二機目になり、まだ実 操業に使われた例のない珍しいものです。 センジミアミルの正面には、メーカー名と一九五九年 製作という砲金の浮き彫り精密鋳造製プレートが付いて いました。これが物品検査で問題となり、発注前に作成 されたというのは道理に合わず、ネームプレートから五 九を削り落とし、真鍮板製で六十の文字を作り、裏から ネジ止めして全面金色に仕上げて取り付けられ、やっと 物品検査をパスいたしました。二十段圧延機センジミアミルは、粉に挽く臼、あるいはボールミル のような粉砕機ではありません。おそばは練り上げた生 地に円柱の棒をあて、回しながら前方に押して薄く延ば します。その要領で金属も板に加工し、これを圧延と呼 びます。圧延では円柱の棒をワークロールと言い、たい ていは圧延される板の表裏対称にワークロールが配置さ れます。一対のロールで構成される圧延機を二段圧延機 と呼びます。また、赤熱した材料を圧延するのは熱間圧 延と申します。一方、室温の材料を圧延するのを冷間圧 延といいます。センジミアミルは冷間圧延機であり、材料を氷やドライアイスで冷やして圧延するのではありま せん。自動車や家電機器に使用される薄鋼板は、タンデムミ ルと呼ばれる設備で高速列車並みの速度で大量生産され ます。これは一対のワークロールとさらに大径のバック アップロール一対で構成される四段圧延機を五ないし七 機連結し、板を串刺しの串のように連結した圧延機に通 して圧延するものです。しかし、さらに硬いステンレス 鋼や工具鋼の板を極めて精密に圧延するためには、この ようなタイプの圧延機では無理です。そこで考えだされ たのが二十段圧延機です。ロールの構成は、写真のように、中央に直径約十ミリ 長さ二百四十ミリのワークロールと、その上下に各二本 の第一中間ロール、その上下に各三本の第二中間ロール、 さらに、その上下に四本のバックアップベアリングとい うロールがセットされます。これらのロールは鍛造鋼を くり抜いた一体のハウジングに組込まれています。上下 の第二中間ロール四本を自由継ぎ手と減速機を経てモー ターで駆動し、ワークロールは第一中間ロールと共に、 摩擦力のみで回転して板を圧延することになります。 一体のハウジングに全てロールだけを組込むと、圧下 調整出来ません。それをうまく解決したのがセンジミア ミルで、バックアップベアリングに仕掛けがあります。 そのベアリング軸を支える部分に偏芯軸受けが組込まれ ており、油圧ピストンでこの軸を回転させてロール全体 を内側に絞り込むようにして圧下します。各ロールは硬 い材料を圧下するために加えられる大きな圧縮力によっ て曲り変形やむすび型の偏平変形を起こし、板の厚みを 精密にコントロールできません。そこで、ワークロールの変形を最小限に抑えるために、センジミアミルでは中 間ロールに巧妙な仕組があります。それは、中間ロール を樽型やロール先端を円錐状のテーパ型に研磨して、 ロールの長手方向に圧延中移動できる機構にしたことな どであります。このような機構は幅 一 メートル以上の箔 の圧延機でも同じです。この設備には、他に板材を引張りながら巻取り巻戻す 装置、巻取ったコイルの取り外し、圧延潤滑油の循環と フィルター、ヒーター、ロール研磨などの付帯装置があ りました。メカは現在のジャンボジェット機並みのいわば究極の 圧延機構であり、現在に至る三十数年来、これを超える 発明はまったくありません。一方、電気制御系は真空管 や電動発電機方式といった制御で、今日の様なトランジ スターやIC化はまだ一般に普及していませんでした。 そこで、機械的な方法で如何にうまく圧延機を制御する かに多くの工夫が凝らされていました。 センジミアミルには極めて詳細な設計図面、工作図面 や制御機器の詳細な配線図面など、そして組込まれる各 部品仕様にいたる膨大な資料が付帯していました。これ は後の制御系の故障直しや機器の改造など、メーカーに いちいち問い合わせる必要もなく大いに役立てられ、圧 延機メーカーも利用しました。これまでに、他に幾つか の大型設備に係わりましたが、国産設備には立派なカタ ログと簡単な模式図や難解な説明書があり、このような 例に遭遇したことはありません。箔を作る当時、ローンミルという同様の多段圧延機があり、これはハウジングがヒンジ方式で圧下機構が簡単でバック アップベアリングを必要とせず、比較的低価格でありま した。しかし、極めて剛性の高い一体ハウジングやロー ル調整機構などにより精密圧延を可能にするセンジミア ミルは、コストパフォーマンスの面から圧倒的な優位性 を持ち、これを越えることは出来ず淘汰されました。 箔は普通厚みが〇・一ミリ以下の薄い金属板のことで すが、センジミアミルでは加工硬化の大きいステンレス 鋼や工具鋼などを箔に圧延できます。圧延で出来る箔の 厚みは材料の硬さとワークロールの剛性および直径によ り、その限界が決まります。超硬合金製で直径十ミリの ワークロールの場合には、ステンレス箔を厚み十ミクロ ンに圧延できます。箔のような薄い板材では厚みにごくわずかにむらがあ りますと、厚い板材では起らないしわやたるみを生じて、 商品とならないばかりか後のプレス加工などの製品に加 工するのも難しくなります。そのために幅方向、長手方 向の厚みを極めて高精度に圧延しなくてはなりません。 それを可能にしたのが、一体構造のハウジングに組込ま れたロール群と、ロールの曲りや偏平変形を抑える様々 な仕掛けや、板材に大きな引張力を加えながら圧延する ことであります。さらに、この方式は小径のワークロールですから、容 易に真円近くまで精密に研磨出来て、高剛性の超硬合金 製ロールを使用できます。これらが他に追随を許さない 高精密圧延の秘訣であります。ノウハウは買えないいわゆる百キロプラントという、質量百キロオーダーセンジミアミルとスクルスキー氏と 若き日の筆者の鉄鋼材料を溶解、鋳造、熱間鍛造、熱間および冷間圧 延、焼鈍、酸洗などの一連の基本設備を完備する構想が あり、この設備はその一部と位置付けられていました。 材料開発の面からは当時渡辺敏さん(現法政大学)がけ い素鋼薄板の研究をなさっていまして、センジミアミル で高圧下の圧延を行うことにより普通の圧延ではできな い特性の優れたトランス用のけい素鋼板になると考えら れ、圧延にトライしました。材料の溶解、熱間圧延、冷間圧延と大変苦労されて、 センジミアミルで圧延するための長さ数メートルの短い サンプルを準備されました。本来、長い材料を左右の巻 胴にアルミフォイルのようにコイル状に巻付け、高い引 張力を加えて圧延する装置でありますから、軟鋼板のダ ミーを巻付けこれにサンプルをスポット溶接して圧延い たしました。けい素鋼板はかなり脆く圧延が容易でない ことに加え、大きな引張力を加えると溶接部分からちぎ れてしまい、何度も溶接をやりなおし再トライいたしま した。けれども最終板厚みまでに圧延することは終に出 来ませんでした。これは最初にして最高のトータル圧延 技術を試されたものであります。その他に、硬い材料で幅数センチ、長さ十センチ程度 のサンプルを引張力を加えないで出来るだけ薄く圧延す るよう要求がありましたが、これらに応えることはでき ませんでした。小径ワークロールで板に引張力を加えな いで圧延すると、板は幅方向の厚みのむらで容易に弓な りに曲ったりしわになり、それ以上圧延できなくなりま す。このような経験をされますと、薄い板の圧延は長い 材料で大きな引張力を加えることが必要であり、短いサ ンプルを技術でカバー出来ない点もご理解頂けたものと思います。圧延技術にはどのようなプロファイルのロールをセッ トするか、一パス当たりの圧下率、板に加える前後方向 の引張力の設定、ロールの研磨の仕上りおよび潤滑油と 表面仕上り、さらに中間焼鈍など、数多くの因子があり ます。圧延の素人に短期間で様々な技術指導をしていた だいたのは、写真のスクルスキーさんであります。 パススケジュールは、現在、何れのメーカーでも秘密 にされております。そこで、アルミニウム、7-3、6-4 黄銅、軟鋼、SUS304、SKD合金工具鋼、SKH 高速度工具鋼などを用いて、安中嵩さんや材料メーカー と共にかなり実験しました。後に、センジミアミルは多 くのステンレスメーカーや特殊鋼メーカーで稼動しまし た。それらの普及にわずかでもこれらの実験を通じて貢 献できたものと思います。ちなみに、合金工具鋼、ステ ンレス鋼の箔は殿方が身近にお使いのひげそりの刃にな ります。活躍の場を変えて国内の箔圧延プロセス技術の向上には目覚ましいもの があり、一躍世界一の技術を有することになりました。 最近では、圧延油と添加剤など、潤滑技術とロール表面 や板材の圧延性、表面の仕上りなどの性状に関心がよせ られています。このような研究のために民間会社から数 度、共同研究や売却の要請がありました。使用予定がな くなり、一九八六年に入札によって民間企業に売却され、 ある材料メーカーに引取られ、制御系は全面改造され、 現役で稼動しております。究極の圧延機に相応しく、こ のような活躍をしている例は、多分、他にはないでしょう。センジミアミルを通じて巡り合えた多くの体験に感謝！(第三研究グループ)プラネタリーミル回想雑録田頭 扶昭和四十三年一月のある日、巨大な四角い鉄の塊を載 せたトレーラが防衛庁の敷地を経由し、24号庁舎の下を くぐって入ってきた。重量が三十トンくらいもあり、と ても田楽橋を渡ることは出来なかったようだ。これがか ねてから話題になっていたプラネタリーミル本体のハウ ジングを目にした最初であり、このマシンとの十数年に わたる格闘の始まりだった。このプラネタリーミルは、 橋本初代所長がドイツに行ってぞっこん惚れ込んできた 画期的な新機構の圧延機で、クルップ社製のプラッツ アー式というものであった。プラネタリーミルは遊星圧延機とも称し、従来と全く 異なる圧延原理により一パスで九五%以上の圧下が可能 ということで、圧延プロセスに革命をもたらすのではと の期待がもたれていた。小径のワークロールを円周上に 多数配列した(当研のは二十四本)上下二組の遊星ロー ル群を公転させ、これにフィードロールで材料を押し込 んで次々に展延していくという原理である。 橋本所長は、当時工業化研究部の中川室長(後の第四 代所長)が陣頭指揮をされていた連続製鋼、連続鋳造プロセスにこの圧延機をリンクさせ、究極の連続プロセス ラインの研究を目指すという壮大な構想を持っておられプラネタリーミルたと聞く。しかし、現実に導入するにあたっては、上記 構想とは別に所内の各部から、オースフォーミングの様 な加工熱処理に適用出来ないかとか、従来圧延では加工 できない難加工特殊材料の圧延をやったらどうか、など 様々な意見が出され、具体的な研究課題と担当者は固ま らないままに基礎工事だけは進んでいたようだった。 その頃、私は駆け出しの研究員としてダイナパックと いう高速鍛造機による衝撃押出しの研究を前任者から引 き継ぎ、衝撃静水圧押出しという新しい試みを始めたば かりであった。そんなところへ、突如、プラネタリーミ ルは同じ塑性加工だからお前がやれというご下命があ り、それまで全く蚊帳の外にいただけに訳が分からず、 びっくりするやら、腹も立つやらで、若さもあってあち こちに随分嚙みついた憶えがある。いろいろと側聞した結果、それまでにかなりの紆余曲 折があったようで外堀はすでに埋め尽くされており、結 局引き受けざるを得なくなっていた。とにかく、鈴木正 敏室長(後の第三代筑波支所長)以下、田頭、酒井、そ れに急遽こちらの要員に廻された新人の大久保(現在の 城田)氏ら、鉄鋼研究室の一部が〝百キロ鍛圧班〟の協 力を受けて担当することとなった。私がタッチし始めた段階での工事の進捗状況は既に本 体の据付け組立に入っており、丁度ドイツからの技術者 も三人やってきたところだったので、日本側の組立業者 と「オーケー」と「ノー」だけの二進法で進んで行く過 程を興味深く見ることが出来た。それでも施工法や手順 についてはしばしば衝突があり、双方の仲介に入らざる を得ないこともあった。ドイツ人技師が鬼のように真っ 赤になって怒りながら「ニシマキ(施工業者)がカプッツした」とはよく聞いたせりふで、kaputtとはブッこわ してしまった時によく使うドイツ語であることをこのと き知った。彼らは日本人組立工がよくやるモンキースパ ナやインチスパナの流用を厳密に避けており、結局必要 なメートルサイズをすべ て揃えることになったが、こん な所にもドイツの工業製品が高い評価を得る裏付けを感 じた。のっけからいちばん緊張したのは、何といってもお披 露目圧延の時で、既にドイツ人技師は帰国してしまった 後のことだった。国内の関係者を百人近くも招待し、実 操業披露の後にレセプションパーティまで用意されたも ので、こんな派手な装置披露は後にも先にも記憶にない。 それだけにクルー一同は相当なプレッシャーを感じてい たが、前の日までの試圧延では失敗の連続で、ようやく 最後の一本がコイリングに成功しているだけで当日を迎 えていた。なにしろ九六% (五十ミリ→二ミリ)の高圧下率圧延 をするので、左右のバランスがちょっとでも狂っている と変位も速度も二十五倍に増幅されたストリップはラン ニングテーブルからアッという間に飛び出し、巨大なさ なだ虫がのたうつようにして一瞬の内にスクラップの山 を量産してしまうのだ。しかもこれがかなり危険をもた らすので瞬時に適切な判断を要求されるのだが、ス ウェージングマシン百台位を同時に動かしたぐらいの轟 音をたてるマシンの脇ではパニック寸前の状態で、頭の 中が真っ白になるのだった。眠れぬ夜で迎えた当日の圧延は、それでも谷治、斎藤、 本多さんらのチームワークよろしきを得て、二本目の成 功例として実にスムーズにコイリングまで至り、中二階にびっしりのお客さんが見守る晴れがましき舞台で金材 技研の面目をつぶさずに済んでヤレヤレといった感じ だった。もうひとつ今思い出してもゾッとするのは、ロールが クラッシュした時のことである。本体設置から一年後に 専用の加熱炉も完成し、それまでの非鉄系材料の圧延か らいよいよ鉄鋼系へと移る最初の試験圧延の時のこと だった。実のところ、この方式の圧延機ではドイツでも鉄鋼材 料の圧延実績を持たず、当然マニュアルも無いため、非 鉄系の圧延でのデータとようやく作ったばかりの理論解 析をよすがに操業条件を決めるしかなかった。その日も 未慣熟のせいもあって加熱炉の調子はいまひとつで、早 朝からの加熱にもかかわらず長さ三メートル重さ二百キ ロの軟鋼スラブはなかなか設定の千百五十℃に上がって くれなかった。実験場に西日が射し込む頃にいよいよゴーということ になり、灼熱スラブを油圧プッシャーで圧延機に押し込 んだ。これもこの日初めて作動させた百気圧の噴水でけ たたましい音をたてる一次デスケラーを通過したスラブ は少し冷えたかなと思われる程度だったが、遊星ロール 直前のフィードロールと二次デスケラーを通るに及んで スラブ先端の角がちょっと黒づんでいるのに気がつい た。危険を感じてストップの合図を出す暇もあらばこそ、 スラブの先端はアッという間にワークロール公転軌道に 吸い込まれていき、今までにない大音響を発して圧下が 始まってしまった。その直後に今度はバリバリと機銃掃射の様な音も加わ り、実際、沢山の何かが猛烈な勢いで飛び出してきた。後で分かったことだが、飛散したのはワークロールを バックアップしているリング状の中間ロールが破砕した もので、鋭い角を持った破片がかなり遠方の壁面にも食 い込んでいるのを見て背筋が寒くなった。遅ればせなが ら急停止を掛けたのはいうまでもないが、何といっても 胸をなで下ろすことができたのは誰一人怪我をしなかっ たことで、特に出口側でピンチロール操作に待機してい た谷治さんは最も危ない位置にいたのだった。 この修復にはこれまた素人集団による悪戦苦闘の数ヵ 月を要したが、このこと以来、高圧下・強加工が売りも ののこの圧延機が実は相当に華奢で繊細なマシンである と認識を改めることにした。その後、非鉄メーカー、ステンレスメーカー、鉄鋼メー カーなどと一通りの材料について共同実験も実施した が、彼らの最大の関心事は自社の扱っている材料がうま く圧延できるか否かということにあったようで、国立研 究所のセンスとは幾分の齟齬を感じないわけには行かな かった。といって当初このマンモスマシン主体のテーマをどう 扱うかでは随分悩んだのも事実で、これら民間との共同 実験を通して多くの材料や条件を扱ううちに、何より重 要なのは単なる装置固有の或いは特定材料固有の研究に 終わらせずに、従来圧延法との対比で遊星ロール圧延方 式の普遍的な圧延特性を総合的に明確にすることだと判 断されるに至り、その方向で研究を進めることにした。 その結果、圧延時の特異な負荷特性や変形挙動、そして 圧延された板の性状・形状、さらには圧延材の材質や集 合組織に現れる特徴など、基本的なことの大部分を把握 することが出来たと自負している。当時、方式こそ若干異なるものの同種の圧延機による 生産ラインでの操業実績を持つ日本治金、日立金属、大 同特殊鋼の技術者から、「やりたいと思いつつも民間のラ インではとてと出来ない実験でのデータを提供してくれ て非常に参考になった」と言われたときは嬉しくもあり、 また方針が必ずしも間違っていなかったことも確認でき た。しかし「論文一報百五十万として百報ですね」といっ ておられた河田(第二代)所長の期待にはとても応えら れずに終わってしまい、面目無い次第である。 結局プラネタリーミルは高能率大規模生産を指向して 発展した爾後の圧延ラインには必ずしもマッチしなかっ たが、その省エネルギー性・高効率性・省スペース性などでは他に類を見ない利点があり、未だに生産規模や経 済環境の如何によって復活のチャンスは留保されている と考えている。現にミニプラントのアイデアルなレイア ウト例には、今もってプラネタリーミルがよく登場する。 何はともあれ、大きな事故もなく無事研究を終了でき たのも、当時の工業化研究部をはじめ周りの方々の多大 な協力や支援があったからこそと感謝している。目黒を 去るに当たって薄暗い工場に鎮座したまま沈黙している ミルの前で城田氏と記念撮影をした折、轟音の中で汗と 油にまみれた当時を思い起こし、ちょっぴり感傷的な気 分になった。(組織制御研究部)30号庁舎・溶接実験場の思い出 中村治方昭和三十五年度に30号庁舎が建設され、創立以来の溶 接研究の指導者であった鈴木春義先生のもとに夢多き研 究者が集まり、特色ある研究が本格的に開始された。 金属材料の溶接性研究と溶接プロセス研究の両分野に おいて、先見性のある研究が芽生え、わが国の溶接研究 をリードしていた時代でもあった。30号庁舎の建設に当たって、溶接試験研究設備は重量 物が多いため、各階の床荷重を大きくとってもらった。 鉄骨平屋の棟には各種溶接・接合装置や大型クリープラプチヤ試験機等が設置されたが、北側にある宿舎の日照 のためか棟の高さが制限され、天井走行クレーン設備の 揚程が大きくとれず、音が大きいことで悩まされた。し かし、共用できる大型の圧搾空気設備が設置され、電源 容量も十分見込まれていたため、その後の試験研究の実 施にどれ程役立ったか計りしれない。 鉄骨平屋では材料搬入・切断・溶接という一連の作業 を行っていたので、作業の安全ということには各自十分 に注意していた。とはいっても時には危ない思いをした こともあった。鋼板のガス切断にはボンベ詰めのアセチ レンと酸素ガスで行っていたが、作業中に酸素ガスの ホースが外れ、その先に着火して火のついたホースの先 がはねまわったことがあった。幸い火傷もなくボンベの 元栓を締めることでけりがついたが、ガスの取扱いにつ いての注意を思い知らされた一件である。1,000トン引張拘束割れ試験装置溶接性研究では高張力鋼の溶接割れ試験、溶接部大型 クリープラプチヤ試験、溶接プロセス研究では片面溶接 法、エレクトロスラグ溶接法、摩擦圧接法などの研究を 夜おそくまでやっていたが、真夏の暑さはともかく、厳 冬期にはスチーム暖房のないところで下着を十分着込ん で何とか耐えていた時代であった。巡回に来られた橋本 守衛長に時々声をかけてもらったこと、当時一緒に仕事 をしていて既に鬼籍に入った同僚のことなどが思い出される。物理、化学、機械、電気、金属などの研究者が集まっ てスタートした溶接・接合研究では、お互いに啓発され ることが多く、ユニークな研究がはじまっていた。それ に関心を持った民間各社から共同研究の申し入れがあ り、多数の研究者が集ってきておられた。その中には、 わが国ではじめて試作された電子ビーム溶接機による電 子ビーム溶接、特許取得数の多い各種片面溶接、摩擦圧 接、プラズマ溶射などのプロセス研究や引張拘束割れ(T RC)試験、溶接用CCT試験などの溶接性研究があり、 それらの研究成果に引摺られてわが国の溶接・接合研究 が活性化していった感が強かった。さらに、各社の派遣 研究者は帰社後、溶接・接合研究のリーダーとして活躍 され、恰も溶接・接合研究者の育成の場の感もあった。 鈴木春義先生の「実験に際しては細心の注意をもって、 現象を観察しなさい」という指導方針に従った結果、鉄鋼溶接時の低温割れが水素による遅れ破壊現象であるこ と、アーク溶解した溶融金属から超微粒子が生成される ことなどの事象が明らかとなり、金材技研の面目を施し たことが多々あった。現在でもこの伝統は引継がれ、溶 接・接合研究の分野で注目すべき成果を挙げておられる ことは頼もしいかぎりである。(組織制御研究部S32・10・1～45・6・3058・ 4 ・1～H5 ・ 3 ・31)日本初の電子ビーム溶接機入江宏定昭和四十二年、私が金材研溶接研究部圧接研究室に赴 任してきたとき、すでに電子ビーム溶接機国産一号機は 試作以来六年余りが経過していた。高真空型から高・低 真空両用型への改造も経験し終わっており、30号庁舎113 号室床の二分の一以上を占領する巨大な設備に変身して いた。かなり使い込まれており、溶接テーブルはガタが きており、外装もところどころ塗装もはげ落ちてしまっ ていた。最初に受けた印象は、「好感が持てる」からはか なり隔たったものであったように記憶している。 国産一号機といっても、その導入は当時の橋本達哉室 長であり、研究を実施したのは松田福久氏(現阪大教授) であり、私には導入時の詳細やエピソードは定かではない。赴任以来どの研究を担当するかを決めるときに橋本 室長とダベリングしたときの話が、かすかに頭の片隅に残っている程度である。私なりにいくつかの断片を想像で繫ぎ合わせて、極め て事務的にその導入経過を記述すればこのようになると 思う。昭和三十四年当時、溶接研究部(だけでなく所全体と 思う)は設立後間もない時期で、国全体の産業育成政策 に基づき積極的に設備投資が行われていた。研究部の設 備導入のプロジェクトの一つに原子力研究があり、原子 力分野での新しい溶接技術開発が指向されていた。 昭和三十三年、真空に関する国際会議で、フランス原 子力研究所のストール氏が原子力燃料棒端栓(ジルコニ ウム合金)の封じ切り溶接に電子ビームを適用した報告 を行った。その成功・非成功は当時の論文からは余り明 確ではなく、アイデアが中心である。しかしジルコニウ ムのように大気汚染に非常に敏感な合金の溶接を電子 ビームのような真空雰囲気で行うのは、当時としては画 期的なアイデアである。そこで、早速この電子ビーム溶接なるものを橋本室長 をはじめ幾人かの研究者で導入を試みた。どのように設 計し見積もったかは明らかではないが、予算を執行する 段階で非常に苦労されたようである。電子ビームは当時顕微鏡にしか使用されておらず、製 作を電顕の代表企業である日本電子に依頼した。しかし 電流値が三桁以上大きくなる溶接機は冒険が多く、設 計・製造者も二の足を踏んだようである。発注仕様書の 性能も現在のものを基準とするとかなり鷹揚であったと 思われる。端的に表現すれば、失敗を覚悟でできるとこ電子ビーム溶接機国産1号機ろまでやらせたようである。電子ビームの調整にあらゆ る所に調整ネジがあり、一方では電子銃を構成する要素 (フィラメント、ウェネルト、陽極など)は幾つかの種 類が用意されたようである。一応銘板での定格出力は五十キロボルト―五十ミリア ンペアであったが、百ミリアンペア用の電源容量とフィ ラメントも用意されていた。したがって私が担当し操作 をはじめたとき、全体構造図面はあったが、明確な取り 扱い説明書やパーツ一覧表はなく、一定のビームの質を 確保するのはかなりの取り扱い経験と熟練を必要とし た。これも自分の気に入った「質」であり、最適溶接を 実施するための質かどうかは最後まで判らなかった。部 品は発注仕様書とは無関係に業者がかなりの種類を用意 したらしく、それらを適当に組み合わせて使用したが、 最後まで利用しなかったり、またどの部材かも判らな かった部品もかなりあった。今の装置購入と比べるとあまりにいい加減であると思 われるが、当時の日本の技術水準を考えると当然のこと であり、新しいことを試みるにはこの程度の鷹揚さが あって当然とも思える。いずれにせよ、この電子ビーム溶接機によるジルコニ ウム合金端栓の溶接は見事に成功している。ただし燃料 棒は中にヘリウムガスを封入する必要があるため実用化 には至らず、その後低真空型に改造し、一トール程度ま での溶接の研究を行った。さて、本装置の最初の目的は端栓溶接であり、TIG アーク溶接に置換するための研究であったが、電子ビー ム溶接はその溶接過程が際だった特徴を有することが研 究開始後判明し、まったく異なった方向に開発が進展して行った。あまりに専門的になるので詳細は省くとして、電子 ビーム溶接の特徴は溶融幅が非常に小さく、深く溶ける ことである。つまりポピュラーなアーク溶接とは全く異 なり、厚板の溶接面の両面を上から下までほぼ均一に、 薄く溶かして溶接できることである。このように電子 ビーム溶接は深く溶接できることから、見学者のかなり の人が溶接の合わせ面に電子ビームが下まで入り込んで いく「��間」を設ける必要があると思い込んで質問して くるが、実際は合わせ面は密着すればするほど良い溶接 結果が得られる。このような特徴は研究者にとって垂涎の的となり、燃 料棒よりそちらの方に研究の主力を注ぐ結果となるのは 当然の成りゆきである。二年後、やはり原子力研究で厚板の精密溶接をターゲットとして、米国から大出力機(十五キロワット、そ の後三十キロワット型に改造)が導入された。こちらの 方は導入一号機ではなく、IHIが航空機用にミル仕様 に併せて導入したものがわずかに早い。これだと六十ミ リ程度の厚さの鋼が一気に溶接でき、かなりの研究者が 重工業企業から派遺されて実験を行った。 さて、その後の研究経過はともかく、公式、非公式を 問わなければ、当研究所の電子ビーム溶接機は非常に多 くの大学、企業の研究者が利用してきた。残念ながらこ れらの方々の多くは現役を退いた年代層になっている。 現在電子ビーム溶接機は、正確な統計はないが、推定 八百台以上が稼動しているものと思われる。しかし、こ れまでの電子ビーム溶接機の産業での普及は順調という 訳には行かず、大きな山と谷を経験してきた。まず、設備が非常に高価であり、しかも真空雰囲気を 利用する。したがって、普及には稼働率を高め、高速溶 接のメリットを利用して生産コストを下げるか、あるい は高品質を製品コストに転化するかである。残念ながら 日本の生産はどのような品質向上を図っても、製品コス トの絶対値を下げなければ普及は望めない。したがって 普及は著しく景気の動向に左右されている。 導入当初は「真空」が問題となってあまり利用されな いと予想した人が大部分であったと思われる。しかし、 その後の設備の改良に伴い、排気時間も著しく短縮され、 しかも付加価値も加わり、自動車産業などでは電子ビー ム溶接自身による効果よりも生産ライン全体に及ぼす製 造コスト低減の効果が期待できるようになり、石油 ショック後の高経済成長期には著しく普及した。これら は国産一号機と同レベルの三～六キロワット機が使用さ れており、全体の普及台数の九十%以上を占めている。 一方、大出力機の普及は限られている。ほとんどが原 子力関係やジョブショップ(大型真空装置部品の依頼溶 接などに使用)など比較的高コストの製品の溶接に使用 されているが、電子ビーム溶接のいくつかの特徴を活用 したものであり、本来の電子ビーム溶接の利用といえる。 電子ビーム溶接の産業界での動向が長くなってしまっ たが、われわれの研究成果がどのように産業で利用され たかは残念ながら明確ではない。電子ビーム溶接そのも のがどのように利用されているかが「公式」には明らか にされていない分野の生産現場で利用されているためで もあるし、導入を図った技術者の世代も大部分がリタイ ヤしているのでつまびらかではない。しかし企業での電子ビーム溶接の研究開発が景気の動向に非常に大きく左右されながら進展していったのに対 し、当研究所での絶えざる電子ビーム溶接の溶接過程に 関する基礎研究により明らかになったこと、少なくとも 電子ビーム溶接のメリットやデメリット、彼らが直接に 溶接結果を手にして観察したこと、あるいはわれわれと の討論が、彼らが生産に導入する際に技術的には大きな 影響を与えたことは間違いない点と考えており、今や常 識となっている本溶接の知識の構築にわれわれが大きく 貢献したと自負している次第である。(組織制御研究部)30号庁舎溶接実験場クリープデータシートプロジェクトの思い出河田和美 横井 信 池田定雄 田中千秋門馬義雄山崎政義田中今から三十年前の昭和四十年四月に立ち 上がったクリープデータシートプロジェク トの思い出話しに花を咲かせましょう。 このプロジェクトには開始以前から今日 まで、多くの人々の努力が傾注されてきま した。本日はプロジェクト計画の立案と実 施推進を主導された河田和美先生と横井信 先生を囲み、これにかかわる思い出を記録 に残そうということで、データシート計画 がスタ—トした頃に異動あるいは入所した 四人を交えて思い出話しをしたいと思いま す。なお、データシート計画は、当初の計画 では、クリープ、疲労及び大型構造物特性 の三本柱があり、国立材料試験所設立構想 となっていました。実際に日の目を見たの はクリープと疲労ですが、本日はクリープのみに焦点を当てたいと思います。 クリープデータシート計画構想の頃 門馬 私は昭和四十一年四月に金材技研へ入れ ていただきましたが、その時にはすでにク リープデータシート計画は河田先生のご指 導のもとに横井先生、田中さんがやってお られて試験設備などの大枠ができあがって いたと思いますが、そもそもクリープデー タシート計画が構想されたのはいつ頃だっ たのでしょうか。河田 耐熱合金の研究は金材技研設立当初から はじめていましたが、データシート計画の 話が出たのは昭和三十年代後半です。 横井金材技研ができたのが昭和三十一年でそ の二―三年後にはクリープの研究は中川龍 一さん、乙黒靖男さん、その後に依田連平 さん、吉田平太郎さん、渡辺亨さん、河部 義邦さんで進められていました。ただ、そ の時の材料の対象は超耐熱合金だったよう に思います。門馬 そもそも金材技研ができたのは、原子力 材料と航空機のジェットエンジン用耐熱材 料の開発のためだとある人から聞いたこと があります。河田そうですね。その後金属材料に関する総 合的な研究所を目指そうということで。 横井 その頃の日本は戦後十数年経ち、産業が 発展してきて電力が不足し、米国のGEやWHから三十五万～五十万キロワット級の 火力発電所を輸入しており、エネルギーの 確保が大きな課題でした。一九六四年頃に は資源調査所から火力発電の増設が勧告さ れ、鉄鋼業界でも、ボイラ用材料や耐熱鋼 の国産化や輸出が計画されはじめていまし た。このような動きは世界的なもので、一九 五〇年代はじめにはASTMから高温特性 のデータ集シリーズが発刊されていまし た。そこで日本でもやろうということにな り、一九六一年には鉄鋼業界内部ではじめ 計画していたようですが、景気の後退で 「官」で何とかする必要があるということ で、橋本宇一所長が大変なご努力をされて 金材技研でやることにしたようです。 このような気運になったのは、景気の後 退もさることながら、火力発電の増設が大 きいんじゃないかと思います。そのため高 温関係のボイラ材、タービン材を国産化す るとともに輸出しようと考えたんだと思い ます。輸出を考えたとき、やはり高温のデー タが無いと駄目ということが一番大きかっ たんじゃないでしょうか。一九六一年(昭和三十六年)に金材技研 に所内クリープ委員会ができて、河田委員 長、中川、依田、岩本兼敏さんがメンバー でしたが、私はその頃に河田先生、遠藤勝 治郎先生に呼ばれてクリープの研究をはじめました。試験設備等を調査するため、当 時京大教授の平修二先生を団長として海外 へ視察団が日本鉄鋼協会より派遣されてい ました。その後、大型試験施設の調査のた め河田先生も海外視察へ出かけられました ね。それらを契機として、日本鉄鋼協会にク リープ委員会ができました。この委員会は トップクラスの人達がバックアップして下 さいました。例えば、三島徳七博士 (初代 委員長)、俵国一博士、神戸製鋼所の浅田長 平会長、等々で、今考えても壮そうたる方 達です。田中当時の鉄鋼業の意気込みが感じられます ね。門馬 場所を中目黒の防衛庁の池の側に決めた 経緯はどうでしょうか。田中中目黒を建設地と設定する前に、管理部 長の戸部健次郎さんはじめ幹部の方々が千 葉の四街道方面へ土地を見に行ったようで すね。横井 そういえば、官用車三台くらいで行きま したね。当時から筑波の話もありましたし ね。場所の決定についてはよく知りません でしたが、当時の本庁や管理部の方々のご 努力で目黒地区に決まったようです。ここ は防衛庁の土地ではなく大蔵省の関東財務 局のものだったようです。河田 みんな目黒から離れたくないと思っていたのが一番大きかったんじゃないかな。当 時の千葉とか筑波は草深いところでした よ。横井 ここに決まってから田中さんと見に来ま したが、駐留軍が使っていたところで草が 茫々でしたね。トーチカの後みたいなもの があり、瓦礫が結構ありましたよね。 田中 ここの土地はもともと軟弱な地盤ですよ ね。そのために基礎工事には業者から追加 費用を請求されましたね。横井橋本先生の話では子供の頃はここは田圃 だったそうで、良く遊んだよと言われてい ました。下が目黒川の河川敷で上に三田用 水が流れ、戦時中は用水の水で水車を廻し て黒色火薬を作っていたんですね。火薬工 場は壁はコンクリートでしたけど屋根は木 造になっていて、事故が起こった時大きな 抵抗にならず簡単に吹き飛ぶ構造になって いました。田中 それを内圧クリープ試験室の設計の参考 にしました。ところで、材料試験所準備室の設置法が 昭和三十九年七月一日に国会を通り、準備 室ができ、私はそこに入りました。当時、 横井さんは高温強さ研究室の室長さんでし たが準備室付きとなり、翌年の四十年四月 に準備室が材料試験部となり、横井さんが 試験課長となって建物の建設がはじまりま した。山崎 私が入った昭和四十一年四月、試験課は まだ4号庁舎に居室があり、池の対岸で工 事がはじまっていました。 横井 最初の予算が三十九年度で、四十年度か ら本格的になりました。通産省ではなく科 技庁によくこういう予算が付いたと思いま すね。関東地建、業者の人達をはじめ、考 えられないくらい多くの人にお世話にな り、驚く程の名刺をもらったのを覚えてい ます。建物と試験機の設計を同時にやった のが後から思うと良かったと思っていま す。門馬 昔、国立材料試験所構想の書類をみたこ とがありますが、百五十人規模で金材技研 から独立するようになっていましたね。 横井 試験設備を千百台規模にした根拠などの 資料作りには苦労しました。高温材料の規 格材をリストアップして試験温度、応力条 件などを掛け算して、何台あったら何年か かるというような案を幾つも作り、河田さ んのところへ持って行きました。河田さん が予算書を見て間違いを見つけるのが早い のと、暗算が早いのには驚きましたね。河 田さんに書類をよく突き返されましたね。 今思えば紙屑ばかり作っていましたよね。 田中一緒にやっていた内山雅亘(のちIBM) さんが徹夜で紙屑を作っているとぼやいて いましたよ。予算書も手回しのタイガー計 算機を使って計算していましたが、横井さんは手回しが早かったですね。 横井今では考えられませんが、予算をとるの に当時は企画課長や庶務の方達と私自身が 大蔵の主査に説明に行きました。その時の 主査が後年、科技庁の事務次官になられま したね。当時ここを作るのに、クリープ委 員会の三島先生と神戸製鋼所の浅田会長さ んから是非作ってほしいという要望書が大 蔵省へだされていました。大蔵省とのことで一番印象に残っている のは電気料金のことです。電気料金を予算 として確保していなければやっていけない ですから、航研の風洞実験を参考にして付 けてもらいました。基本的な経費は最初に 付けておかないとなかなか後からは認めて もらえませんからね。人も一番多いときで 四十数名付けてもらいました。 田中横井さんが大蔵に行けば予算が付いてく るので、下請けしてておもしろかったです よ。横井河田さんにいろいろ指示されて、毎日朝 の三時、四時まで頑張りましたね。 田中 河田さんからの宿題がでるのが夕方の五 ―六時頃で、翌朝までにはもってこいとい うことでしたからね。建物と試験機を整備 していた三―四年間は本当に大変でしたけ ど、私は楽しかったですね。 河田 後年、横井さんはその頃のことで人使い が厳しかったとよく怒っていましたね。私が海外視察に行っている夏の間に予算が通 る目処がついていました。後にクリープ試 験部長になった企画課長の吉村浩さんをは じめとして、管理部の人達も頑張ってくれ ました。当時としては大きな予算でしたね。 クリープ試験装置山崎 クリープ試験機を二階に設置したのは当 時としては珍しかったですよね。それに、 クリープ試験機そのものもいろいろ工夫さ れています。横井そうですね、海外ではよく地下に置いて ありましたが、河田さんが、あれは地下が いいから置いたのではなくて地下くらいし か置くところがないから置いてあるんだろ うとおっしゃいまして。河田そうでしたね。田中 アンカーボルトを使うと床が厚くなって 重くなるので、レールに固定する自立型に しました。横井試験機を並べるのに、ベニヤで囲って試 験操作のシミュレーションを田中さんにい ろいろやってもらいましたね。そこで一番 大きな失敗は、アングルに定尺物を使って 材料を節約したため、試験機の高さが少し 低かったことですね。自分が背が低いから 気がつかなかったけど、まさか後で永井秀 雄君みたいのが入ってくるとは思いもしな かった(背の高い若い人達はクリープ試験機のレバーが頭にあたり危険)。 田中 私も背が高くありませんので気がつきま せんでしたが、次年度分から高くしました ね。それでおもしろいことに、背の高さで 試験機の担当が決まっちゃいました。 門馬 オイルジャッキ付きのダンパーを使った のも初めてですね。 山崎割型の炉ではなく管状炉にしたり。 田中 アイディアをこちらから出して試験機 メーカーに作ってもらいましたが、新奇的 なものがいっぱい詰まっているクリープ試 験機といえます。入札で一社だけには行か ないだろうということで、最後はどの会社 に行っても同一仕様になるように部品図を 含めた試験機の詳細な設計図まで書きまし た。横井試験機は四社から納入されましたが、本 体はみんな同じ設計になっています。メー カーに協力してもらい、コネクタやプル ロッドなどの治具関係もすベて互換性を持 たせました。管状炉にしたのは長時間試験 であることと熱の損失を少なくするためで すが、外壁をステンレス製にしました。炉 は後年に清水勝さんにいろいろ苦労しても らって、省エネ炉に改造して電気の消費を 押さえました。田中この改造は電力削減に大きな効果があり ましたね。データシート試験の開始山崎 試験機の整備が終わったのが昭和四十四 年で、本格的なクリープ試験を開始したの が四十五年のはじめぐらいからですね。 河田データシート試験をはじめるまえに、ど んなデータシートを作ったら良いか検討す るために24号庁舎のクリープ試験機を使っ て予備試験を行ったね。予備試験のデータ を横井さん、田中さん、門馬君、新谷紀雄 君で解析してもらい、鉄と鋼に投稿したん ですね。田中 あの論文はその後クリープ強度の統計的 解析研究のバイブルになりました。材料強 度の解析に統計学を取り入れ、大型のコン ピュータを使って(当時、金材技研にはコ ンピュータは無く、日本科学技術連盟のTOSBAC 3400Cを用いた)解析したのは当時としては先端的なことでした。金材技研で大型コンピュータを使って論文を書いた 最初のものでしょう。門馬現在はパソコンで解析できますが、クリープ破断データの標準的な解析方法とな りました。田中 第一期のクリープデータシート作成の テーマは昭和四十一年度から十五年間を目 途にスタートしました。それで装置の整備 と並行して材料の選択も進めましたが、多 種多量の材料をきちっと管理しなくてはと神経を使いました。ちょうど山崎君が入ってきたので、素材から試験片を加工する管 理を専門でやってもらうことにしたんだよね。 山崎 はい、田中さんが鋼種を系統的に分類し てコードを決められて、それにそって試験 片番号を付けてビッドマー社製の引き出し に収納しました。最初は五メートルもある ボイラチューブを工業化の高速カッターで切断しました。田中さんが第二試験室へ移 られてからは新谷さんと相談してロータ材やケーシング材等を切り出しました。今で も試験片のサンプリング位置を追跡できますよ横井 材料の選択ではプロジェクトを開始する 前に河田さんが二回くらい懇談会を開き、 各社の専門家(三菱重工の磯部裕さん、山 内英和さん、日立の佐々木良一さん、住金の池島俊雄さん、三好栄次さん、神鋼の山 本俊一さん、川重の前田徳美さん等)の意 見をお聞きしました。その後は日本鉄鋼協 会クリープ委員会の方達にご意見を伺がい ながら進めました。クリープデータシートで取り上げた材料 はすべてどこかのプラントで使うために製 造したもので、複数メーカーから一社三 ヒートずつサンプリングすることを原則に したのが良かったと思ってます。ヒート間 のばらつきをみられるのは大きいです。こ の原則を押し通したので、外部からはとやクリープ試験機かく言われませんでした。河田そうでした。そのため四十一材種六百 ヒート以上の鋼種を取り上げました。特に、 クリープ委員会の田中良平委員長(東京工 業大学教授)には長年に亘り大変熱心にご 助力載きました。門馬 私は入所してすぐ、伊藤弘さんと一緒に 計量研究所へ温度計測の勉強に五十日くら い行かされました。熱電対の検定システム を標準化して、温度標準室を作りました。 田中 クリープ試験の温度管理についてはわが 国の先導的役割を果たしましたね。 山崎 国内でクリープ試験を担当している人は ほとんど見学に来て、勉強していきました。 クリープ試験も、担当者によるばらつきを 小さくするためマ ニュアルを作りました ね。横井 そうですね。伊藤さん、馬場栄次さんに 標準的な試験方法のマニュアルを作っても らい、若い人達を指導してもらいました。 データシートは絶対値が大事で、材料開発 のように相対的な比較ではないので、温度 とか試験方法の標準化は必要でした。また、 今では考えられませんが、研究者みんなに 交代で宿直をしてもらいました。若い人の なかには宿直を恐がっていた人もいたな。 田中 私も泊まりましたが、誰かがここは昔お 墓だったなんて脅したんですよ。 山崎昭和四十二年に池田定雄さんが移ってこられ、受託試験がスタートしましたね。 池田 河田先生からクリープの受託試験を立ち 上げるよういわれ、業務課の小山一男さん と受託試験約款づくりからはじめました。 一番最初の受託試験は、現在東大工学部に いらっしゃる朝田泰英教授が三菱重工(株)長 崎研究所時代に依頼にこられたものです。 約三百台の試験機を受託試験用にしてま したが、最盛期には二百八十台稼動してま した。田中 受託試験で大変なのは試験ばかりでな く、予算管理で歳出・歳入見合いで予算に 付いた歳入予定分は試験をしなければなり ません。この辺の調整は池田さんの本領発 揮でしたね。池田 その辺の調整は私はたいして苦ではあり ませんでしたが、ある会社が十万時間のク リープ破断試験を頼みに来たときは、ク リープ伸びも測定するように言いました。 時間あたりの単価は高いですが、伸びを 計ってれば万が一事故ってもそれまでの データが生きますからね。無事十万時間を 超すデータを出して感謝されました。この 間に会社の担当者は三人ぐらい代わりまし たね。河田 受託試験でも十万時間を超すデータを出 したんですね。横井受託試験も大変な仕事ですね。だけど、 受託試験を通して産業界の現場のいろいろな情報を得ることができました。 池田鉄鋼メーカやファブリケータの工場や研 究所に見学に行き、ディスカッションの場 を作り、学会とは違う本音の話しを聞くこ とができました。田中 しかし、受託試験をやっていた人が実は 処遇では一番割をくいましたね。 山崎 仕事の量は多いし、失敗はできないし、 正確なデータを出さなくてはならないしで 神経を使います。横井 そうですね、申し訳ないと思ってます。 そうやってキチット一生懸命仕事をした人 が処遇で不利なのには困りました。やはり 研究をして論文を書く研究者と、正確ない い実験をやるんだという人やきれいな写真 を撮るんだというような人を、研究技術者 として職種をわけて給与面を考えてもらわ ないと困りますね。論文だけで評価するの はおかしいですよ。もう少し考えないとい けないですね。山崎 本格的に試験を開始してからは、毎年、 年末年始の十二月三十日と一月二日にも測 定しに出勤して来ましたね。途中からは大 晦日一日だけになりましたが。 横井お正月でも、地震があると出てきました ね。山崎元日に地震で呼び出されたこともありま した。田中 約十年間部長をやっている間に、何度か正月に緊急事態などで出てきましたよ。 横井 いろんなことを考えると一言では表現で きないくらいのデータですね。データシートの評価河田昭和四十年から今日まで、部長は何代に なりますかね。私の次に吉田進さん、吉村 浩さん、依田連平さん、鈴木正敏さん、横 井信さん、田中千秋さん、八木晃一現部長、 八代になりますか。長く続きましたね。成 果も随分挙がったでしょう。 田中 最近受けた外部評価委員会の結果では データシートは大変高い評価を受け、まだ まだ続けるベきだとのご意見もありまし た。最初は大変でしたけれども、地道に長 くやっていれば評価されますね。 門馬 でも、横井さんや田中さんは、本庁の担 当者が二―三年で変わるたびにデータシー トの必要性の説明に行かれて、理解しても らうのに大変だったようですね。横井そうね。田中 誠意をもって説明すればわかってくれる 人もいましたよ。後からは応援団になって くれた人もいましたね。横井 なぜ科学技術庁の仕事だということもいわれましたね。門馬確かに「夢」だの「スーパー」だのとは 違いますが、かえって他の官庁でなかった のが良かったと思います。横井・田中 そうですね。もっと政治的になっ ていたでしょう。横井データシートを河田さんが最初から英語 で出版しなさいということで英語で出しま したが、国際的に通用するものになって良 かったですね。門馬 海外でも高温強度の研究をしている人は 誰でも知っていますね。田中 米国でも非常に高く評価されており、私 達が積極的に働きかけたからかもしれませ んが、ASMEの規格で許容応力の見直し には使われています。それにひきかえ、日 本ではなかなか直接反映されません。 横井 もったいないですね。通産省はじめ電力 とかファブリケータの関係者に働きかけ話 をしたことはありますが、規格に反映させ るのは難しかったです。でも会社では随分 利用されているようです。山崎 データシート関連研究でも、門馬グルー プの時間―温度パラメータの材料定数最適 化のための統計的取扱いとそのソフト開発 と普及や、新谷グループによる破壊機構領 域図の作成など高温強度評価や余寿命予 測、田中・八木グループの特殊なクリープ 特性の解明研究などで貢献しましたね。 横井コペルニクスが地動説を確立するために はその先生が膨大な観測データを蓄積して いたことがあったからだと、何かの本で読 んだことがあります。以前に依田さんや田中良平先生がおっしゃっていらしたように データシートは宝の山ですから、まだまだ 調べることはありますよ。例えば、フェラ イト鋼におけるMoの効果の解明など。 田中Moの効果は原子領域の視点から今やって います。期待してください。ところで横井さん、データシートには大 勢の人がかかわってきましたが、何か面白 い話はないですか。門馬 クリープデータシートに関わってきた人 達は通算で百人は超えていますね。 横井 そうですね、どこまで含めるかですが。 田中初期の頃の人でやめた人が多かったです ね。横井 初めて話しますが、地方からの若い人が 多かったので、採用して数ヵ月以内に内緒 でその人の住んでいる所を確認しに行きま した。田中それは初めて聞きましたね。横井体の弱い人もいましたし、何かあった時 に連絡がとれないと困りますからね。いろ んな人がいて、若い人をたくさん預かると 大変でしたよ。また、白金とか貴重なもの をあつかっているので神経を使いました。 伊藤さん、馬場さんがキチット管理してく れたのでよかったですが、二人は犠牲者に なっちゃって申し訳ないですよ。縁の下の 力持ちになっている人が不遇だと本当に困 ります。山崎 当時の若手だった人で、子供がもう成人 式の人もいますよ。これからのデータシートは田中 思い出はこのくらいにして、河田さん、 横井さん、外にでられてから第三者として 見た場合、まあ当事者が第三者になるのは 難しいかもしれませんが、データシートは どんな感じがしますか。河田 今までの設備や手法をそのまま続けてい ては行き詰まりますよ。建物の老朽化も心 配ですが、試験機も温度の上限を千℃より もっと上げたりグレードアップして、材料 も鉄鋼ばかりでなく非鉄やセラミックス・ 複合材料でもいいでしょう。 横井鉄鋼にこだわりすぎたかなということ と、火力でも超々臨界圧の材料をもっと早 く採り上げればよかったかなと。コンバイ ンド発電や石炭液化など、また、高速増殖 炉はどうなるかわかりませんけれど、いず れにしても将来エネルギーが問題になるの は確実ですからそれらに使われる材料、そ れから非鉄ですが採り上げてもよかったか なと。エネルギーがどっちの方向に行くか わかりませんが、どっちかに行った時では クリープは間に合いませんからね。 田中エネルギーは経済事情によりゆれが大き いですよね。現時点では超々臨界圧は有望 な方向ですよ。横井超々臨界圧は材料の問題でしょ。最近の 人は見込みのないことはやりたがらないで すね。駄目なら駄目なことを証明するのも 大事ですけど。門馬現在、八木さんを中心にNRIMガイド 作成の計画がありますが、やはり、国研の ように中立的な立場でなければできないこ ともありますよね。田中 そうですね。多少無駄かもしれないけど、 それから、その人の人生にとって損になつ ちゃぅかもしれないけど、そういうことを やる人が日本に何人かいてもいいですね。 それでは今日はこれまでにしましょう。 皆さん有難うございました。(平成七年二月吉日中目黒材料試験施設 及び平成七年四月吉日河田先生邸にて。文責田中・山崎)河田和美(二代目所長S31・7・1～50・ 4 ・1)横井信(材料強さ研究部S31・ 7 ・1～62・ 3 ・31)池田定雄(環境性能研究部S33・ 5 ・1～H 4 ・ 3 ・31)田中千秋(計算材料研究部) 門馬義雄(損傷機構研究部) 山崎政義(損傷機構研究部)疲れデータシート作成計画と実行太田昭彦昭和三十八年に、国立材料試験機関として材料試験所 設立計画が立てられた。この計画では、(一)国産材料につ いて各種の材料試験を行ってデータシートを作る(二)受託 による材料試験(三)材料試験法の研究を行うこととし、ク リープデータシート用試験施設、疲労試験関係の施設、超大形試験関係の施設を設置することがうたわれてい た。後二者はデータシートというより試験法の研究とい う色合いが強かったが、昭和四十三年に、疲労について もデータシート作成を主業務とすることが決った。昭和 四十年に後二者を検討するため、河田和美第二代所長(当 時材料試験部長)の下に、大学から故福本保部長、故佐 々木悦男室長が移籍し、具体的計画の策定が進められた。 この間、筆者もそのお手伝いをしつつ、お二人の研究 に対する姿勢等茶飲み話を交えながら楽しくお聞きする 機会を得た。筆者も四十年に新卒で入所したばかりであ り、これらによって研究者としての基本が形成されたこ とは大変好運であった。また、研究会で福本さんの学位論文のお仕事であった 振動によって誘起されるダイヤルゲージ測定誤差の克服 法のお話を聞かせていただいたり、佐々木さんに試験装 置の修理法等をマンツーマンで指導戴いたことも大変に 役に立っている。さらに、佐々木さんに欧文誌の手ほど きを受けたことが、筆者の投稿論文のほとんどが国際誌となった要因となっている。疲労試験施設についても、計画当初はオープンループ の制御機構しかない大形油圧試験機が計画されていた が、丁度クローズドループの制御機構であるサーボ油圧 試験機が考えられだした時期で、制御に対して造詣の深 いお二人の提案で、当時ほとんど製造されていなかった これらの装置を日本で先駆けて設置出来たことが、これ から述べる疲労データシート作成計画を成功させた基礎 となっている。さらに、試験設備の整備中に設計したように動作しな い原因を、工場に出向いて電子回路等の動作原理に遡っ て説明を受けたことがきっかけとなり、OPアンプ等を 使いこなせるようになった。これにより研究目的に適し た制御系・測定回路を後日自作できる様になり、一歩先 んずる研究を行うことも出来たきっかけとなった。この ように、ある意味で回り道することがかえって研究手段 の向上に役立つという教訓は貴重なものである。 疲労試験棟、設備の整備の実行に当っては退職された 鎌倉さんが大いに活躍され、試験用治工具等の製作も器 用にこなされ、試験進行に寄与された。 昭和四十四年以降、金沢室長、二瓶室長、西島部長、 増田室長、松岡室長、山口室長、田中主任研究官(現長 岡科学技術大学教授)や研究員の方々が続々と入所また は移籍され、総勢四十四人が故吉田進科学研究官(当時 疲れ試験部長)の下で試験研究を活発に推進することと なった。しかし、初期の成果はプリデータシートとして Trans.  NRIMに掲載するに留まった。 昭和五十年に疲れデータシート懇談会が疲労に造詣の 深い学会、協会、産業界並びに所内の方々をメンバーとして金材技研に設置され、金材技研疲れデータシート計 画の方向付けを行うこととなった。そして、その下部組 織として検討会が設けられ、企業の疲労のエキスパート と疲労試験担当者が試験計画の実施に関わる詳細を検討 しつつ進める体制が出来上がった。検討会は常温・溶接・ 高温の三つの分科会に分かれ、ソフトのみならず、ハー ドの面でも企業に協力戴くこととなり、大変有難い体制 であった。この疲労データシート懇談会は、昭和六十三 年には材料強度データシート懇談会に改組され、クリープデータシートも包含するものとなった。その後、金尾科学研究官(第二代疲れ試験部長)が着 任され、昭和五十三年以降疲れデータシートの出版が毎 年数冊ずつ継続することとなった。なお、出版第一年に は、留学中のネイティブスピーカーに英文を見てもらっ て和製英語とならないよう気を配った。また、昭和五十 六年以降には、疲労データシート資料を出版した。これ は、生データのみを掲載するデータシートに対し、デー タを色々な切口から眺め、使用の便をその時点で最も効 果的と考える様に色付けしたもので、和文で執筆した。 昭和五十八年に西島さんが部長に昇任された折には、 既に退官なさっておられた吉田さんのお宅へ数名でご報 告に伺った。疲労データシートの内容は、初期には疲労 寿命特性として応力振幅と破断寿命との関係を示すもの のみであったが、漸次新しい疲労特性を加えることが出 来た。すなわち、疲労き裂伝ぱ特性として応力拡大係数 と疲労き裂伝ぱ速度の関係を、繰返し応力―ひずみ特性 として漸増漸減ひずみ制御による試験結果を、発電プラ ントの機動停止に伴う波形効果を示す時間依存形低サイ クル高温疲労特性、表面の窒化・浸炭という熱処理材の 疲労特性を加えることとなった。このような新規性を取り入れるに当っては、部内の議 論が白熱し、ある時は新規性を見送り、数年後に日の目 を見るというようなことも行われた。これは、データシー トの性格上、充分に成熟した特性を供給する事を重んじ たからである。一方、研究者としては、関連する研究と して先行する課題を思う存分追求することが許されたこ とを意味している。そして、永年たずさわってきた疲労データシート作製150トン疲労試験機プロジェクトは本年(平成六年度)をもって終了したと いうことになりましたが、現在までに出稿した疲労デー タシートは八十四冊、疲労データシート資料は七冊に達 し、残務整理として今後二年間に七冊の資料を予定して いる。また、関連して行われた研究で発表された論文は、 内外をあわせ五年間当り八十件程度と活発であった。 なお、本講で「疲れデータシート」と「疲労データシー ト」の混用が見られるのは、学術用語の変遷に従って疲 れと疲労が替わったことによるものである。また、実働部隊の組織は、以下の変遷をたどった。すなわち、昭和 四十六年までは材料試験部、四十七年に材料試験部がク リープと疲れに分離して疲れ試験部に、昭和六十三年以 降は損傷機構研究部、環境性能研究部の二部にまたがっ て疲労データシート作成業務が遂行されてきた。 末筆となりますが、長年の本プロジェクトの遂行に関 してご尽力戴いた方々に深甚なる謝意を表します。(環境性能研究部)ド・ハース‐ファン・アルフェン効果測定装置青木晴善ド・ハース―ファン・アルフェン(dHvA)効果測 定装置――この装置はこの稿をお読みの方々の多くには 馴染みのない装置かも知れないが、金属中の電子の振舞 いを研究するための装置である。電子状態や電子に由来 する電気・磁気的性質に関するいわゆる電子物性に関す る研究の象徴的な装置である。この装置のたどった運命は金材研の研究の動向の歴史 であり、国立研究所の研究を取り巻く環境の変化の歴史 でもあった。ここでは、この装置に関わった人間の一人 から見た目黒の金材研での研究の歴史を振り返ってみたい。私は実体験としてはよく知らないのだが、一九五〇年 代から六〇年代にかけた時代は日本でも基礎研究がもて はやされた時代であった。民間でも中央研究所が次々設 立され、また、物性物理の分野でも、例えば半導体物理 や超伝導などに象徴されるように、量子力学の応用が 次々と花開いた時代であったように思う。しかし、基礎 研究ブームは表面的なもので、文化的に根付いたもので はなく、日本の高度成長期が次第に終わり始めると雰囲 気は一変する。私の入所した一九七〇年の初めは国立研究所の研究が 応用研究に大きく傾斜していった時代でもあり、特に金 材研においてはその傾向が強かったように思う。大学が 基礎研究、国立研究所が応用研究、企業が開発研究と便 宜的に分類された時代でもあった。研究内容においても、 電子的な材料研究よりも構造材料研究が主体であった時 代でもあった。所内のあちこちには一九六〇年代に導入 した、当時の最新鋭と思われる電子物性を測定する装置、 例えば何台かの常伝導磁石とそれに付随する磁性の各種の測定装置、NMR、ESR、各種の低温機器、真空装 置等がたくさん残っていたが、それらの装置は更新され もせず、確実に老朽化しつつあった。一方では物性物理 学上でも、一九六〇年代までに生まれた成果を越える物 理は余り生まれておらず、物理系の雑誌に「もう固体物 理には余りやることがない」というようなことを書く先 生がいらっしゃったことを記憶している。 この様な時代において導入されたdH vA装置は異色 の存在であったのではないかと思う。当時、金材研には 吉川明静さんを室長として、電子論を研究するグループ が形成されたばかりであった。吉川さんを初めとして室 員は三十代中ばの人間ばかりであり、大変皆さん意気盛 んであった。その中で小川恵一さんが当時の研究設備整 備費をいただいて、dHvA装置を組み立てようとして いた。私は小川さんについて金材研での研究生活をス タ—トし、dHvA装置の組立から始めることになる。 当時の金材研においては、電子物性の研究は必ずしも 充分なバックグラウンドがあったわけではない。基礎研 究部門として金属物理研究部があり、能勢さんを室長と する金属物理第一研究室が磁性と超伝導の研究をしてい るのみであった。また、材料的な研究部門として、電磁 気材料研究部があっただけである。私自身は大学を出た ばかりであり、小川さんも電子物性を専門にやってこら れたわけではなかった。この装置が特に関係する低温物 理のバックグラウンドもなく、まったく、文献だけの知 識で今までとは畑違いの分野の研究に飛び込んでいった 小川さんのバイタリティに感心するのみである。 当時の24号庁舎の共通炉室の一角に場所をいただき、 囲いをし空調を設置した。いま筑波の研究所の環境からは想像できないことであるが、当時空調がしてある場所 はわずかであり、徹夜の実験には大いに助かった。しか し、囲いの中にはスチームの本管や下水の本管がむき出 しで走っており、また、囲いの片隅にはマンホールがあ り、しばしば、スチーム、下水、ガスもれ、悪臭に悩ま された。今から考えると多少蘭学事始めの感もあったが、 なんとか装置は順調に動き始め、データが出るように なった。しかし、その後の時代はかならずしもこの装置 にとって幸福な時代ではなかった。その理由はこの装置 が持っている性格のためであり、また、当時の国立研究 所を取り巻く風潮や金材研の研究動向のためである。 応用や開発研究と一般的に言われている材料研究は、 どれだけ強い、あるいは転移温度がどれだけ高いといっ た定量的な概念に馴染みやすく、数値目標をたてやすい。 一方、いわゆる基礎研究と呼ばれるものは定量的な数値 目標を更新することも目的の一つであるが、真に評価さ れる研究はいままでにない概念や原理の創出である。概 念や原理の創出がより革新的であればあるほど、より広 い分野で、より深く影響を与えることができる。そのた め、しばしば基礎研究は具体的に定量的な数値目標を 持った開発研究には直接結び付かないことがある。工学 的な基礎研究よりも理学的な基礎研究にこの傾向が強い。この理学的な基礎研究と材料開発研究の関係は、極端 な例かもしれないが、例えば量子力学の形成過程におけ る研究を考えてみればわかる。これらは具体的に何かの 開発に直接結び付くものではなかったが、現代の材料研 究は量子力学を基とした原理や概念、物質観なしにはで きない。dHvA効果測定装置は直接材料や物質の物性や特性を測る装置ではなく、電子状態を測る装置であり、 いわゆる基礎研究のなかでも理学的な基礎研究を目的と するものである。電子状態と電子的物性を結びつけるこ とは一段階おかなければならず、特に当時の研究の主流 であった材料の機械的性質と電子状態を結び付けるのは (当時も現在でも)大変困難である。構造材料の応用研 究が主流であった時代においては、常に具体的な材料開 発と結び付けなければならず、dHvA装置を用いた研 究はいわゆる目的基礎研究としても、原理や概念の創出 する理学的な基礎研究としても中途半端な研究になった ことはいなめない。dHvA装置は小川さんの努力で七年後に別な形で更 新されるが、この様なタイプの研究はもはや続けて行く ことが次第に困難となる。それと同時に金材研のその他 の電子物性に関わる研究投資や新鋭の装置の導入が行わ れなくなった。装置ばかりではなく、人的な投資の面で もこの様な方面の人材の採用は十年以上にわたって行わ れなくなる。その間にも、時代が確実に動きつつあった。物性物理 の面で言えば一九七〇年代は着実な進歩をしたが大きな 革新はない時代であった。一九八〇年代を前後として事 情が再び代わり始める。新しい物理の展開は新物質の開 拓や発見に負うところが大きい。それらは半導体の二次 元電子系、超格子、低次元物質、有機超伝導体、重い電 子系、メゾスコピック系などであり、高温超伝導体の発 見によるインパクトは記憶に新しいところである。 それと時を同じくして、国立研究所を取り巻く時代的 な雰囲気も変わる。日本が世界に冠たる経済大国になり、直接製品開発に結び付かない研究分野でも国際的貢献が 求められるようになり、基礎研究のブームが再びやって きたのである。金材研においても一九八〇年代の半ばか ら装置の面でも、人材の面でもいわゆる基礎研究に関す る投資が再び始まる。金材研には電子物性に関する装置 が再びあふれはじめ、一昔前なら基礎物性の研究装置で あった装置が材料の研究装置として所内各所に見られる ようになった。dH v A装置も面目を一新して復活する。 研究の評価はそれがもたらすインパクトの大きさによ るべきものであり、基礎、応用といった研究の性格によ るものではないはずである。しかし、国立研究所あるい は金材研では、時代によって研究の性格によって気分的 にやりやすさが違っていたことは確かである。基礎研究、 特に理学的な基礎研究が欧米諸国においては深く文化的 な土壌と結び付いているのに対して、日本の場合は底が 浅く、基礎研究は時代的な影響を受けやすい。その設立 目的からしかたがないことであるかもしれないが、国立 研究所においては特にその傾向が強い。時代の雰囲気に 余りに忠実でありすぎると、基礎、応用を問わず研究の 大きな流れに遅れをとる可能性がある。 見方をかえれば、現在、基礎研究がもてはやされてい るのは日本が豊かで平和で幸せな時代にある証拠でもあ る。装置は研究の動向や研究所の雰囲気を写す鏡である。 二十年、三十年後の金材研においてどのような種類の装 置があるのだろうか。日本の文化的な土壌が変化するか どうかはわからないが、少なくとも今のように豊かで平 和な時代が続くことを祈るのみである。(強碰場ステーション)研究そのものではないけれど大プロ原子力製鉄を担当して―初仕事は研究組合づくりから―小池喜三郎私が金材技研にお世話になった三十有余年間で最も大 きな出来事は、昭和四十八年三月から五十年十月までの 約三年間、通産省の工業技術院に併任して「原子力製鉄 技術」のプロジェクトを創立準備の段階から担当し、発 足から実行まで、いささかでも貢献したことであります。 最近では、産学官の研究交流が盛んに実施され、研究 者が他機関の研究所で研究活動することは珍しいことで はありませんが、昭和四十八年頃には研究者が他省庁へ 出向き研究や行政業務を担当することは希で、金材技研 では私が最初のことと記憶しております。 当時、私は研究の傍ら企画課に併任して筑波移転計画 を担当しておりました。そのため、河田所長とはお話し する機会が多くありました。ある日、呼出を受けた時に は嫌な予感がしました。案の定、何処かへ行けとのこと で、工技院にて原子力製鉄を担当するように命じられま した。そして、今、組合を作ることで大変な時期なので すぐ行くようにとのことでした。私は、工技院とは、大型プロジェクトとは、原子力製 鉄とは、どんなものなのかわかりませんでした。更に理 解できなかったことは、このプロジェクトと組合の関連 でした。所長は組合作りといわれましたが、通産省は労 働組合活動の激しい所と聞いていましたので、原子力関連プロジェクト発足に伴い組合対策を担当せよ、ぐらい に考えておりました。工技院大プロの組織は、一つのプロジェクトに課長ク ラスの研究開発官と専門職、その二人を補佐する関係国 立試験研究所の主任研究官の三名で普通構成されます。 任期は原則として一年間ですが、どこかの国の総理のよ うに、一年間に開発官が四人も替わったことがありまし た。工技院では一年以上も同じポストを続けると大ベテ ランといわれておりました。原子力製鉄プロジェクトの初代開発官に島田仁(現日 本鉄鋼協会専務理事)さんが内定して活動を開始し、過 去における全プロジェクトの評価を行い、問題点の整 理・分析を行いました。その結果、従来の官主導方式よ り参加企業から構成された技術研究組合による組合主導 方式の方がよく、プロジェクト成功の鍵と判断されまし た。プロジェクトは七ヶ年と長期にわたることになってい たため、研究開発の継続性を保ちつつ、研究管理、運営 等を円滑に進めるためには、官の担当者が速いテンポで 替わる現行の役所体制では、一貫した指導体制下でのプ ロジェクトの実施はできないと思われました。このこと と、企業間の技術の一体化、研究開発全体に対する責任 の所在の明確化などが理由となって、技術研究組合方式 がとられました。組合方式ですと、税制面での優遇、研 究成果の平等利用、プロジェクト終了と同時に組合が解 散する合理性などの利点があります。さらに隠れたメ リットとして、役人の二、三人が天下りできることが挙 げられます。研究組合は、通産大臣の認可に基づく民法、鉱工業技術研究組合法に則っており、この大プロを始め、後に実 施された次世代等のプロジェクトのほとんどが研究組合 方式を採用しています。私がお手伝いした原子力製鉄プ ロジェクトが組合方式を導入した初めてのケースでした ので、手続き及び交渉に多くの困難がありました。 研究組合作りのため、通産省及び東京通産局の関係者 との連日の協議から私の工技院での仕事が始まりまし た。そして、プロジェクトの基本計画、参加企業の公募、 ヒアリング、委員会の設置、プレス関係者との懇談、大 蔵省と協議等々の業務が、昼夜を徹して続きました。金 材技研での業務との違いに、私は島田さんの後ろでただ おろおろするだけの毎日でした。組合作りの最大の困難は、前例がないことと手続きに 時間がかかりすぎることでした。プロジェクトは予算化 され、課題別の配分も決まっていましたが、組合ができ ていないため契約行為ができず、木下亨通産省技術審議 官(現日本鉄鋼協会社友)及び佐藤眞住製鉄課長(現神 戸製鋼所)のご尽力によって、原子力製鉄技術研究組合 の設立が昭和四十八年六月末にやっと認められました。 そして大プロとしての原子力製鉄プロジェクトが翌月の七月に発足することになりました。その後、半年で島田 開発官が通産省製鉄課へ、組合設立時に就任していた三 浦専門職は一年後に科技庁原子力局に戻りました。 設立後間もなく、研究組合方式そのものについて、他 の大型プロジェクトを目指す工技院及び企業関係者から 大変注目されるようになりました。私は唯一人の組合作 りの経験者として、多くの方々から研究組合方式のノウ ハウの相談などを受け重宝がられました。 三年間での工技院生活は、分からないことばかりの業 務のためか、大変辛いことの方が多くあったと思います。 でも、多くの方々と出会うことによって得られた財産(退 官時のざいけんに書きました人財産です)の大きかった ことは、私にとって幸いなことと思っております。 最後になりますが、金材技研で原子力製鉄を担当され た依田さん、渡辺亨さん、新井さん、岡田雅年さん、田 辺さん及び関係者の方々に、報われることの少ないプロ ジェクトに一生懸命ご努力を傾注して頂き、深く感謝い たします。さらに、亡き渡辺亮治さん並びに吉田平太郎 さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。(材料設計研究部S35・4 ・16～H5 ・ 3・31)原子力行政官として本庁へ出向して永田徳雄私が科学技術庁原子力局の安全審査管理官として出向したのは昭和四十九年のことです。これが金材技研の研 究職から行政職に出向した第一号で、本庁との人事交流 の始まりということになるそうです。今でこそ人事交流 は日常的になりましたが、行(一)職での出向は例がないの ではないでしょうか。僅かな期間でしたが研究とは異 なった仕事を経験しました。出向の話があったのは六月も末に近い梅雨空の日でした。当時、所長を務めておられた河田先生に呼ばれて所 長室に出向きますと、林企画課長が同席されておられま した。お二人から、昨今の原子力の安全に対する社会ニー ズの高まりから、行政として安全審査体制の強化が図ら れること、このため、科学技術庁に安全審査管理官のポ ストの新設と審査官の増員が行われること、技術関係の 担当者の補強を図るため金材技研に人を求めて来ている こと、管理官は本庁の課長相当のポストであること、つ いては君に管理官として行ってもらいたい、ということ でした。それまで金材技研の外に出ることなど考えたこともな く、何か研究上のお話かそれともお叱りかと思っていま したので、大いに戸惑いました。当時私は、最後の新設 研究部である原子炉材料研究部で核融合材料の基礎研究 を担当していました。研究を中断することに不安を覚え ましたが、所長、林課長が熱心に説かれるのであるから 額面通りに受け止めても決して悪くはないのかもしれな い、と考え覚悟を決めました。こうして七月一日の雨模様の日、科学技術庁に初出勤 し、原子力局原子炉規制課安全審査管理官と行(一)2等級 の辞令を発令されました。後日、庶務課の金田(福井) さんから金材技研の退職餞別金なるものを頂戴したと き、ひょっとするとこのまま戻れなくなるのではないか との思いがよぎったことを思い出します。 庁内を挨拶回りしているうちに福永原子力局次長から 「原子力局は激務だぞ、君はえらい所に来たな」と言わ れ、これは予想以上かと戦々恐々となりました。案の定、 二ヵ月経った昭和四十九年九月一日、原子力船「むつ」 の強行出航と放射線漏れ事件が起こり、連日の国会と現地の対応で大童な行政官の修羅場を目の当たりにしまし た。原子炉規制課は「むつ」の原子炉の安全規制と検査 を行う立場にありましたので、担当官は船とともに二ヵ 月近くも漂流し、幹部も連日国会に呼び出されていまし た。出向一ヵ月後、電気磁気材料研究部におられた福田さ んが原子力局の核燃料規制課に転出して来られました。 まだ慣れない私には、かって同じ研究部に在籍して気心 の知れた仲間が増えたことに大変心強さを感じました。 福田さんは金材技研に戻ることなく行政畑を歩まれ、さ らに電力中央研究所に出られましたが、その後もともに 原子力安全の仕事に係わったことから深い付き合いをい ただき、公私ともに非常にお世話になりました。 原子力行政のイロハも知らない行政職一年生は初めの うちは若い課員に比べて行政感覚が純く、一方で管理職 としての責任は一人前に負わされて右往左往しました。 順応性はある程度あると確信していた私も実際慣れるま でには一年近くかかりました。行政官は一ヵ月やそこら ですぐに仕事に慣れ、まるでその仕事の長年のベテラン のように振舞うというのにです。詰まるところ行政感覚 を身に着けるにはある程度の時間が必要なんだと自らを 慰めました。一年九ヵ月のうち行政官らしい顔が出来た のはわずか一年足らずしかなかったことになります。 回顧録にはやはり失敗談がつきものでしょう。小さな 失敗は幾つもやらかしましたが、とっておきの失敗は何 時までも忘れることができません。ご承知のように行政 庁には多くの人が出入りしており、新米の役人にはその 見分けが付きません。ましてや役人と同じように背広を 脱ぎ、ワイシャツ姿で部屋を出入りされると全く区別が付きません。私は管理官として東京電力(株)の柏崎刈羽原子力発電所 一号炉の安全審査を担当していましたので、電力から提 出されたいろいろな資料が手元にありました。当時、原 子炉が建設されるサイトでは大掛かりな地質調査が行わ れていましたが、原発に反対するグループは、建設地点 に活断層があり原子炉立地点として不適であると主張し ていました。ある時、よく見掛ける職員とおぼしき男が課内に入っ てきて、柏崎の地質の資料がないかと辺りを見回しまし た。私の回りの審査官は聞こえぬ振りをしていましたが、 管理官はその時私一人でしたので同じ原子力局の職員な のに協力してもよいではないかと考え、丁度手に入った ばかりの地質調査に関する資料をその男に手渡しまし た。男は資料を一瞥し、新しいことを見てとって満足げ に部屋から出ていきました。一連の経緯を見ていた近く の審査官が私の方を向いて言いました。「永田管理官、今の人を知っていますか。彼は○○新 聞記者ですよ。資料を渡してもいいのですか」 それを聞いた途端私は頭の中が真白になり、課内は大 騒ぎ。課長補佐が戻って来て部屋を出て行きました。何 時程経ったでしょうか、課長補佐が資料を取り戻して来 てくれました。マスコミとしては喉から手が出るほど欲 しい資料です。私はこの時ほど行政官の実力の程を思い 知らされたことはありません。私が行政庁に出向して開眼したこと、それは世の中は 人と人との関わりで成り立っているということです。当然と言えば当然の話ですが、私にとって出向したことの 一つの結論でした。研究所では物言わぬ無機物を相手に 研究することが仕事であり、一日中人と関わらずとも仕 事はできますが、行政職にとっては人を相手にしなけれ ば仕事にならず、他人と交渉することが重要になります。 研究所にいるとそのようなことに気付きませんが、役所 の中にいると、同僚、隣の局の人間、他省庁の役人、外 部の人間等多くの人間との接触があります。少し大袈裟 ですが、これが世の中の活動の主体だと悟ったのです。 出向によって研究分野以外にも多くの知己を得まし た。本庁のみならず、通産省、原研、動燃等から出向さ れてきた方々と今でも交流が続いています。その後原子 炉安全専門審査会の委員として原子力の安全規制に関係 していることも与かっているかもしれません。かくてい つしか原子力語が理解できるようになり、原子力村と呼 ばれるギルドの一員に加えられるようになりました。 原子力村の雰囲気は外部の者に対して温かくまた寛容 でした。いまも原子力村のはしくれを穢すことができて いるのも、行政出向第一号の栄に浴して原子力安全畑に 首を突っ込んだことがきっかけになっていると思ってい ます。そのような機会を与えて下さった河田先生及び林 さんのご指導は私の越し方の軌跡の上で大きな転換点と なっています。定年後も原子力安全関係の仕事に従事し たいと思っておりましたところ、その願いを叶えること ができ、僥倖を嚙み締めている昨今です。(第5研究グループ S32・4・1～49・ 6・30 51・ 4 ・1～H6 ・ 3 ・31)環境庁公害防止研究に参加して牧口利貞製造工業では生産技術及び製品の開発を行うときに、 その評価の物指として次のことが考えられていた。(一)需要量と市場競合状況(二)経済的なインパクト(三)企業の体質に合うか (四)国民の福祉に役立つか これらの四条件を満足させる生産方式や新製品の開発 が盛んに行われ、わが国は経済的発展をとげてきた。こ れが所謂高度成長期である。ところが前記(四)項についてはプラス・インパクトだけ が高く評価されたため、環境破壊、公害、作業環境の悪 化などが社会問題となった。これは企業や研究者が(四)項 の、マイナス・インパクトを考慮しなかったためである。 そこで第五の評価の物指としてソーシャル・アセスメン ト――技術や製品はもちろん、それらを造る工場を含め て公害、環境の悪化などの問題を考え、これを社会が快 く受け入れてくれるか――を加える必要が生じた。 鋳造業界も御多分にもれず、この公害、環境悪化の対 応策の確立が緊急課題となった。そこで(財)綜合鋳物セン ターでは通産省の補助金を受けてクリーン・ファンド リーの技術を確立することを志し、昭和四十九年度から 四ケ年計画で研究を始め、筆者は副委員長として参画し、 ある程度の成果をあげ、モデル工場の稼動までこぎつけることができた。ところが、当所ではこの種の研究を当時行っておらず、 河田所長から「君、外部で公害対策の研究を行うのもよ いが、環境庁もできたのだから、研究所のために環境庁 予算をとるようにしなさい」と御注意をいただいた。こ れが昭和五十年九月頃であり、早速企画課を通じて環境 庁に接触したところ、「昭和五十一年度の予算は大体固 まっているので、新規に参入するのは困難である。もし どうしても予算要求したいのであれば、明日までに研究 計画、予算概要を提出しなさい」との回答をいただいた。 そこで所長始め管理部長、企画課及び研究者が集って、 徹夜で予算案の作成を行い、翌日、本庁を通じて予算案 を環境庁に提出した。この時、痛切に感じたのは、管理部、企画課は研究者 の良き味方であるということであり、今までの研究部サ イドの誤った認識を払拭した。一方、企画課は代議士の紹介状をもらって、筆者を同 道し環境庁の担当局長に説明するとともに、鋳造関係の 学業界のバックアップ資料をもって陳情された。このよ うにして予算案が固ったところ、飛び入りで新規予算要 求をしたにも拘らず、昭和五十一年度から四ケ年計画の 予算をつけていただくことができた。これも管理部、企 画課が研究者と三位一体となって、強力に推進して下 さった御陰と今でも感謝している。研究内容はすでに所報、学会誌などに掲載してあるの で割愛するが、課題は「クリーン・モールドに関する研 究」で、鋳型の砂粒、粘結剤をすべてリサイクルでき、 産業廃棄物、悪臭、有害物質、騒音、振動等の公害を発 生せず、作業環境もクリーンにできる造型技術である。最後に、筆者の体験から研究部の諸兄に提言したいこ とが二点ある。(一) 研究部サイドから考えると、管理部、企画課はと にかく煙たい存在と思うが、これは誤であり、これらの 部課と十分なコミュニケーションをはかり、そのバック アップがあって始めて円滑な研究活動ができるというこ とである。それから予算要求をする時には、自分だけが解ってい ても駄目で、素人にもよく理解できるようなポンチ絵な どを使って説明することである。相手に解ってもらえな ければ、どんな良い研究でも予算化することはできない。 (二)新材料や新技術の開発研究を行う時には、これが 社会に出た時にマイナス・インパクトを与えないかを常に考慮することである。いかに良い材料が開発されても、 その廃材がリサイクルできず、産業廃棄物となり、しか も有害物質などを発生するようでは、社会に受け入れら れない。研究者はとかくプラス・インパクトのみに重点 をおくが、マイナス・インパクトも忘れてはならない。 そのために研究の中間段階や最終段階でテクノロジ・ア セスメントを行い、必要があればその対応策を確立して おくことである。現状は解らないが、筆者が在職してい た当時の研究所はプラス・インパクトのみを強調してい たが、これは妥当ではない。管理者も研究者もこの点に 留意されたい。(筑波支所長S34・9・1～56・12・31)筑波移転第一次案の裏話郡司好喜政府機関の筑波地区移転が本決りとなり、昭和三十八 年頃だったと思いますが、研究所の筑波移転計画を検討 いたしました。橋本所長からわれわれ製銑製鋼グループ (中川さん、田中さん、郡司など)にその素案作成の指 示がありました。当時はまだ筑波の線引も十分でなく、 金材技研の移転候補地も現在の位置が基本的に決まった だけで、計画次第ではそこに隣接する地域も利用できる という説明を受けておりました。ここで第一次案の橋本所長のフィロソフィーはと言え ば、筑波に製鉄試験所を設備することだったのです。当 然、われわれの視点もそこに置かれました。まず、詳細 な検討によって素案が出来上ったところでその良否を大 手鉄鋼メーカーの専門家に検討して貰うとともに、提案 なども聞くことにいたしました。各社を廻り、素案に対 する忌憚のない意見を求めてきました。この素案に対す る意見は同調的であり、批判の言葉はなかったように記 憶しています。われわれの間で作り上げられた素案の概要は次のよう なものでした。二十トン高炉(最低この程度の容量がないとコークス の芯が生成しないので実炉との相似ができない)を中心 にし、それに見合った転炉、電気炉、圧廷機などを設置。そこで「何の研究をするのか」と問われたら、「鉄鋼の 合理的な生産を研究する」というのが答でした。勿論、 各社から提案されたいくつかの問題点をその目的の中に 組入れたことは当然であります。かくして、橋本構想に近いミニ製鉄所の素案は整理さ れ、本庁に提出されました。本庁の答は御存じの通り 「ノー」でした。その理由は、「筑波地区では環境を汚染 するような施設は許可しない」ということでした。今に して思えば当然の帰結であり、筑波の現状を思えば否決 されて良かったと胸をなでおろしたい位です。 何故こんな構想に反対することもなく、唯々諾々とし て計画を立てたのか。考えても見て下さい。昭和四十年 の日本の粗鋼生産量は僅か四千万トン強であり、アメリカやソ連の半分にも満たない水準でした。今振り返れば あの当時は日本の高度成長がテイクオフする時期であっ たと確定できますが、当時はそうした可能性を予測でき ず、日本全体がすばらしい発展を待ち望んだ時代だった のです。その後間もなく、連続鋳造機などの発展により、 鉄鋼業が爆発的に成長するとともに高度成長への道を歩 み始めることになりました。もし、研究学園都市が筑波でなく海岸を含む地区で あったなら、あるいはわれわれの第一次案が認可されて ミニ製鉄所が実現し、その後の日本の鉄鋼業の発展に少 なからず貢献できたかも知れないと思っております。 (製錬研究部S34・7・16～57・5・31)要覧表紙デザインの思い出細井祐三金属材料技術研究所要覧の表紙を裏表紙と共に拡げて みよう。裏表紙右下にKameというサインがあるのにお 気づきであろうか。このKameというのは、デザイナーの 亀倉勇策氏のサインである。亀倉氏は日本を代表するデ ザイナーの一人であり、日本光学(株)のカレンダーやポス タ—などを手掛けている。目黒の思い出の一つとして亀 倉氏にデザインをお願いした経緯を述べてみたい。 昭和三十一年七月に金材技研が創立された当初から、昭和三十三年一月に原子力予算による留学生としてアメ リカ合衆国ペンシルベニヤ州立大学へ出張する直前ま で、私は企画課に配属されていた。当時、橘恭一課長(後 に科学技術庁振興局長、原子力研究所理事)の下に上野 學さん(後に、新日鐡製品技術研究所副所長、長岡技術 科学大学教授)と私が研究サイドから企画課へ移り、橋 本宇一所長の指示で、橘課長、上野さんと共に、第一次 七ヶ年計画の基本案の策定に当っていた。企画課には専 任としてもう一人、辻内秀雄さんが勤務されておられた (辻内さんは残念ながら三十三年に病没された)。 金材技研設立後二年目に入ってからのように記憶して いるが、要覧を発行して、関係の省庁、大学、会社など にPRしようと云うことになった。内容は通産省の各試 験所(現在筑波にある各研究所)のニュース、要覧などを参考にしたが、表紙のデザインは画期的なも のにしようということで、辻内さんと私がデザ イナーの選択、交渉などを任された。 私は、デザインをお願いするなら一流のデザ イナーに依頼しようと考えた。私は写真とかカ メラが趣味で、日本光学(株)のカレンダーやポス タ—を時々目にしており、その図案が非常にあ か抜けており、しかも工学的センスに溢れ、好 きであった。そしてそれが亀倉氏の作であるこ とを知った。当時すでに超一流のデザイナーとして活躍し ておられた亀倉氏にお会いするにはどうする か。私は日本光学に友人が勤めているのを思い 出し、まずその友人に頼んで、同社の宣伝関係 の部署の責任者にお会いした。そして亀倉氏を 紹介していただいた。このとき、その責任者の 人から、「亀倉さんは忙しくて、仕事をひきうけ るのが難しいかもしれないが、意気に感じて仕 事をする人だから、その点を充分考慮してお願 いするのがよい」という意味のアドバイスを受 けた。日本光学の人をとおして亀倉さんを訪問する アポイントメントをとり、辻内さんと二人で亀 倉さんのアトリエに伺った。亀倉さんは芸術家 肌の気難しい人にちがいないと勝手に想像して いたが、お会いしてみると、淡々として、ざっ くばらんに話のできる人であった。 亀倉さんに科学技術庁の概要と材研の役割、 使命、研究計画、特徴などを説明し、金属材料技術研究所要覧の公報誌としての目的と内容を話した。 とくにこれからの材料研究の重要性を力説したように記 憶している。亀倉さんは熱心に話を聞き、ときどき質問をして、金 材技研のイメージを頭に画いておられるようであった。 しばらく間をおいて、「(表紙のデザインを)引き受けま しょう」と答えてくれたときには、辻内さんと願を見合 せて、安堵の胸をなでおろした。それから辻内さんが、 官庁のためデザイン料はあまり払えないことを話し、了 承していただいた。亀倉さんとしては、かなり安いデザ イン料で引き受けて下さった。このようにして、要覧の表紙のデサインがきまった。 デザインを最初に見たとき、橋本所長は、あまり気に入 らないようであった。「この一案だけか」としぶい顔で言 われたのを覚えている。私は亀倉さんが日本を代表する 一流のデザイナーであること、日本光学のポスターなど をつくり、その分野で非常に有名な人であることなどを 説明して、何とか了承していただいた。ところがその後、亀倉さんがこの図案をスイスで行わ れた国際的な大会に出品され、賞をとったとの報告が入 り、橋本所長はやっと納得されたことを思い出す。(鉄鋼材料研究部S31・7・1～38・1・31)管理部技術課の目黒時代大島一男金属材料技術研究所の筑波研究学園都市への全面移転 により管理部内の組織も新たに再編成が行われ、目黒地 区において約三十三年間研究の支援業務を担当してきた 管理部技術課も終焉を迎え、時代の流れと共に昔のこと となろうとしている。昔を懐かしみ、長いようで短い三十三年間の目黒時代 における技術課の業務を中心に、備忘録として私なりに 記してみたいと思います。目黒時代の組織当研究所は、既に皆さんがご存じのとおり、科学技術 庁の付属研究機関として旧海軍技術研究所の跡地に昭和 三十一年七月一日付けをもって発足した。当初は所長、 科学研究官の下に、庶務課、企画課からなる管理部と四 研究部が組織され、五部二課であった。 国産材料の品質改良が産業界から強く望まれ、欧米の 先進諸国の材料研究及び技術に追い着き追い越すことを 目標に研究所内の組織が整備され、昭和三十六年四月に は十部三課三十二室となり、研究を支援するため管理部 内に三係からなる技術課が置かれた。技術第一係には企 画課調整係から、技術第二係には庶務課営繕係から、そ して工作係は研究部の第三部分析室及び第四部の工作室 より人員がそれぞれ配置され、優秀な技術者を数名採用 し、三十一名で業務が遂行されていた。その後、係の新設が認められ、管理部技術課の係も、 研究支援の運営及び事務を行う技術係、受変電施設・給 水暖房施設等の維持管理を担当する施設係、研究及び試 験に必要な試験片・治具・部品や硝子機器及び鋳型を作 る原型になる木型の作製を行う工作係、工作業務に必要 な工具・刃物・機械の管理を行う工務係、研究及び試験 に必要な装置の設計と試作・改修を担当する設計試作係、 研究及び試験に必要な電気・電子計測機器の作製・修理 を行う電気技術係の六係となった。各係毎に専門的な知 識及び技術を有する技術者が配置され、管理部技術課の 最盛期には五十人近い技術者が直接的または間接的に研 究を影から支えてきた。昭和四十四年から当研究所も公務員の定員削減計画実 施の波に洗われ、管理部技術課の定員削減を余儀なくさ れた。一人二人と減り、昭和五十八年頃には技術課が発 足した当時と同じ三十人までに減少した。 技術者の削減で研究者からの試験片、部品及び治具の 作製、装置の設計試作等の依頼に応じることが出来なく なると共に、ボイラー・給水施設及び配管等が経年によ り老朽化が進み、研究支援業務に停滞化がみられるよう になった。更に日本経済の高度成長期により、この頃か ら施設の維持管理及び試験片等の作製が外注で処理され るようになった。昭和六十年度から一般公務員の定年制 導入にともない定年退職者と共に優秀な技術者がみずか ら職場を離れ、平成六年度の筑波移転時には十一人に減 少している。筑波移転を契機に研究支援業務の機能を従来より更に 強化するため、管理部技術課の組織が解体され、研究を 間接的に支援してきた施設係の受変電、給排水、空調等の施設及び設備の維持管理業務は新たに組織された安全 施設課が担当することとなった。また、、研究を直接的に 支援してきた工作係、設計試作係、工務係の他に、組織 制御研究部から溶解係及び圧延熱処理係が、材料設計研 究部から計算材料第一係および第二係が、管理部企画室 から図書係が組み入れられ、管理係及び材料試験係を含 めた十係の研究支援課が誕生し、目黒時代の技術課に代 わって業務を担当することとなる。目黒時代の巨大ボイラー筑波移転によって新たに施設及び設備が整備され、ボ イラーや冷凍機等の冷熱設備も最新式のものとなり、暑 さ寒さを忘れるほど昼夜快適に業務を行うことが可能に なった。筑波おろしの季節が到来し、寒さから身を護る ためにコートの衿を立てると、目黒時代に体を暖めてく れた巨大なボイラーが目に浮かんでくる。 この巨大なボイラーは明治四十五年(一九一一年)英 国のビッカース造船所で製造され、太平洋戦争にも参戦 した高速戦艦「金剛」の初期の駆動源として使用されて いた缶で、数十缶のうち八缶が昭和二年に取り外されて 海軍技術研究所の熱源用に設置されたものであると聞い ている。金剛は、大正二年(一九一三年)に巡洋戦艦として進 水し、昭和二年～昭和六年には第一次の改装工事が施さ れ、三十六基設置されていた石炭専焼缶を四基の重油専 焼缶と六基の混焼缶の合計十基に改造されている。更に 昭和八年～昭和十五年にかけて改装を重ね、最後の改装 では機関部も四基のタービンと重油専焼缶八基となり、 速力は二六ノットから三〇ノットに増大されている。改装後の装備は、全長二二二メートル、全幅三一 メー トル、排水量三二、二〇〇トン、出力一三六、〇〇〇馬 力であった。兵装として三六センチ砲八基、一五センチ 砲十四基、一二・七センチ高角砲八基、二五ミリ機銃二 十基、水上機三機を搭載し、乗員一、四三七人で、空母と ともに行動できる高速戦艦であった。ハワイ開戦、ミッド ウェー海戦等の太平洋戦争で活躍したが、フィリピン沖 の海戦後の昭和十九年十一月に、台湾海峡で米国の潜水 艦シーライオン二世の魚雷四本を受けて沈没している。 海軍技術研究所に設置された戦艦「金剛」のボイラー 八缶のうち、一缶が当研究所に引継がれた。この汽缶の 種類は、ヤーロー型水管ボイラーで、伝熱面積四一六m2、常用圧力七kg/cm2、水管三五mm×三・五m・九三六本、 本体満水時で六・五トンの水を使用し、全庁舎に蒸気の 供給を行ってきた。設置された当時の燃料は石炭を使用していたので、22 号庁舎Bあたりにあった石炭置場からトロッコで石炭を 運ぶ姿がみられ、高さ四十五メートルの煙突から真っ黒 な煙を排出していたそうである。その後、重油焚きに改 造が行われたが、産業、経済の革新的な発展に伴い大気 の汚染が問題となり、昭和五十四年に東京都公害防止条 例に基づき、重油焚きから灯油焚きとなった。 この頃から、蒸気の配管が経年によって老朽化が進み、 蒸気漏れが発生しだした。蒸気漏れの連絡を受けると現 場に駆付け、自転車のチューブを配管に巻き付けて蒸気 漏れを止める作業を応急処置として行っていたが、配管 から高温で高圧力を持った蒸気が吹き出しているため、 応急処置を施しても漏れが止まらないこともあり、蒸気 を浴びながらの作業に苦労したことを思い出す。 産業革命の発祥の地で製造された巨大なボイラーは、 当研究所の暖房設備として、十二月一日～翌年三月三十 一日までの暖房期間を三十七年にわたり、22号庁舎Aか ら全庁舎に蒸気を供給した。その巨大な古いボイラーに は偉大さを感じる。大きな故障もなく、海軍技術研究所 の時代を含めると半世紀以上暖房設備として活躍した が、筑波移転が行われる前年の平成五年三月で役目を終 え、暖房を停止した。戦艦「金剛」に搭載されていた由 緒ある汽缶も、もはやその雄姿をみることは出来ない。 目黒時代の工作支援業務昭和三十六年に、研究を支援するため技術課に工作係金剛のボイラーガラス工作試験片の製作が発足した。昭和二年から昭和六年頃に建てられた海軍 技術研究所の建物を使用し、34号庁舎の一階に工作機械 室が、14号庁舎が建築されるまでは14号庁舎付近に硝子 工作室が、20号庁舎に木工室が配置され、経験豊かな技 術者により研究に必要な部品、試験片や治具、硝子機器、 木型等の作製が行われていた。その後、硝子工作室が34 号庁舎二階に移転し、課としてまとまることになる。 昭和四十三年～昭和四十六年頃には工作係員も二十人 以上となった。材料や構造物の外側または内側の寸法を 目視で簡単に測定し、その寸法をマイクロメータ—やノ ギスなどの測定器具で読取って誤差を比較しても僅少で 当てたり、鋼材をグラインダーにかけ、その火花の飛び かた、火花の形状で材質を判断したり、計算尺を使用し て材料の機械的性質を知るための応力計算等を行うな ど、すぐれた技術や知識と経験を身に付けた技術者が数 多くいた時代である。まだ卓上計算機やコンピューターが一般的に普及していなかったため、スケールと計算尺 を胸のポケットにしのばせて工作業務を行っていた。 この頃は、欧米諸国の研究及び技術と比較するとまだ まだ格段の差があり、研究者が試験片等の加工依頼で工 作係に持ち込まれたチタン合金の板材を米国製と日本で 製造されたものを比べると、日本製のものは幾分凹凸が 見られ、スケールを平面に当てると��間が見られた。欧 米の先進技術に追いつき追いこすべく旺盛な研究活動に よって、着実に技術の向上が図られていた。このような 時代を背景にして、研究設備の設計及び試作を専門に担 当する設計試作係が誕生し、機械工作、硝子工作、木工 作及び電気工作業務にも活気が見られ、工作業務の最盛 期であった。昭和三十二年及び昭和三十六年にはドイツのデッケル 社から最先端の万能工具フライス盤が導入され、ミーリ ング及びエンドミルの加工に威力を発揮し、シャルピー 試験片や治具等の作製依頼に応じた。その後、平削盤、 無心研削盤、施盤、平面研削盤等の機械工作設備、硝子 施盤、真空排気装置等の硝子工作設備、木工作設備とし て自動鉋盤、ほぞ取り盤等の増設や更新が行われ、研究 支援設備の充実が図られた。「フライス」とはドイツ語に 由来しているが、そのドイツから導入した万能工具フラ イス盤は、操作性、加工性及び作業効率等が非常に優れ た設備である。多くの研究者と技術者に共用設備として 使用され、三十五年以上を経過した今、各部位に疲労が 見られるものの目黒から筑波に移設した現在も使用が可 能である。設備の充実が図られたのに対して、最盛期に二十人以 上いた工作関係の技術者は、退職、人事移動、公務員の 定員削減及び定年制の実施によって減少の一途をたど り、平成三年に木工作の業務を停止した。筑波移転時に は、機械工作、設計試作、電気工作及び工務を担当する 技術者がそれぞれ一人に、硝子工作を担当する技術者が 二人に減少した。また、筑波移転に伴い、旋盤、形削盤 等の老朽化した古い工作機械設備が廃棄されることに なった。長年にわたって研究支援設備として研究の業務 を支え重要な役割を果たしてきた設備が廃棄されるの は、技術者として偲びないものを感じる。 目黒時代の最盛期からは考えられないほど技術者が減 少しているが、技術者として「技術の無いところに研究 は無く、研究の無いところに技術は無い」ことを信じ、 更に研究を支えるため、目黒時代の過去を省みつつ支援業務に少数精鋭をもって努力したい。(研究支援課)施設係の思い出栗原敏夫施設係では、電気、給水等を所内建物に支障なく供給 するために設備の推持管理を行っております。そのため に、設備の定期点検整備等を皆様の休んでいる土曜、日 曜日等に行っていました。その作業中に予期せぬ事態が 起って、自分達があせったり、混乱したりしながらも何 とかその場を切り抜けた事をいくつか思い出しましたの で、次に書きます。昭和五十六年の月曜日の全停電作業の日の事でした。 朝より運転している非常用発電機も順調に動き、24号の クリープ等に電気を支障なく送電でき、又、停電作業も 順調に進んでいきました。そして夕方の受電操作を行っ ている時のことでした。五時三十分頃、他の建物には送電完了し、あとは24号 庁舎へ送電し、発電機より買電へ切替えるだけでした。 発電機用しゃ断器を切り買電切替操作に入ったのです が、買電切替用しゃ断器が投入されないのです。投入用 スイッチを入れるのですが、しゃ断器の赤いランプがつ かないのです。なんで動作しないのか、なにが原因なの か、次は何をすれば良いのか、クリープへの電気は停電 したままです。停電灯のみがついている暗い中で気ばかりあせって、頭の中はパニックの状態で何も出来ない数 分間が過ぎました。そしてやっと頭にひらめいたものがありました。数年 前に取付けた変圧器等整備のための予備回路が使用出来 ることに気が付きました。急いで予備替用DS (十七箇 所位たくさんあった)を予備側に切替え、予備回路用しゃ 断器を投入し、クリープ等重要な所に無事に送電するこ とが出来ました。この予備回路がなかったら、再度非常 用発電機を起動して、故障原因を取除くまで、長時間運 転をする事になったと思います。後で調査した結果、切替用油しゃ断器の接触部の荒れ により可動部が引掛かり、完全に入らない状態になった ことが原因でした。その後真空しゃ断器に取替えられた ので、安心して操作出来るようになりました。 昭和五十九年二月の日曜日、全停電作業の日の非常用 発電機を運転中の出来事です。午後二時頃になって燃料 サービスタンクの油面計レベルも下がり、燃料給油ポン プが自動的に運転を始めました。しかしポンプは回って いるのに地下タンクよりサービスタンクに燃料が上がら ない状態に気が付きました。それからが大変です。サービスタンクの燃料はどんど ん減っています。いろいろ調べましたが原因は解らず、 時間はたつばかりです。何とかサービスタンクに燃料を 補給しなければ非常用発電機は燃料切れで止まってしま います。まず地下タンクより汲み上げねばなりません。手廻し非常用発電機ロータリポンプがありましたので給油口より入れて廻し ましたが、パイプが短かくて油面に届かないようです。 接続用のパイプをやっと見つけて接続し、バケツに汲み 上げる事に成功しました。さあ、これからが大変です。バケツに入った燃料をサー ビスタンクに入れなければなりません。バケツを持って 立バシゴを昇らなければならないからです。まず一時間 運転出来る量を手廻しポンプで汲み上げ、バケツを持っ て立バシゴを昇り、これの繰返しで体力との勝負で、こ の先が思いやられ、東京電力が一刻も早く送電してくれ る事を祈りました。この時施設にいた方は、重いバケツ を運んだこの事を思い出す事と思います。後で原因調査 の結果、給油配管が壁内接続部で腐食し、穴が開いてい たためであることがわかりました。昭和六十一年九月の土曜日の午後、30号B変電室の停 電作業の時の事です。辺りが暗くなり始めた頃やっと作 業も終り、五時頃しゃ断器を順次投入し、送電操作を始 めました。しかし一台のしゃ断器が投入状態でロックが かからず、外れてしまうのです。何度やってもダメです。 さあ困りました。操作機構に不良がある様です。 そこで、油しゃ断器の中を見ることにしました。油タ ンクを下して操作して見ると、操作ストロークが足りな くて完全に可動部が入らない状態でした。手で可動部を 押し上げて投入完了状態にしますと使用出来そうです。 静かに油タンクを取付けて恐る恐る送電しました。この 状態では、一度切れると投入するには油タンクを下して 操作しなければならないという危険な状態でした。 原因は操作機構支持部のコンクリートがヒビ割れを起 して遊びが多くなったためで、他のしゃ断器も同様に危なくなっていましたので、地震等の振動でしゃ断器が切 れないかと、補強工事が出来る迄の間不安でした。 これらは計画作業中に起きた出来事なので何とか対処 出来たと思いますが、突発時にこれらが重なった場合に は対処出来なかったと思います、古い設備、機器等は順 次更新していかないと予想もつかない故障となって現わ れ、担当者を困らせる事と思います。平成四年六月のカラスによる全停電の話です。特高変 電所では、毎年数羽のカラスが感電して死んでいるのを 見つけては裏の上手に埋葬していました。しかし、今回 のように停電被害が大きかったのは始めてだったと思い ます。当日朝、守衛さんより電話で停電になっているとの連 絡を受け、急いで出勤しました。防衛庁の門を入り、防 衛庁の守衛所は照明がついていたのを見て金材研だけの 停電で済んだと心の中でホッとしました(配電線は防衛 庁と金材研は同一配線使用)。現場を見ると受電用しゃ断 器キューピクル上部のブッシング碍子が黒く焼けてお り、近くにカラスが死んでいました。碍子を磨けばすぐ 復旧出来ると思われましたが、碍子にアークによる熱的 劣化があったため、明電エンジニアリング(株)の技術 者は碍子点検手入れ後耐圧試験を行なわないと使用可能 かどうかわからないとのことでした。耐圧試験器も運ばれ耐圧試験の準備が進むにつれて、 ある不安が頭の中に浮んで来ます。パンクしたらどうす るか！ 部品を取り替えない限り受電できない！ 部品 が入るまで何日かかるか！東京電力へ電源車等の手配 が必要か！等々。耐圧試験が始まり試験電圧を徐々にあげるのを脇で見ていて、頭の中は空白になって行きました。その場より 離れたい気持、試験時間の長く感じられた事、終った時 はホッとしました。これで応急使用可能とわかり、五時 三十分頃やっと受電復旧することが出来ました。耐圧試 験でパンクしなくて良かったと思いました。 その後、カラス防止用のプロペラを付けました。少しは効果があったと思いますが、その後もカラスの死骸は 時々ありました。目黒のカラスには弱かった本所特高変電所は、平成六 年八月三十一日の十三時三十三分にそのあかりを消しま した。(材料試験事務所)しのび音もらす後藤建次郎人生はあざなえる縄の如しとか。良いこともあれば、 悪いこともある。目黒における廃液処理の思い出をつづ ろうとすれば、なつかしさに偲び音をもらすか、じっと 我慢の忍び音を吐露するかは、とんと見当がつかない。 ここは筆のすさびにまかせて書きつけるほかはないよう だ。はじめの頃いまはもう退職された俣野宣久さんのもとで、廃液処 理を始めたのが昭和五十四年。仕事の内容を大きく分け れば、(一)実験廃液等の処理、(二)廃液処理を終えた水(処 理水)および下水の化学分析、の二つになるが、これが どっこい、マニュアルやJISの規格通りにやっては、毎日 休みなしに働いたところで、全部の仕事をこなせるもの ではない。そこで、まずは仕事のスピードアップが肝心と、処理法や分析法の見直し作業にとりかかった。とい えば聞こえはいいが、いかに仕事の手を抜くかが重要な ポイント。分析に関しては、表に示したすべての成分を毎週一回 は分析しなければならないというのが下水道だ。ほかに も規制される成分はあるが、金材技研では扱わないとい うことで、分析しなくてもよいということになっていた。 これほどの成分を短時間で分析するために、ボルガキッ ト法という簡易分析法で、シアン、フッ素、鉄、銅およ び六価クロムイオンを分析することにした。廃液処理に おいては分析の精度はあまり問題ではないから、という のが言い訳であった。また、監督官庁である都の下水道 局も、これを認めていた。ところが、これがのちに問題 を起こすことになった。詳しい話はあとの章で。なお、 フッ素に関しては、処理水中にカルシウムが多いことか ら、ボルガキット法では誤差が大きいことがわかり、の ちに、イオン電極法に切り替えた。さて、残りの水銀、ヒ素、カドミウム、鉛、亜鉛、マ ンガン、総クロムは原子吸光法で、油分は赤外分光法で 行うこととした。原子吸光法では、前処理や標準添加法 は行わないことにした。もちろん、これらを行わなくて廃液処理室も誤差はほとんどないことを確認した上でだが。また、 原子吸光法では、各元素ごとにランプのウォームアップ と検量線の作成に四十分ほどかかるが、一試料の分析に は、水銀とヒ素の分析を除けば、五～十秒ほどしかかか らない。したがって、毎週採取される一あるいは二試料 を原子吸光法で分析するのは、いかにも効率が悪い。そ こで、数週間分の試料を別個に貯めておき、同一成分を 連続して分析することによって大幅な時間の短縮をは かった。廃液処理で時間のかかるのは、処理液の中和と沈殿物 のろ過であった。中和は廃液処理装置が自動的に行って くれるのだが、比例制御ではないから、少量づつ中和液 を添加してはpHが安定するまで攪拌を続けるという動作 を繰り返す。酸濃度の高い廃液では、数十分もかかって しまう。時には一時間を超えることもある。しかし、人 間のカンはすばらしい。自動制御をやめて、pHの変化速 度から適当な中和液量をカンで判断するという手動操作で、これを五分程度に短縮した。世の中は手動から自動 へと進んでいるというのに、我が廃液処理は、ただ一人、 時代に逆行していたのである。沈殿物のろ過に関しては、 フィルタープレスを急きょ入れてもらうことで、自動化 と大幅なスピードアップがはかれた。これらの改善・手抜きと、のちに��方政行さんがきて くれたおかげで、月曜日に廃液処理、金曜日に分析をす るだけで、間の日はかなり研究をすることができるよう になった。シアン始末記廃液処理を始めた年であったろうか、下水からシアン が検出されるということが数回あった。そんなとき、下 水道局の立入検査があり、シアンが下水に流れないよう な対策を立てるよう指導された。その昔はともかく、当 時では、すでにシアンを使用する研究はあまりなくなっ ている。そこで、シアン検出のなんらかの原因は簡易 分析法にあるのではないかと考えて、下水道に 流される代表的な物質である洗濯用洗剤の水溶 液を、簡易分析法で分析してみた。この予想は ピタリと当たった。洗剤にはシアンは含まれて いないにも関わらず、シアンが検出されたので ある。つまり、この簡易分析法ではシアンと洗 剤を区別することはできないのだ。下水道局に は、この分析結果と、シアンを蒸留してから分 析するという簡易分析法の採用を報告をして、 一件は落着した。金材技研(目黒)における 水質規制及び測定項目*現在は一部改正されています。*つくばは水源地域なので、規制値は ほぼ10倍厳しい。項目名 規制値、ppm水 銀 ヒ 素鉄銅亜 鉛マンガン カドミウム 鉛六価クロム 総クロム フッ素 シアン (油分)pH0.0050.51035100.110.5215130(5 ― 9 )困った水銀表にみるように、水俣病の影響か、分析感度がよすぎ るせいか、水銀イオンの規制値はほかの重金属イオンに 比べて二～三桁厳しい。そこで、誰かが知らずに、ある いはこっそり、少量の水銀廃液を下水に流すとそれが分 析結果に現れてくる。ある時期にはほとんど毎週のよう に、下水からわずかな水銀が検出されたのでまいった。 何度か注意の放送をしたり、健康安全委員会で水銀廃液 を流さないようにお願いしたが、二～三ヶ月は水銀の検 出が続いたと思う。また、その後も、思い出したように 水銀が検出されることがあった。もう一つ困ったのは、実験廃液を処理して有害金属イ オンが残っていないはずの処理水から、水銀イオンが検 出されることがあったことだ。水銀イオン(塩)を含む と表示された廃液は、規制値が厳しいため、それ以外の 廃液と分けて処理し、水銀処理水として別に貯留してい た。したがって、処理水中から水銀イオンが検出された のは、表示されていないにも関わらず、水銀イオンを含 有する廃液があったわけである。そこで、やむを得ず、持ち込まれるすべての実験廃液 の水銀イオンを分析してから処理することにした。水銀 イオンの分析は原子吸光法で行うが、規制値の厳しさの ために、通常の元素の分析より手間のかかる還元気化法 という分析法によるほかなく、これ以後は、廃液処理に それまでよりも時間がかかることになった。 なお、実験廃液を分析していてわかったのは、飽和カ ロメル電極を使った電解液などの中からは、およそ〇・ 一から数ppm程度の水銀イオンが検出されることであった。この値は規制値をかなり越えており、飽和カロメル 電極の使用は望ましいことではない。その代わりとして 銀―塩化銀電極を使った方がいい。しかし、電極反応関 係の機器の製造業者に聞いたところでは、多くの研究者 が飽和カロメル電極を望んでおり、その業者も銀―塩化 銀電極は扱っていないという。あきれたのは、彼らがな ぜ飽和カロメル電極を使うかの理由であった。新たに銀 ―塩化銀電極を使うと、それまでの実験データとの整合 性がなくなるというのだそうである。しかし、単純に足 し算するだけでデータを整合させることができるのだ。 足し算を億劫がって、わずかなとはいえ、水銀汚染の片 棒を担ぐのはどういうものか。魔法の水作業をしていて発見することがある。その中の一つが 魔法の水だ。フッ酸やリン酸などを高濃度に含んだ廃液では、中和 処理後に凝集剤を添加しても、コロイド状の沈殿が凝集 しにくい。凝集していない沈殿はフィルタープレスを抜 けてしまうので、処理水中に沈殿が残ってしまう。そう なっては失敗だ。実際の実験廃液の処理では、凝集しに くい廃液か否かは前もって推定できないことがままあ る。中和処理後に凝集剤を加えても沈殿が凝集しなかっ た場合、処理中の液の半量を装置から抜き出してその分 だけ水を加えて希釈するとともに、酸を添加してpHを下 げてから塩化第二鉄を加えたのち、中和処理をし直す。 水を加えるのは塩の濃度が高くて凝集しにくい状態のコ ロイド状物質を凝集しやすくするためであり、塩化第二 鉄を加えるのは中和処理の際に水酸化第二鉄を生成させ、共沈効果により凝集作用を高めるためである。 ある時、凝集しにくい液をサイフォンでバケツに抜き 出している際に、不思議なことが起こった。抜き出して いる液のコロイドが、バケツの中でどんどん凝集してい くのだ。原因がサイフォンかバケツにあるのは明らかで あった。しかし、それまで何度も同じサイフォンやバケ ツを使っていたが、こんな現象は起きたことがない。と すれば、これらをその直前に何に使ったか、そこに原因 が隠されているはずだ。このときは、これらは二次処理 水を採取するのに使っていたのであった。それで原因が わかった。二次処理水はカルシウムイオンを多く含んで いるが、このような多価の陽イオンは凝集剤とコロイド などの架け橋的な役割を果たすことが知られているから である。つまり、バケツの底に残っていた二次処理水中 のカルシウムイオンが凝集効果を高めたのである。二次処理水の代わりに塩化カルシウム溶液を使っても、同じ 効果が得られた。それ以後、奇特な効果を顕す塩化カル シウム溶液を魔法の水と呼んだのである。そののち、塩化カルシウム溶液よりも塩化亜鉛溶液の 方が多くの場合に凝集効果が強いことがわかり、これを 第二魔法の水として多用した。廃液処理に関しては、俣野さん、��方さんや歴代の安 全係の人々のこと、庶務課と併任であったから、多くの 庶務課の人々と秋の旅行や忘年会などをともにしたこ と、鉛イオン、あるいはEDTAなどの有機系錯化剤を 含む廃液処理の苦労、つくば移転の際の大量の不用試薬 の持ち込みのことなど、まだまだ話題は尽きないが、あ まり長い駄文は飽きられるので、この辺で筆をおきたい。(反応制御研究部)廃水の安全基準を確認する原子吸光分析こんな行事もありました創立十周年記念講演会の舞台裏古林英一 研究所の創立十周年を前に管理庁舎が完成した。当時 の新聞のコラムに、この完成に当時の橋本所長がご機嫌 であるという記事が掲載されていたのを覚えている。こ の三階の大会議室(講堂)を使い、海外から代表的な学 者を七～八名招いて記念講演会を行うことになった。全 所を動員した大変な行事であった。入所して九年目の年 に当たる私に与えられた仕事は、講演会の会場係であっ た。完成したといっても管理庁舎の細部の仕上げは未完成 のところがあり、大会議室には未だ映写用スクリーンが 取り付けられていなかった。記念講演会に間に合うよう スクリーンを取り付けることになったが、どのような仕 様のものをつけたらよいか、会場係と事務方の間で議論 があった。私は当時、写真をできるだけ大きく上映し、 提示効果を最大に引き出す電子顕徴鏡学会の発表形式に 魅せられていたので、スクリーンはできるだけ大型で、 しかも左右二 つの画面を同時または交互に上映できる横 長のスクリーンをつけるべきであるとの意見を主張した ように思う。当時会計課長だった榊原さんがその場におられ、「(私 に向かって)あなたは詳しそうだから手伝ってほしい。 (部下に向かって)この人のいうようなものがつくよう、 話を良く聞いて発注するように……」と指示を出された。私のように若い研究員の意見にも耳を傾けて下さる管理 部の幹部がおられることにいたく感動し、また責任を感 じたことを記憶する。実際には残念ながら、大会議室に は映写室からの映写光線を遮る板がステージ周りに設置 されており、思ったほどの大きさのスクリーンは無意味 とわかったが、それでもその範囲で最大限のものをつけ ることができた。これが、今回のつくば移転まで二十八 年間にわたり様々な講演会に使われてきた、ご存じの目 黒の大会議室のスクリーンの設置経緯である。 海外からの参加者にはそれぞれVIPのエスコート役 が指名され、私の所属した金属物理研究部では本多龍吉 さんが米国GE社に所属する物理冶金学の権威David Turnbullのエスコートを担当したと記憶する。Turnbull  は当時の珪素鉄の二次再結晶のインヒビター効果に関す る有名なMay―Turnbullの論文や、合金の析出の研究な どで我々にもなじみが深かったが、とても気難しそうで うっかり冗談も言えない取り付きにくい印象があった。 この人はその後、非晶質材料の先駆的研究で第一回日本 国際賞を受賞したことでも我々の記憶に新しい。 フランスの高純度材料研究の大御所、CNRSのM. G.  Chaudronの都合が悪く、代わって招待講演をO. Dimitrovが行ったが、この人とは専門が共通の再結晶で あることもあり、その後も交流がある。輝くような貴族 的容貌の持ち主(本多龍吉さんの評)であり、当時あこ がれを抱いて見ていたことを記憶する。それから三年ほ ど経過して、超高圧電子顕微鏡による高純度ニッケルの 再結晶の研究のため、私のところに一年間留学したPier­re MerklenはDimitrovの教え子であった。Merklenの金 材技研滞在では、吉田秀彦さん、西島敏さん、川崎要造さん、菊池武丕児さんなどにいろいろ助けていただいた。 Dimitrovは実は専門以外にも私と多くの類似点を持 つことをMerklenから聞き、驚くとともに親近感を感じ た。まず私と同年齢であること、とすると、三十一歳く らいで記念講演会での招待講演を見事にやってのけたこ とになる。論文原稿の作成段階で、ワープロがない当時、 行っていた「原稿の切り張り」のやり方まで私とそっく りであるという。Dimitrov夫妻とは最近、国際会議などで会う機会が何 度かあり、今年(一九九四年)の六月北九州市で開催さ れた高純度ベースメタル国際会議でも基調講演を行うた め来日した折にも話をする機会があった。しかし寄る年 波には勝てず、貴公子のようなさわやかな面影はもはや 薄れていたが、他人事とは思えなかった。 話を十周年記念行事に戻して、港区白金の八芳園を会 場に、これらの外国からの賓客などを招いて祝賀会が催 されることになった。大久保彦左衛門の屋敷跡という八 芳園の壮大な日本庭園は、祝賀会の会場の雰囲気を大い に盛り上げたが、金材技研と会場の間は若干距離がある ため、来賓や幹部職員を輸送するためにレンタルのマイ クロバスを用意し、当日トラブルを起こさないように運 転を担当する職員が走行練習を連日繰り返していたのを 記憶している。しかし八芳園には当日、私たち一般職員 は歩いていった記憶がある。さて、私の担当は記念講演会会場でのスライド上映の 準備をすることであった。最近はOHPが使われること が多くなったが、当時の講演資料はほとんどスライドに よっていたので、この仕事は非常に重要であった。講演 者によっては十六ミリの映画を用いるので、これに関しては造詣が深い腐食研究部の清水さんに担当して戴いた。 当初無声フィルムを想定していたが、講演者が持参した フィルムには迫力のある音が入っており、慌てたがうま く上映できたときはほっとした。完成した管理庁舎の大会議室には、よくご存じのよう に、会場の後ろに立派な映写室が設けられており、そこ からスライドを上映したいと考えた。しかし、当時、手 持ちのスライド映写機はどれももっと近い距離での上映 を対象にしたものしか研究所にはなかった。映写レンズ の焦点距離が短かすぎるので、うしろからの上映では画 面がスクリーンの何倍もの大きさになってしまう。 映写室から上映できないことになると、格好が悪いが 会場の中央部に映写機を置く台を持ち込んで上映する (最近まで金材技研でやっていた)方法を採用せざるを 得ない。これは目障りであり、せっかくできたばかりの 新しい会場も台無しである。なんとか映写室から上映で きる映写機はないものか……、いろいろ関係者に問い合 わせたがそのような商品は市販されていないこともわ かった。市販のカメラ用交換レンズを加工することも考 えたが、その時間が無かったし、うまくいく保証もない。 残念であるがあきらめて手持ちの映写機を使うことに 決めようとしたときであった。天の助けか、そこに耳寄 りな情報が寄せられた。写真器材の大沢商会から、「その ような目的の長焦点の映写レンズなら、小穴純が設計し、 日本光学が製作した特製のレンズを装着したスライド映 写機が日本に三台あり、そのうちの一台が東京プリンス にある」というものであった。小穴純は当時、オプティッ クスで有名な東大教授であった。この情報をもとに港区芝の東京プリンスホテルに早速電話し、借用の約束を取り付けることができたときは半 信半疑であった。当方が国立研究所職員ということで信 用があり、私の名刺と自筆の借用書を預けたが使用料は いらないといわれたように記憶する。しかし日本に三台 しかないような貴重な品をもし壊したらどうしようか思 案し、会期中にも気を使った。何事もなく無事に返却で きた時にはほっとした記憶がある。こうして、映写装置が見えないすっきりした新会場で の記念講演会が実現した。上映効果もまずまずであった。 この小穴純―ニコン映写機は今でも東京プリンスホテル にあるのだろうか。貴重品の借用を無条件で認めてくれ た担当責任者は今どうしているだろうか、増上寺の前を通る度に今でも時折思い出すことがある。ちなみに筑波 に移転した金材技研の新しい国際会議が可能な第一会議 室には、映写室の前からスクリーンに直接上映できる、 ズームレンズ付きの最新の映写機が装備されている。こ の映写効果は東京プリンスから借用した映写機よりすば らしい。当時を振り返って、スクリーンの仕様や映写室から上 映可能な映写機に凝るなど、研究所にとってはおそらく 大して重要ではなく、単に自己満足でしかなかったこと にも情熱を持って対応した、若き日の自分に苦笑するば かりである。(反応制御研究部S32・4 ・1～H7 ・ 3・31)創立十周年記念文化祭の思い出小 川 弘昭和四十一年七月九日土躍日、管理庁舎三階講堂で金 材研創立十周年記念文化祭が開催され、午後一時から職 員による演芸大会が、また同六時からダンスパーティが 行われました。この記念文化祭は、職員有志が主催したものであり、 研究所の正規の行事ではありません。ご承知の方も多いと思いますが、金材研は創立十周年 記念行事として国内外の研究者を招き研究講演会を開催 したのですが、その資金は民間企業からの賛助金であったと聞いております。橋本所長は、この賛助金の一部を 職員が企画する記念イベントに振り向けても良いと考 え、このことを秘書の栗林さんに伝えたのが事の始まり です。彼女は同郷の誼なのか私にこの話を持ち込んできまし た。栗林さんの言によると、橋本所長はドイツのマック スプランク研究所などで経験した「お祭り」が印象深く、 金材研でも実現させたいと考えている様子であるとのこ と。私はこの話を聞き、単純に高校や大学で催す「文化祭」 のことを思い浮べていたが、期せずして栗林さんとイ メージが一致していたこともあり、話はとんとん拍子で 進みました。記念文化祭とするイベントのネーミング、 催し物は職員による演芸大会とダンスパーティにするこ となど。私はこの日の夜、靖心寮の仲間達にこのことを開会の挨拶防衛庁音楽隊説明し、全面協力の確約をとりました。この時、仲間の一人が「材料強度研究部の福原さんは、 大学のクラブでバンドをやっていたのでギターはセミプ ロ、発起人に引き摺り込んでおくと何かと便利である」 との貴重な助言を得、翌朝彼の研究室へ出向き協力をお 願いし快諾を得ました。一方栗林さんは、科学研究官付の川住(順)さんと金属 物理研究部の岡本さんを誘い、発起人は五人となり、準 備作業開始です。準備の途中、職員会(現職員組合の前 身)から「職員会の主催にすべきではないか」とのクレー ムがついたのですが、資金源などから職員会が主催するのは適当ではないので、「協力」をお願いすることとし、 合意を得ました。文化祭、とりわけ演芸大会の成否はエンターテーナー を数多く集めることに掛かっていると考え、私達は、テ ニス部、野球部、バレー部に団体出演をお願いするとと もに、各研究部を廻り隠れた芸能人の発堀に努めました。 その効果でしょうか、募集締切り前に、歌はもとより、 演劇、奇術、楽器演奏などなどいろいろなジャンルから 出演申込みがあり、私達はうれしい悲鳴をあげました。 演芸大会へ出演する人達は毎日仕事を忘れて(？)練習 に励んだのです。また、ポスターが張り出されてから、 研究所内はしばらくの間記念文化祭の話で持ち切りだっ たと聞いています。しかし、この後難問を抱えることになったのです。舞 台です。建設業者に頼んで講堂のステージを広く高くす る計画だったのですが、業者の見積りをみてびっくり。 予算の半分以上の費用が掛かるのです。このため外注は 急きょ取り止めです。そこで思いついたのが、研究室に ある実験台の利用です。化学と物理庁舎から重い実験台 を御神輿よろしくワッショイ！ ワッショイ！ ステー ジの上に並べて、縄と針金でガッチリ結びました。そし て専門業者から借りた幕を取り付け完成。その出来栄え に、私達は思わずバンザイ三唱。舞台づくりの費用が結果的には当初の予算を大きく下 回ったので、文化祭へ参加する職員の皆さんに当日〝お 弁当〟をサービスすることができました。 文化祭の当日の天気は薄曇り。正午過ぎ、厳めしい制 服に身を包んだ陸上自衛隊音楽隊の到着です。文化祭を 一気に盛り上げるために特別にお願いしたものです。音ハワイアン祝辞楽隊には文化祭のオープニングに先立って、管理庁舎前 で演奏していただくのです。これは所内の皆さんへの オープニングのお知らせと、隣りの病院の看護婦さんを ダンスパーティへお誘いするための演出でもあるので す。音楽隊による演奏が始まったとき、私は、準備万端と とのったという気持ちの中にも一抹の不安がよぎり、あ れこれと思いを巡らしていました。「そうだ、このまま音 楽隊を帰すのは惜しい。舞台で再演してもらうことにし よう」音楽隊の演奏が終わるのを待って指揮者にお願い しました。二つ返事でオーケーがでました。 午後一時、会場は満席、入口付近に立っている人も大 勢います。二十六名の音楽隊が壇上へ。壮観である。一 瞬静まり返った会場に勇壮なリズムが流れる。演奏を聞 いている職員の顔は笑顔。演奏を終えた陸上自衛隊音楽 隊に拍手喝采が送られました。いよいよ文化祭演芸大会の開会です。発起人を代表し、 小川が開会のあいさつ。引き続き、橋本所長から祝辞を いただき、セレモニーは終わり。トップバッターの登場 です。順にプログラムを捲っていきましょう。なお、歌の伴奏は、NHKから、アコーディオン、シャ ミセン、尺八の専門の方々を派遣していただきました。 1、ハワイアンギター福原(材強)、太田口 (材強)、西村(工業化)、鰐川 (製治)・ウクレレ 岩田(庶務)・ボーカル 加藤(溶接) ギターの名手福原さんが率いるグループ。見事なチー ムワークで、ハワイアンなどを楽しく開かせてくれまし た。なお、リーダーの福原さんとメンバーの一人である岩田さんは、この演芸大会が縁となり、生涯の伴侶とな りました。2、ギター演奏石原(腐食)外一名(友情出演) いつものペースで、静かに、そしてゆったりと名曲を 奏でる石原さん。3、ハワイアンウクレレ 斎藤(非鉄)・ボーカル 吉岡(非鉄) 野球部のバッテリーがここでも名コンビ。いかにも場 慣れしているという感じです。4、尺八川崎(物理) 川崎さんは、尺八を始めてまだ日が浅いので、音が出 る程度と謙遜していましたが、どうしてどうして、聞か せてくれました。5、琴志賀外一名(友情出演) 会計課の志賀さんの妹さんとそのお友達が振り袖姿で 登場。演芸大会に彩りを添えてくれました。6、ギター演奏金色夜叉高橋(昌)(溶接) ギター大好きの高橋さん。つっかえてもニコニコマイ ペース。ご本人が一番楽しそうでした。7、奇術森本(電磁) 〝話術〟で人をけむに巻くのが得意な森本さん。今日 は紐を自由に操る手品を披露。やるもんです。8、歌田中(会計) NHKのど自慢コンクールに出たことがあるという実 力派の田中さん。ドイツのクラシック音楽から「アベ マ リア」を熱唱。9、歌(歌謡曲)渡辺(技術) 演芸大会には無くてはならないこの人〝ナベさん〟。オ ハコの「逃げた女房」で会場はやんやの大かっさい。隣 りの病院の看護婦さんからテープが投げられました。 10、歌(民謡)東海林(庶務)、加藤(溶接)民謡の宝庫、秋田県出身の二人が登場。かの東海林太郎の血筋という東海林さんは、「秋田長持唄」を、また、 歌ならなんでもこいの田舎のプレスリーこと加藤さん は、「秋田おばこ」を歌い上げました。二人とも伴奏(シャ ミセン&尺八)の方からお誉めの言葉をいただきました。 11、歌(カンツォーネ)代田(企画) あちこちのコーラス同好会から引っ張り凧の代田さ ん。本格派です。カンツォーネから「カタリカタリ」を 聞かせてくれました。12、劇――現代版金色夜叉(ただいま映画撮影中)――キャスト(軟式庭球部有志による)〔監督〕古賀(会計)、〔楽 団〕佐藤(化学)、〔弁士〕高橋(化学)、〔お宮〕西田(電磁)、 〔貫一〕上原(非鉄)いつもはまじめこの上ない人達がふまじめなことをや るからおもしろいのです。ストーリーは良く分からない のですが、場内は爆笑につぐ爆笑。ここで、飛入り歓迎の時間をとりました。① Dr.  Marc Aucoutourier  (留学生。仏国立科学技術院) フランスからの留学生、オクチューリエさんです。本 場のシャンソンを聞かせてくれました。親しみ方、楽し み方が上手です。これは国民性でしょうか。②高橋(会計)この日の朝、飛入り宣言。出番までに十二分にお酒で ノドを潤し、絶好調。「南部牛追唱」を聞かせてくれまし た。まさに、プロ顔負けです。③永田(会計)「高橋さんが出るなら自分も」と張り切って参加して くれました。オハコの詩吟「会津白虎隊」を手振りよろ しく朗朗とうたってくれました。盆踊13、エレキギターエレキギター入倉(会計)ミスターX&Y (友情出演)・ド ラム ミスターZ (友情出演)・ボーカル 川瀬(会計) ロック調の激しいリズムが場内に響く。大先輩の方々 はビックリ。若い人達はニッコリ。ついに舞台の下でツ イストを踊りだす若人。気がついた時には、ボーカルの 川瀬さんも舞台をおりて踊りの輪の中へ。みんな実に楽 しそうでした。14、歌でつづる女の一生(？)岡沢(材強)、川住(庶務)、栗林(庶務)、長橋(庶務)、野村(庶務) 大変おもしろそうな演物でした。彼女たちの一生に幸 せあれ！15、民踊福園はつき(庶務)16、民踊振付 福園はつき(庶務)・踊り 今井(特材)、金井(技術)、 上本(会計)、田村(工業化)、永田(非鉄)、渡辺(会計)福園さんの指導で六人の浴衣姿の美女が見事な民踊を披露してくれました。今、舞台に〝六輪の花〟が咲いたのです。福園さんは師匠の踊りを見せてくれました。17、劇――金材技研五人男――脚色、演出 萩原(製治特研生)・キャスト 〔口上〕加藤 菊代(物理)、〔橋本所長〕和田(物理)、〔岩村科学研究官〕向山(工業化)、〔戸部管理部長〕渡辺(会計)、〔河田材試部 長〕中村(工業化)、〔橋本守衛長〕福沢(物理) 歌舞伎狂言で有名な「白波五人男」をもじった「金材 研五人男」です。橋本所長、岩村科学研究官、河田材試部長、戸部管理部長と橋本守衛長の五人男のキャラク ターを実に良く捕らえ、ほどほどに揶揄した脚色もさる ことながら、これを演じた口上の加藤さんと五人衆もま た名役者でした。圧巻でした。18、盆踊金材研秋田県人会、金材研美女&美女フィナーレは盆踊りです。いつの間にか一人増え、二 人増えて大きな踊りの「わ」ができました。 実にバラエティに富んだ、そしてまた楽しい演芸大会 でした。しかし浮かれている場合ではありません。次はダンス パーティです。会場の衣替えです。芝浦工大からバンド の皆さんが到着。そしてケーキとジュースなどが運び込 まれました。でも残念ながらダンスパーティのことは、 紙面の都合上、割愛させていただきます。 こうして三十年前の「遊び」を一生懸命思い起こして いると、何故か自分が若返えったような不思議な気持ち です。私達は日頃から、勤勉さの中に「遊び心」を持ちたい ものです。この「遊び心」こそ、自分ならこう考えると いった既成概念にとらわれない「自己主張」なのです。 別の言い方をすれば、好きなことを好きなようにやると いった「遊び心」でもあると言えましょう。「遊び心」は、 創造(研究)活動の本質なのです。(企画課S36・7・1～49・6・30S58・12・ 2 ～62・12・15)「中学生のための金属教室」の生い立ち武井 厚「中学生のための金属教室」は、現在当研究所におけ る科学技術週間の一行事として恒例になっており、好評 を博しているが、その生まれは約二十年前に遡る。ほと んどの職員が少なくとも一、二回は担当者を経験してい るだろうから、それぞれに思い出があるだろう。ここで は生い立ちに的を絞って記述しよう。つい先日まで、そ の記録は「委員会議事録」の形で手元に残っていたが、 目黒からつくばへの移転に際し、大方の書類を整理して しまったので、この記事はおぼろげな記憶を頼りに記述 するほかない。誤りがあったらご容赦いただきたい。 その年、本庁から「科学技術週間に航研が紙飛行機大 会を開いて好評を得ているので、金材技研も地域住民を 対象に何か行事をしませんか」との要請があった。たま たま筆者は「研究講演会等委員会」の委員をしていたが、 そこにその問題が持込まれた。委員会の委員長は既に亡 くなられた渡辺亮治部長で、メンバーは現在の小口科学 研究官、すでに退職された古林さん、小川恵一さん、鈴 木正さんなど錚々たるメンバーであった。 何か行事をしなくてはならないことは、仕方が無い雰 囲気であった。それでは誰を対象に、どんなことをする かの、侃々諤々の意見が戦わされた。「誰に」に対しては、 先ず的を絞った方がやり易いだろうということになり、 主婦、高校生、中学生、小学生、どの辺にすべきかの議論がなされた。結果は、最もやり易いのは、科学に興味 を持ち始める「中学生」だろうとのことで一致した。 次に何をするかに議論が移った。金属製品を展示した だけでは面白くない。講演会のようなことをしても、中学 生は一生懸命聞いてくれるだろうか。やはり、子供たち の前で実験をしてみせようではないか、「それもなるべく子供たちにも参加させて」との意見に収束されていった。 しかし、慎重派から、「実験をするのであれば、火や薬 品を使うのだろう、もし子供に怪我をされたらどうする」 との強硬な反対論が出た。賛成派は「職員が万全を期し て怪我の無いように注意する、慎重過ぎては面白いこと ができない」と押切った。実際にどんな実験をするかでもいろいろな意見が出さ れた。一つの具体的な実験に対して、ある人は「中学生に は難し過ぎる」と言い、他の人は「やさし過ぎて馬鹿に されてしまう」と言う。中学生の子供をもつ鈴木さんは、 子供の理科の教科書を借りてきて、委員会に持込んだ。 いろいろな議論が重ねられて、焦点が絞られていった。 いくつかの部が選ばれて、実行委員会が結成された。 私は当時腐食部に所属していたので、「金属は大地に帰 る」のテーマを設定した。テーマの内容は、「鉱石が大地 から掘り起こされ精練(還元)という過程を経て金属に なり、腐食(酸化)によってさびて、再び大地に帰る」 ということである。このテーマの下に、多くの腐食部員 の助けを借りて、いくつかの実験を行った。記憶にある ところでは次のようなものである。実験一釘を木工の松村さんから貰ってきて、水道水、 塩水、砂糖水、酢水などに浸け、さび方やさび の種類を比較した。実験二蓚酸鉄を試験管の中で加熱すると、還元され て細かい純鉄ができる。それを斜にした薬包紙 の上にぱらぱらと落とすと、すべる摩擦熱で簡 単に発火して燃える。これは純粋な金属微粒子 がいかに酸化(さび)しやすいかを示した。こ れには皆びっくり。後藤建次郎さんの案であった。実験三 防食を目的としためっきに関連させて、釘を 硫酸銅溶液に浸すと、イオン化傾向の差から、 一瞬にして表面に銅が被覆される。これも瞬間 的に変化が現れて好評であった。 以上は腐食部の担当したものであるが、写真はその時の様子を示している。その他にも多くの部がそれぞれ趣 向を凝らした実験をした。その中で人気があったものは、 工業化部の担当した鉄を溶かして鍛造や圧延によって形 を作っていく実験、そして材強部が担当した引張試験で、 破断の際に大きな音が出る実験などである。 上記のように、中学生に興味をもって貰おうと、いろ いろな企画が出され、多くの人の助けを借りることに なったが、果たして実際の子供たちは来てくれるだろう か。地域の広報紙だけでは心許ないということになり、 企画課の大高さんと近くの目黒第二中学校を訪問した。 校長先生と理科担当の先生にお会いし、企画案を話した ところ、非常に興味をもってくださり、課外授業として 二年生を連れてくることになった。結果的には、目黒二中の生徒、その他の近くの中学生、職員の子供たちなど が参加して、総勢百人を越えたと記憶している。大成功 であった。最後に出る缶ジュースも好評の原因であった ようだ。翌年は、渡辺亮治部長から私が総責任者を任され、金 属教室の校長先生を経験した。三年目は、労力の分担と マンネリの排除から、ほとんどの担当者が交代したが、 工業化部の溶解と材強部の引張試験は継続された。あれ から延々と二十年間、「中学生のための金属教室」は多く の所員の力によって続いている。先日もEメールの中に 協力者募集があり、当時を思い出し、もう少し若かった ら応募するのにと、感概無量であった。(第3研究チーム S33・5 ・1～H7 ・ 3・31)ソフトボール大会大場敏夫金材技研の筑波移転も、平成七年度の材試地区の移転 で完了し、筑波における新たな研究体制のスタートとな りました。私が金材技研に入所した昭和四十七年四月か ら、既に二十三年間が過ぎました。この間、目黒の勤務で私の心にはいろいろな思い出が 刻まれました。人や仕事、楽しい遊びなど、とても沢山 の出来事がありました。特に思い出に残ったのは、金材 技研がとてもスポーツが盛んな研究所で、いろいろな種目のレク大会が開催され、それに参加したことです。こ こでは、その中で一番楽しかったソフトボール大会のこ とを思い起こしてみたいと思います。所内のレク大会が現在のように多種目行われるように なったのは、確か、私が入所した翌年(昭和四十八年度) であったと思います。『レクリエーション大会実行希望種 目調査』が当時のレク大会実行委員会(委員長 田中千 秋氏)の手で行われ、そして職員から要望された中で上 位十二種目について、再度一人二票の投票で決定したの が最初だと記憶しています。ソフトボール大会という種 目も、その結果生まれたものだと記憶しています。また この大会は、テニス大会やボーリング大会に次いで長く 続いている大会です。記念すべき第一回大会は、昭和四十九年九月三十日から行われ、優勝クリープA、二位疲れAそして三位クリー プBと池向こうが独占したのをよく憶えています。その 後、『打倒、池向こう』と闘志を燃え上がらせて大会に望 んだチームも多かったと思います。ソフトボール大会の楽しみ方は、グラウンドで体を動 かし、大声を上げてハッスルし、気持ちよい汗をかき、 しかも勝つ、といったことだけではなかったような気が します。試合には一チーム九人以上の仲間が必要で、部 や課によっては人集めにかなり苦労(合同チームの場合 もあった)したところもあったようです。それでもソフトボール大会が常に多くの参加チーム(参加者数)のも とで開催されたのは、もう一つ大きな楽しみがあったか らだと思いませんか。目黒ではソフトボール大会は所外のレクとなり、厚生係 の人が苦労して取ってくれた狛江グラウンドや夢の島運 動場などへ弁当や飲み物持参で行く事が大きな楽しみ だったと思います。試合と試合の合間やお昼時には、各 チームそれぞれグラウンドのいろいろな場所に車座になり、 おにぎりやサンドウィッチそれからおかずを交換したり して、好プレーや珍プレーの話で盛り上がったものでした。 私は社交性が強いのか(ただ図々しいのか)、対戦相手 のチームの所まで出向き、美味しそうなごちそう(谷治 さんの持ってくるコロッケは有名でした)を頂いた事も ありました。そのお礼は、試合でお返ししたと記憶して います(お礼のつもりではないのですが、ホームランを 打ってホームベースを踏み忘れ、その一点に泣いたこと がありました)。そうそう、取って置きの楽しみがありました。ソフト ボール大会に限らないことだと思いますが、レク大会の 帰りになると体が脱水症状を起こしているので、よく治 療に行きました。良薬口に旨し。門前仲町、銀座、恵比 寿、中目黒で祝勝会や残念会と称し、チームや他のチー ムの人達と美酒に酔い、試合の疲れをとり、明日からの 活力を養ったものでした。ソフトボール大会も今後は所内のグラウンドでの大会 ということで、目黒での大会とは違いますが、目黒での 思い出に負けない楽しい思い出をいっぱいつくりたいも のです。(環境性能研究部)スペースシャトルの写真と たわむれる筆者Expo'85ビデオあるアシスタントディレクターの思い出岸本 哲ひと昔も前のことです。入所一年目の私のところにあ る人がやってきました。原田幸明さんです。科学万博用 のビデオをつくるから〝助監督〟になれ、ということで した。(彼の言う助監督とは、AD〈アシスタントディレ クター＝小間使〉のことだったんだよな。そんなの知ら なくて、当時の巨人軍は王助監督がいて、序列は藤田監 督、王助監督、牧野 ヘッドコーチの順だったから、えら い方だと思っていた。)何となく大変なような気もしたけ れど、科学万博とビデオ(その当時はビデオソフトが一 本一万四千八百円* * *に至っては二万円以上してた) という響きにつられ、上司の白い目を気にしながら引き 受けてしまいました。そもそもこの科学万博の展示の計画は、雀部さん・田 頭さんを中心に、金材研の超バリバリの若手研究者たち (羽多野さん、松下さん、原田さん、…)がアイデアを 出し合い、万博への出展の内容を考えていたのです。今 でも所内で目にする古代エジプトの壁画(羽多野さん) やパネル(田頭さん)、強力な磁石を使ったコアラと恐竜 の木登り(羽多野さん)、磁性流体の迷路(古林さん)、 形状記憶合金の温室(小林さん)、熱発電素子で飛ぶヘリ コプター(西田さん、松下さん)、超耐熱合金の力比べ(雀 部さん)等々。そして我らが親分―原田さんはビデオ担 当だったのです。まず、原田さんがビデオバンクという会社の社長さん にお願いして、ビデオの撮影・編集セットを破格の安さ で借りることに成功したのです。この会社、別にやまし い会社ではなく、日本経済新聞社系の会社だそうで、パ リやミラノにもオフィスがあり、そこらのビデオソフト 屋さんとは格が違って本当は我々なんか相手にしてくれ ない筈なんだけれど、まあ研究者はどんなビデオをつく るのか知りたかったんでしょうね。次にメンバー集め。同期の西村氏は無条件で引き込み (悪いことをしてしまった)、写真に詳しい鈴木俊一さ ん、ビデオカメラを持っていた(当時としてはすごいこ とだったんだ)菊池さん、八ミリ映画を作った経験のあ る大坪さん、長島さんと錚々たるメンバーが集まりまし た。機材も人材もそろったので、次は作戦会議。先ず、ビ デオの内容を決めるのですが、これまた一言で言うと大 変でした。アイデアを一般公募した(つまりスタッフ以 外の金材技研の人たちからアイデアを募るお知らせをま わした)のですが当然のように集まらず、結局スタッフ だけで考える羽目になってしまい、それはだめ、これも だめ、あれがいい、そっちがいいの大騒ぎです。(その後 強制的、ほとんど脅迫的にアイデアを要求したこともあ りましたけど。)小学生くらいの子どもにもわからなければいけない し、科学的でなければいけないし、おもしろくなくっちゃ ビデオじゃないという意見と崇高でなければならないと いう意見の対立が表面化し、(要するに二人で言い争って いたんだけど)どちらも譲らず、結局折衷案になったり して。つまり如何に金属というものが身近に存在し、役立っているかということを一分間くらいの物語十編ぐら いで紹介しようとなりました。すったもんだのすえ、アイデアを決めてからは俗に言 う絵コンテ。あれがこうなって、ああやるのに三十五秒 かかるから、五十秒後にはこうなるはず…というふうに 考えながら絵にしていくんだけど、ビデオ一分間を考え るのに一日かかった。それからキャスティング。男優さ んはスタッフや実験装置の持ち主やたまたまそこを通っ た人で何とか間に合わせるとして、メインとなるナレー ターの女性を誰にしようかということで、ある部付の美 しい女性にお願いすることにしました。撮影にはいるとハプニング続きです。撮影中のくしゃ みやあくび、電話のベルはよくあることで、フォークリ フトを撮影しようとして、軽く引き受けてくれた人に事 情を説明するといったん姿を消し、ヘルメット、手袋と 安全靴で再登場したり、白衣の似合う化学の郡さんをお 医者様にしたり(けが人は長島君だった)、切れるはずの 試験片がなかなか切れなかったり、逆にうまくいったん だけどそのために装置がこわれたり、これまた大変でし た。楽しかったけど。ロケにも出かけました。金属が世の中にどれほど使わ れているかを示すんだと、東京タワーから始まって、品 川のガスタンクや横浜のコンテナや貨物船と、金属でで きているものを撮りまくり、途中高速道路の上では上空 を飛ぶ航空機を「ジェットだ！アルミだ！金属だ！」 と叫びながら車の窓から撮影したり。帰りに横浜の中華 街で食べたラー メンと肉まんはおいしかった。 撮影が終わると映像のチェック。絵コンテと合わせて、 あの場面にはここをこう使って、それからここを…と考えて時間を計ってナレーションが入るかどうかを確認 し、BGMは何にしようか…etc…、これを金材研の 30号庁舎の談話室で深夜までやっているのです。当時 (？)30号庁舎では深夜まであるいは泊まり込みで仕事 をするのがめずらしかったので、連日連夜酒を飲んでビ デオを観ているしょうもない連中と思われていたに違い ない。最後の編集作業と音入れは若手の担当で、例のビデオ ソフト会社(ビデオバンク)の六本木のスタジオまで出 かけてしたんだけれど、これがまた根気のいる作業で、 三日間くらいタクシーで靖心寮に帰ったかな。 ここまで苦労したビデオテープの上映を含め、雀部さ ん達が造った様々の作品をお客様に説明する説明員とし て、私も一日だけ筑波のエキスポセンターに行きました。 その日はヘリコプターの松下氏やビデオスタッフの西村 氏を含め、突然展示品の修理を言い渡された古林氏、な にも関係が無くただ同期でつくば市に住んでいるという だけの長谷川氏を含め、若い人を中心に(日曜日のせい でしょうか)構成されていました。十九歳のコンパニオンの小林さんから「先生、先生」 と言われてだいぶ鼻の下を長くしていたり、二十六歳の 電通の社員の人(この人もコンパニオン)と遊んでいた り、何をしに行ったのか分からなかったけれど、写真を 見る限り…。実際の説明はと言うと、とっても素直そうなお子様に 「これ、何の役に立つの？」「ドキ」「ねえ！ おじさん」「おじ…」会場の様子「これ鉄より重いの？」「え！」少し秀才げの子は形状記憶合金のバネを見て「どこで記憶するの？」「別に脳みそがあるわけじゃないんだよ」 「どうして暖めると縮むの？」「それはね、暖めると変態が起きて」「変態って変わった人のこと？」近くに住んでいる研究公務員らしい大人からは 「この熱電素子の効率はどれくらいかね」 「え！効率…良くはないでしょうね…」 (後で聞いてみたら、効率を問題にする方がおかしいそ うです。)最後に残念であったのは、このコンパニオンの方々と 合コンをやろうという話になったのですが、相手側が忙 しい(本当に忙しかったかどうかは分かりませんが)と いうことで実現しなかったことです。誠に残念でありま す。最後の最後になりましたが、このビデオの作製に協力 してくださった方々にはまだお礼を申し上げていなかっ た気がします。けが人の包帯を巻いて下さり共済病院か ら松葉杖を借りてきて下さった医務室の鈴木さん、オー ジェの土佐さん(他でもお世話になりました)、材料試験 室の古屋さん、油圧サーボの太田さんと疲れ試験部の 方々、高温引張試験のクリープ試験部の方々、フォーク リフトやシェアーの工業化の方々、水素貯蔵合金の天野 さん、形状記憶合金の鈴木さんと山本さんと小林さん、 熱電素子の西田さん、NRIMメダルの皆川さん、木工 の松村さん、盆栽を剪定してくれた小島さん、スーパーインポウズの作業をしてくれた山脇さんおよびその他の 方々、そして最後の最後、ナレータ—として出演してく れた杉野みゆきちゃん(今はどうしているんでしょうね) にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。(第5研究グループ)同好会、サークルは花盛り戸部ゴルフ教室はじまりの頃戸部健二郎 私は昭和三十一年から四十二年まで、金材技研には約 十年間お世話になりました。いまその十年間を顧りみま すと、数々の懐しい思い出が、さながら走馬灯のように 眼前をよぎるのを覚えます。あの広大な敷地、鬱蒼と生 い茂る樹木、春は桜、秋は紅葉と、その素晴しい風情、 大都市の一角にあるとは思えぬ環境の良さに一驚したこ と、また、テニスコートが三面すぐプレー出来る状態に あったことなど、厚生面を担当する立場の者としてなん となく心嬉しく思ったことなど思い出されます。 そんなことで、テニスは、創設当初より皆さんにプレー を楽しんでもらうことが出来ました。春、秋には、他の スポーツに先がけて所内大会を催すなど、厚生施設のと とのわない時期だけに、皆さんの喜びは大きかったと思 います。運動会また思い出されるのは、三十三年の秋の運動会です。 創立三年目を迎え、所員も百二十名近くになったので、 所員と家族の親睦をかねて運動会を開催することにな り、近くの東山小学校の運動場を借用して盛大に行われ ました。ご家族多数のご参加を得て、競技も家族ぐるみで面白 く進行し、大喝采を拍する場面なども多く、皆さんに、秋の日の一日を楽しく過ごしていただいたこと、創設後 間もなかったので準備万端不行届であったが、結果は成 功だったと満足したことなどを思い出します。部対抗野球大会越えて、翌三十五年、各部の若い人達のエネルギー発 散にと各部対抗の野球大会を行うこととなり、八幡製鉄 の国分寺のグランドを借り切って実施しました。なにせ 一日で決勝戦までやろうというのだから大変です。しか し、どうやら夕日が西山に傾きかける頃までかかり終了 することが出来ました。選手も大変だったと思いますが、あと始末をする私共 は正に ヘトヘト。あの時のことは今でも思い出します。 後日大会の感想をきいたところ、昼のにぎりめしと終了 後のビールがなんとも言えない味だったとのことで、 ガックリしました。ゴルフの戸部教室昭和三十五、六年でしたか、世の中がレジャーブーム でゴルフが大流行となり、いたる所にゴルフ場が新設さ れるようになりました。金材技研でもゴルフを始める人 が多くなり、所内に練習場を造れとの要望があり、工作 室の裏側に、練習場とは名ばかりの小さなものをつくり ました。(後に表門の右側に移設)。当時、私はゴルフに関心はなかったが、皆さんにすす められてゴルフを始めることにしました。遠藤研究官を 先生にお願いして特訓をしていたゞき、短期間でコース に出られるようになりました。最初のコース、ラウンド は、緊張のあまり空振りするやら、チョロ、あるいは右へ左へ、球は直っすぐに飛んでくれず、散々でした。し かし、ドライバーが時々ナイスショットとなり、その時 はなんとも言えない壮快な気分でした。それ以来益々ゴルフの面白さを覚え、暇を見ては練習 にはげむようになりました。コースに出ては結果を練習 場で調整する、これを繰り返すことにより上達するよう 努力を重ね、どうやら、ゴルフをやっておりますと言え るようになり、外部のコンペなどにも参加しゲームを楽 しむようになりました。そうなると、管理部の誰れ彼となくゴルフの面白さを 吹聴して練習に引きずり込むようになりました。それに つれて次第に練習する人もふえ、遂に十数名を数える程になりました。従って、昼休みの練習場はひとときゴルフ談議に花が 咲き、お祭り騒ぎのような賑いでした。これを人呼んで 「戸部のゴルフ教室」と言ったのが始まりのようです。 これ等の人達は若いだけあって瞬く間に上達し、コー スに出ることになりました。そこで、先輩も含めてグルー プを作り、「研球会」と名づけ、コースに出ては和気藹々 裡にプレーを楽みながら腕を競い、お互いの上達を確認 し、喜び合いました。また、ラウンド中の失敗を練習場 で調整し、明日への挑戦を夢みる若者達でありました。 四十二年、私の退官により戸部教室は終焉しました。(管理部 S31・ 7 ・1～42・ 3 ・1)研球会の思い出稲垣道夫金材技研のゴルフ同好会として、研球会は金材技研創 立の直後から発足したようである。これは、当時管理部 長の戸部氏がゴルフ熱心で、研球会初代会長として有志 を集められたためであろう。当時、戸部氏の肝入りで、管理部庁舎前の平屋倉庫と 東京共済病院のコンクリート塀との間の幅約八メート ル、奥行約十メートルほどの狭い空間に網を張ってゴル フの練習場を造り、戸部氏自身が先生になって初心者達 の手はどきをされた。そこで、戸部氏をゴルフの校長先生と呼んでいた。私もこの練習場でときどき戸部校長の 訓練を受けた。しかし、コンペの前日戸部校長の特訓を 受けてあまり直されると、当日のコンペ で却って崩れる こともあった。その後戸部氏が金材技研を退官され、昭和四十五年ご ろから私が研球会二代目会長となり、補佐役又は幹事役 の田中千秋、鈴木一成、東優、小池喜三郎、菊池政郎、 小島重信の各氏らの御協力を得て、職員及びOBを含め て年一回及至二回で、十二月又は五月に各地のゴルフ場、 例えば、千葉パブリックゴルフコース、昭和パブリック ゴルフコース、那須国際カントリークラブ、GMG八王 子ゴルフ場、ノーザンC.C.錦ヶ原ゴルフ場、霞ヶ浦ゴル フクラブ、小田原湯本カントリークラブ等でコンペを実 施した。この頃の研球会コンペは年中行事として定着し、 各回の参加者が約二十名程度で、皆楽しく親睦を図ることができた。私は昭和五十八年三月で満六十才となり、これを期に 金材技研を退官し、(財)日本溶接技術センター理事長とし て推挙され転出した。したがって、私は研球会第二代会 長を退任することになり、研球会第三代会長には故内山 郁氏がなられたように聞いている。その後私はゴルフは月平均一回程度のペースで続けて おり、これによって心身のリフレッシュと運動不足の解消を図っている。私はいまも現役で、溶接界並びに建設、 プラント等関連業界に寄与しており、その根底にはゴル フによる心身のリフレッシュの効用が大きいことを痛感 している。私がゴルフの話を記事にしたのは、過去一回しかなく、 それは金材技研の一般情報誌「ざいけん」No.32(一九七 七年)に依頼記事として掲載したざいけんひろばの〝ゴ ルフの教え〟である。これをいま拾い読みしてみると、 当時が思い出されて懐かしい。この記事の執筆はいまから十七年前の昭和五十二年 (一九七七年)で、私が五十四才のときであった。この 記事によると、私がゴルフを始めたのは男の厄年四十二 才のころであった。昭和三十四年に名古屋大学から金材 技研に転任して以来、スポーツを止めてしまって太り気 味になりお腹も出てきたのがきっかけで、当時溶接研究 部長の鈴木春義博士からもゴルフを進められ、始めるこ とになった。鈴木博士は何事によらず研究熱心な方で、ゴルフの指 導も御本人自身の腕前以上にうまかった。そして「体の 記憶力は三日しかない」といわれ、昭和四十年春にゴル フの練習を始めてから夏の終わりごろまで、三日に一度 は近くの馬事公苑へゴルフ練習に通った。その年の暮、 研球会コンペに始めて出席し、いきなり一位に入賞した。 続いて翌年春の研球会では準優勝となり、その年の暮に は遂に優勝を獲得してしまった。というわけで、ゴルフ を始めた当初一、二年のうちに腕前はぐんぐん上昇して、 研球会のプライベイトハンデー十一、オフィシャルハン デー十六であったが、その後は一進一退が続き、いまは オフィシャルハンデー二十となり、これを維持することゴルフ練習場開設記念が困難になってきている。これをふり返ってみると、ゴルフの上達過程は、金属 材料の引張試験における応力―ひずみ曲線に似て、人そ れぞれに腕前とその過程が変わってくるものである。す なわち、初めの練習過程の弾性変形範囲で腕前が急上昇 し、この過程の練習の仕方が上達の程度を大きく左右し、 練習によって降伏点又は耐力を高く上げておく必要があ る。その後は塑性変形領域となり、ゴルフコースでのた ゆまぬ努力で徐々にうまくなるが、やがてその人の到達 し得る限界値すなわち引張強さに相当する点にたどりつ くのである。それ以降は絞り領域に入り、老化現象との 闘いになるであろう。さて、当時の私の記事で〝ゴルフの教え〟としてスリー Fが大切と考え、①フィーリング (Feeling)、②ファイ ティング (Fighting)、③フォローイング (Following) の3つのFを挙げた。すなわち、力んだりちゅうちょし ないで思い切って感じよく打つこと、時にはファイトを 燃やし積極的に攻めること、また一つ一つのホールを見て戦略を立て、時には守りを固めることをいましめた。 しかし、理くつと実行はなかなか一致しないもので、プ レー中にあまり思い巡らすことはマイナスになることが 多い。プレーの動作は〝無心の境地〟になることが最高 であろうと述べた。私はいま七十一才。これまで仕事とゴルフで人生を楽 しみながら、脇目も振らずに一目散に今日まで体を酷使 してやってきたが、最近、体のオーバーホールをかねた 手術をした。ゴルフで得た教訓から人生を達観して辛い 手術の勝負に勝つことができ、退院できたことを喜んで いる。しかし、ゴルフプレーは二、三ヶ月以降に先送り となり、心身ともにリフレッシュのためのゴルフプレー が来年の春以降になったことは残念である。 人は皆有限の存在であるが、金材技研の目黒のよい思 い出を残し、筑波での金材技研の永久の存続と発展を祈 念するものである。(溶接研究部S34・7・16～58・2・28)野球部栄光の足跡福島 孟金材技研野球部は、三十六年以上にわたり数々の栄光 をその歴史の中に刻んできた。野球部発足は一九五九年に遡る。当時はスポーツはテニス、サッカー、卓球、バドミントン、バレーボール等々、 現在のように多様化しておらず、野球が主流を占めてい た。そんな時流もあって、金材技研創立当初から管理部 をはじめ第四部(当時は四部しかなかった)までの野球 狂の有志が集まり、奥村印刷等と交流試合をしていたが、 科技庁大会と総理府大会があることを知り、野球部を創 ろうという声が高まり、一九五九年に科技庁に登録をし て野球部として発足した。管理部の岡田さん(当時庶務係長)を初代監督に、所'73科学技術庁野球大会①②③④⑤⑥⑦⑧⑨計金材技研 420030200 11航技研 201002000 5でユニホームを新調してもらい(岡田監督の尽力による ところ大であった)同年の科技庁大会に初出場、初優勝 したことから野球部栄光の足跡の第一歩が記された。以 来別表の通り、科技庁大会では一九七八年まで二十年間 連続優勝という大記録を打立てた。科技庁大会では、他 のチームから「親の敵」視されたことも、対戦前から勝 利を半ば諦められたことも何度もあった。 また、一九六〇年春には東京都軟式野球連盟目黒支部 のCクラスに初登録、その後三年間でとんとん拍子にA クラス入りを果たしてしまった。三十六年間の足跡を振り替えると、部長は初代の鈴木 溶接部長から阿部技術課長、森本化学部長、田中材試部 長(いずれも旧)と四代、監督は初代の岡田さん(前出) から十二人を数え、ユニホームも四着変わった。戦績は、 科技庁大会・優勝二十六回、準優勝二回、総理府大会・ 優勝十回、準優勝三回、非現業大会・優勝二回、準優勝 三回、全官庁大会・準優勝一回、目黒支部大会・優勝三 回、準優勝四回と実に決勝進出四十六回を数える。こう した数々の栄光の中で特筆すべきは、一九六九年から一 九七七年までの九年間がまさに金材技研野球部の黄金期 であったことであろう。科技庁大会はもとより、総理府 大会三連覇、非現業大会二連覇、目黒支部大会Aクラス 優勝、東京都大会(各支部の優勝チームが出場)三位な どはこの九年間に集中している。この中にあってさらに特筆すべきは、東京都大会三位 になったことである。他のチームがバスで乗り付け、同 じジャンパー、同じバックで堂々としているのに対して 我らが金材技研チームは、服装、バック(中には風呂敷 包みの人もいた)、集合時間もバラバラ(これは金材技研チームのトレードマーク)で他のチームから「こんなチー ムが？」と思わせる視線を投げかけられたが、いざ試合 では、苦戦したものの二回戦、三回戦を完封勝ち、あれ よあれよという間に準決勝へと駒を進めてしまった。準 決勝では一時決勝進出のチャンスがあったが、惜しくも 逆転されてしまった。金材技研がスポーツ新聞の一隅を 飾ったのは、後にも先にもこの時だけであろう。その当 時の歴戦の勇者達はすでに五十歳代になっているが、今 でもこの大会の印象を鮮烈に胸に刻んでおり、野球部の 誇りと思っている。このように素晴らしい戦績を挙げられたことは、単に 部員個人の技術ではなく、野球に対する情熱とチームプ レーがあったからだといえる。グランドを持たないため、 部員それぞれが様々な工夫を重ねた。可動式のバッティ ングケージを作ったり、技術課の屋上にネットを張った り、体力トレーニングのためにバーベルを作ったり、昼 休みには毎日防衛庁の回り約三キロをランニングした り、夏の暑い盛りに用事や家庭を二の次にしてほとんど 毎週早朝から野球に出掛けたりしてそれなりの努力を積 み重ねた結果が栄光へと繫がったといえる。平成六年に は一部を残してほとんどが筑波に集結したため、目黒で の野球部の足跡は幕を閉じたが、栄光の思い出は永遠に 輝き続ける。筑波にはグラウンドが有り、ユニホームも一新した。 その気になればいつでも練習、試合が出来る。目黒とは 雲泥の差がある環境で野球が出来ることは幸せである。 筑波でも第二期黄金時代を築くことを部員一同胸に秘め ている。(組織制御研究部)卓球部の思い出中野恵司創成期から発展期のこと昭和三十年代、卓球は所内のいろいろなところで盛ん に行われていたスポーツのひとつであった。昭和三十六 年、小川弘、加藤忠男、本間、太田口らが中心となり高 橋聰を会長にNRIM卓球同好会が設立された。しかし 一定の練習場所があった訳ではなく、普段は24号庁舎、 31号庁舎、機械工作室、クリープ庁舎などの通路といっ たところでそれぞれ行っており、毎週一回程度30号庁舎 会議室において定期練習を行っていた。 目標は総理府大会で好成績を挙げ、連合会全官大会の 代表権を得ることが最大の課題とされていた。というの も、総理府本府には全日本クラス、大学で鳴らした猛者 が大勢いたし、有名大会出場者も多かった。その中でブ ロック優勝または準優勝をしなければ代表権が得られな かった。それがかえって猛練習に駆り立てることになっ たのは、今も語り草となっている。その間、品川区卓球 連盟に加入し、連盟リーグで二部まで昇格した。また、 渋谷区卓球連盟の大会にも参加するようになったが、他 区の連盟で活動することはそれほど長くは続かなかっ た。目黒区卓球連盟には現在まで加盟し、前後期リーグ 戦には欠かすことなく出場している。昭和四十九年発展的にN RIM卓球部と名称を改め、 組織の充実がはかられ、部費の徴収、卓球部広報が随時出されるようになった。会長、部長、監督を始め、各役 員は毎年総会で決定するようになった。 昭和五十一年頃管理庁舎大会議室の使用が許可され、 定期的な練習が可能となった。その後昭和五十六年には 21号庁舎旧工業化研究部の空き室を卓球部専用練習場と して認められ、部員の練習にも一段と熱が入り、連日練 習に部員が集まり、交替制をも取り入れなければならな いほどになった。また総理府大会や目黒リーグ戦等の大 会前には、強化練習期間が設けられた。この時期が最も 活発で活気があったように思える。対外試合のこと管理庁舎会議室の使用が出来るようになって、交流試 合が行えるようになった。国土地理院、関東地建、東京 法務局、東工大など、全官で対戦する機会の多い他の省 庁の卓球部との交流試合が頻繁に行われるようになっ た。さらに、目黒区卓球連盟登録チーム等とも積極的に 行った。多い年には八回にものぼった。 昭和五十五年防衛庁一研との交流試合がきっかけとな り、東京共済病院とも行い、さらに発展して三機関親善 卓球大会が計画された。三～四名でチームを作り、金材 研五、東京共済病院二、防衛一研一、計八チームの総当 たりリーグ戦となった。会場は金材研、防衛一研の両会 議室で、あの急な階段を登り降りした苦しい想い出があ る。この第一回大会の優勝は中野(恵)、村田、亀井節子 チームであった。三機関親善卓球大会は毎年開催され、第五回からKD D研究所も加わり名称も四機関親善卓球大会となり、参 加者も増え盛大な行事になった。しかし、昭和六十二年合宿KDD研究所が埼玉県に移転するに及び、また防衛一研 の卓球部員が転出するなどが重なり、この年で四機関親 善大会は中断された。対外試会は当所でのみ行われたのではなく、対戦相手 の地に出向くこともしばしばあった。トリオ(目黒区青 葉台)、富士石油(千葉県市原市)、KDD (埼玉県)、環 境庁(筑波学園都市)などにも出向いた。 昭和五十四、五十八年には東京共済病院の招きにより、 日本リーグ一部の協和発酵の現役選手による指導を受け る有益な機会があった。部外の試合で最も力を入れてきたのが、総理府大会と 目黒区卓球連盟リーグ戦である。総理府代表選考会を兼 ねた総理府大会は現在金材研の出場がなければ事実上大 会が成立しないほど、我が卓球部の力は向上した。目黒 区リーグ戦も二部リーグまで昇格し、一部入りも目の前 まできたが、中野(理)の病気などがあり現在は三部リー グに留まっている。部内大会のこと部内大会として、昭和五十七年から部内リーグ戦が開 始された。リーグはA～Dまで各五名のリーグで構成さ れ、年二回の割で行われ、現在つくば移転後も継続され ている。第一回のリーグ戦の優勝者は、A、B、C、D リーグはそれぞれ中野(理)、宮代、下平、廻であった。 その後、平成元年から年三回行われるようになり、現在 もリーグ戦は卓球部の最も重要な大会の一つとなってい る。金材研杯はシングルス大会で昭和五十四年に第一回 大会が行われ、その後しばらく中断していたが、宇田杯 争奪戦が創設されたのを期に再開されるようになった。昭和六十一年宇田会長が退官されカップを寄贈された のを記念して、宇田杯争奪戦が創設された。これはダブ ルス大会とされた。第一回の優勝者は今井、升田組であっ た。その後この宇田杯争奪戦は平成元年まで四回行われ 中断されている。レクリエーション大会のこと卓球部で最もユニークな大会である。恐らく、このよ うな大会は他の同好会ではないと思う。卓球以外のス ポーツ大会で卓球部の親睦をさらに深めよう、という意 図のもとに開始された。昭和五十六年、第一回部内ボーリング大会が行われた。 その後、年一回の割合で行われた。昭和五十七、五十八 年はバレーボール大会であり、合宿組対自主練習組、壮 年組対若年組等に分かれ対抗戦が行われ、その後この対 抗戦はバドミントン大会やテニス大会で行われるように なり、卓球以外の大会で汗をかき懇親会で冷たいビール で乾杯するのが楽しみとなった。レクリエーション大会は部内に留まらず、防衛庁一研 とのソフトボール大会、海洋科学技術センターとのバト ミントン大会、古河電工親善ソフトボール大会等があり 相手グラウンドまでも出向いて行った。しかし、週休二 日制の導入や部員の高齢化にともない、部内レクリエー ション大会ばかりでなく、交流試合、宇田杯争奪戦など は衰退してしまった。合宿のこと夏期合宿の話は昭和五十年代初頭の総会で話題に上っ ていたが、具体化したのは昭和五十三年合宿積立が行われた時である。昭和五十四年八月、第一回夏期合宿が長野県木曽郡上 松町の真新しい町民体育館で行われた。参加者は中野、 中野(恵)、今井、本郷、下平、小林志希男、松崎恵子、 亀井の八名であった。この合宿は、卓球の練習というよ りは基礎体力の強化合宿というイメージが今も強く残っ ている。とにかくラケットを握って練習したという記憶 が殆どなく、体育館の中を走ったり、縄跳び、ボール投 げの毎日であったような記憶しかない。それでも皆若く、 元気いっぱい飛び跳ねた。この合宿の成功により、平成 三年まで十三回の合宿が続くことになる。 第二回は新潟県湯沢中里で、七名の参加があった。体 育館は宿からかなりの距離があり、車での移動であった。 しかも体育館というよりは柔道のための施設、かまぼこ 型のトタン造りで窓もないため、出入口の大きなシャッ ターを開け放ったものの、県道に面しているため大型ト ラックが頻繁に通るたびに砂ぼこりがたちこめ、環境は すこぶる悪い中で猛練習が行われた。第三回は埼玉県秩父小鹿野であった。前二回がかなり 距離的に遠かったので、今回は近場ということで秩父に きまった。この合宿からスケジュール表というものが しっかり出来、スケジュールに添った練習がなされた。 この合宿の目的は「フットワークの強化」であった。し かも、夜間練習が組み込まれ、体力の限界をいやという ほど知らされた合宿であった。第四回は群馬県甘楽郡妙義山の麓であった。八名参加。 旅館が体育設備を持っていたので、これまでのように宿 から移動ということがなかった。体育館は物置の大きな ものといった場所で、卓球台が三台ようやく入る大きさであった。しかも、ネットが二枚しかなく、キムワイパー を並べてネット代わりにして練習をした。 第五回は群馬県栃木市新栃木卓球センターで、十一名 の参加があった。卓球専用の合宿所で練習は思うように 出来たが、卓球センターは東武電車の線路際に建てられ ており、電車が通るたびに大轟音であった。それもしば らくすると苦にならなくなる程の練習メニューであっ た。ただ、食事が仕出し屋からの出前ということで時間 通りには食べられず、部員の中から不満が出る始末で あった。第六回は埼玉県秩父郡横瀬町で行われ、十四名もの参 加があり過去最高であった。練習場は市民体育館で立派 な施設であった。場所が宿から車で移動しなければなら ない距離にあり、しかも、公営体育館ということで、練 習は時間も規制され、午前九時から午後五時までと短か く、練習メニューを組み替えるといったことが起こった。 第七回は群馬県前橋市前橋卓球センターで、十名の参 加があった。このころから合宿も少しづつ性格が変わり 始め、やや観光も取り入れたものとなり、部員の子供達 も参加できるようになった。合宿所は総二階造りそれぞ れ七台の卓球台が常設されており宿泊場所と練習場所が 一体となって、卓球マシンも自由に使うことができ、目 一杯の練習メニューを消化することが出来た。合宿所の 宿の主人も卓球の愛好者であり、夕方からは地元の愛好 者が集まり、練習試合なども行うことが出来た。その結 果、練習を終わる時間は午後十時を回っていることもし ばしばであった。第八回は前回の前橋卓球センターで合宿を行った。前 回は子弟の参加は一名であったが、この回は五名も参加があり、また部員以外に横浜緑区のクラブから二名の参 加もあり、総参加者数は十四名であった。 参加した子供達の感想文の中から一つ。 「みんなと卓球ができたし、マシーンでも何回もでき たから、少しはうまくなったと思います。私は練習も少 し休みました。くだものがたくさん食べられてよかった です」(小学四年)第九回はレジャーのメッカ、山梨県南都留郡山中湖で 行った。防衛庁一研、緑区のクラブ等からの参加者が金 材研卓球部の参加者より多く、練習中心の合宿というよ り親善合宿、親子合宿の感が強くなってきた。 第十回は節目ということで、「初心に戻って」の合宿が 前橋卓球センターで行われた。参加者もこれまでの二倍 の二十三名もあり、練習は六時起床から午後十時まで、 老体にムチを打ちつつ練習プログラムをこなす姿は滑稽 でもあった。しかし、地元の愛好者や同宿していた明星 大学卓球部との交流試合では、「気合い」のみならずゲー ム内容でも決して負けていなかった。第十一回は前年と同じ前橋卓球センターで行った。全 参加者十名の内、外部の人が四名という寂しい合宿となったが、練習内容は濃いものがあった。第十二回は金材研、昭和電工卓球部との合同合宿とな り、前橋卓球センターであったが、衝撃的な出来事が起 こった。卓球部の中心となり卓球部をぐいぐい引張って きた中野(理)が合宿前日の地元の練習後の帰り道、不 幸にして病に倒れられたことは当部にとって返すがえす も残念であった。しかし、金材研三名、昭和電工七名で の合宿は無事過ごすことが出来たが、その痛手は大き かった。中野(理)がその後再起することなく卓球から 身を引くと同時に参加者の減少などが大きく、合宿を見 直す時期とが重なり、十二回を最後に夏期合宿の幕は閉 じられた。おわりに三十年以上の歴史を持つ我が卓球部は、平成六年つく ば市に移転した。体育施設も充実しており、若手や女性 の入部もあり、以前にも増して活発な活動が期待出来る ものと確信している。(力学特性研究部)金材技研テニス部創設の頃郡司好喜昭和三十四年七月、小生は仙台から金材技研に出向してきました。まず目についたのは、進駐軍が使用してい たという広々とした三面のコートでのんびりとテニスを 楽しんでいる所員達でした。昭和十二年に軟式テニスを始め、昭和十六年には福島 県の中学校の優勝チームとして明治神宮大会(現在の国 体の前身)に出場した自慢の腕。馬鈴署畑にされたテニ スコートを横目でにらみながら腕をぶした何年間はあったものの、仙台では多少知られたプレヤーでした。しか し、ラケットを握る時間は決して多くない環境に過して おりました。それが、昼休みは勿論、夕方のみならず土曜日の午後 と、暇な時には何時でもテニスを楽しめる環境に胸躍る 喜びをおぼえました。研究よりまずテニスと胸に刻んだ ものでした。当時の所員は百人足らずの小規模研究所、 その中の一部の人達が広いテニスコートを独占し、本当 にのびのびと楽しんでいる姿は羨しくさえ目に映りまし た。三面のコートが何時も満杯ということもなく、軟式と 硬式が入り混じってプレーを楽しんでいるといった風景 でした。その腕前はと言えばまあまあと言ったところで、 これから上達しようという意気込みはあまり伝わってき ませんでした。小生も早速軟式ラケットをもって参加さ せて貰ったのは勿論ですが、当時非常に熱心に軟式ボー ルを追っていたのは山本さん(愛称山本じいさん)とか 池田さん、田井さん、福田さん等々であったように記憶 しています。小生は解放されたようにテニスを楽しんでいたのです が、そのうちに腕試しをしようということになり、池田・ 郡司というコンビが誕生いたしました。当時、このチー ムは目黒大会の常連となり、結構名をとどろかせたもの でした。ある時は目黒区の代表チームの一員に選抜され たこともある実力でした。ところが、ここで小生は大きなアクシデントに見舞わ れることになってしまったのです。激しい試合とか練習 の後で、身動きの出来ないほどの腰痛が起るようになり ました。普通ギックリ腰と言われるものなのでしょうが、腰痛が起ると約一週間は治りませんでした。この程度で 休むことを潔しとせず出勤し動き廻る姿は「ゴリラスタ イル」と言われ、皆さんを楽しませたものでした。原因 は分らないままですが、子供の時からの無理が崇ったこ とだろうと納得していました。しかし、原因などはどうでもよく、小生の関心はテニ スが続けられるかどうかの一点にありました。病院にも 行き、薬を飲み、コルセットまでいただきましたが、少 し落着けば直ぐにラケットを握るという生活に腰痛は遠 慮なく襲い、ゴリラスタイルから逃れることはできませ んでした。ある日、こんな事を思いつきました。隣りのコートで プレーしている硬式テニスの人達はいとも軽やかに動 き、軟式のように全身を使う厳しさがないように見えた ものでした。これなら腰への負担も軽かろうと、この思 いつきを実行することにしました。それから一年間は、 硬式と軟式を交互にプレーしていたように思います。ラ ケットの握りを全く変えるための技術的ジレンマに悩ま されながら。硬式に転向することで腰への負担が多少減り、硬式テ ニスの腕も少し上ったかと思われる昭和三十七年、金材 技研のテニス部に大きな光明がさしてまいりました。こ の年の春、硬式テニスの総理府大会に金材技研から何人 かが参加することになりました。目黒の池の中の蛙が野 原に飛び出したわけです。不思議なことに、この目黒蛙は大変な暴れぶり。シン グルスの試合だったので金尾さんは優勝、転向してまだ 一年、強いボールを満足に打てない小生でさえ準決勝ま で進んでしまいました。その他に二、三の人が上位に進全官庁リーグ戦優勝記念(昭和四〇 年、第四部)。前列左から、斉藤、郡司、 菊池、永田、武藤、 後列左から、佐久間、片瀬、川原、中 村、金尾、前田、柳原、信木、菅の皆 さん。出してしまったのです。この日から金材技研の硬式テニ ス部の空気は一変してしまいました。皆さん、楽しみ一 辺倒のテニスから少しでも腕を上げようという気持に 変ってきたようです。そうした気運が増幅される日は、 遠いことではありませんでした。同じその年の夏、金材技研は全官公庁の硬式テニス大会に出場することになったのです。現在は五十チームに も及ぶ多くのチームが参加していると聞いていますが、 当時は半分の二十五チームで、五部に分れていたと記憶 しています。その時の皆さんの活躍ぶりを思い出してみ ますと、試合を行った第五部で優勝こそ逃しましたが、 優勝を争うほどの大健闘だったのです。 どんなメンバーがというのは興味あるところですが、 今は故人となられた柳原さん、金尾さん、中西さん、中 村さん、佐久間さん、前田さんといった常に硬式ボール に親しんでいた人達は当然ですが、それ以外に多くの人 達が参加しています。一チーム十人で構成しなければな らないので、何人かの人数が足りなかったのです。常日 頃は軟式ボールに親しんでいる人達、山本さん、田井さ ん、池田さん、福田さんなどに頼んで出場していただき ました。こうしたチーム構成は、その後何年か続いたように憶 えています。なにぶん、硬式テニス部といっても金材技 研に入所する前にラケットを握っていたのは柳原さんと 金尾さんだけ、小生に至っては転向したばかりの素人同 然の腕前でした。その小生が金尾さんとNo.1を務める始 末ですから、その内容はおして知るべしだったのです。 実はこの年から、金材技研のテニス部の本格的活動が 始ったのです。もう少し上手になったらもっと楽しいテニスが待っているのではないか、という希望が皆さんの 心に拡ってきたと思います。当時の部員は勿論、新しい 人達も勧誘し、少しはシステマチックに、懸命に練習に 励んだのはこの頃からでした。われわれ素人から無理矢 理教えられ(？)て迷惑した人も沢山おられたことだろ うと、今になって反省しております。所員数が増加する に伴い所内大会なども盛んに催されるようになり、金材 技研のテニスは日に日に盛んになってきたように思いま した。技術的にはお世辞にもうまいとは言えなかった目黒の 蛙が対外試合に参加し、それなりに成績が上ったのは何 故だろうか。毎日、ボールに親しむことでボールが見え るようになり、恰好の良くないフォームでも試合に強い テニスになったのでしょう。現在では、金材技研チーム は上位にランクされる強豪チームになっているとか聞い ています。そうした輝しい成功は、三十年前には予想が できないことでした。恵まれたコート環境と皆さんの真 剣な努力の賜であると、大変喜んでいます。 強豪チームを育てた目黒のテニスコートには受難の歴 史があります。進駐軍が作った三面のテニスコートは、 内部から表面まで大変すばらしいものでした。最初の受 難はRI庁舎(昭和三十七年)が建つ時でした。RI庁 舎を建てるためにコートの一面を潰そうという案が当然 のように浮上してきました。こうした提案に対し、何と かこのすばらしいコートを守ろうということになりまし た。そこで、三面のコートを維持するにはどれだけの面 積が必要かと測定をいたしました。その結果、コート間 の距離を狭くし、RI庁舎の位置も少し我慢して貰えば 何とか三面のコートが維持できるという結論に達し、現S36年バレー部創成期(自動車労組隣 りのバレーコートで)在のコートが確定しました。第二の受難は、連続製鋼装置を造るために22号B庁舎 を拡張する時(昭和四十二年)でした。十分余裕のある 広さで装置を作りたいという計画からすれば、最低一面 のコートを潰す必要のあることはテニス部から見ても当 然の事と思われました。そこを何とか我慢し、テニスコー トを守ってもらえないだろうかとテニス部の方からお願 い申上げ、それを考慮して現在の22号B庁舎が実現した と理解しております。その後、大変狭い工場の中で複雑 な設備を操業する姿を拝見する度に、コート一面を潰して広々とした設備で操業したかっただろうと推察申上げ たものです。このように、大変すばらしいテニスコートも何度か受 難の時を迎えたのですが、その度に金材技研唯一の厚生 施設であるテニスコートを守ろうとする多くの人々に よって守られ、それによって沢山の人々が人も羨むよう なテニスをエンジョイできたのだろうと深く感謝してお ります。(製錬研究部S34・7・16～57・5・31)バレーボール部バレー部創成期編笠原和男 振り返ってみると、バレー部が発足したのは昭和三十 六年のことで、すでに三十三年前のことです。現在では この年よりも若い職員の方が随分増えており、随分月日 がたったなあとつくずく感じます。部の発足は吉松史朗 (元反応部)、鈴木一成(元技術課)の両名を幹として、 同好の士が集まり結成したのが始まりでした。 発足当初はネットやコートなど無く、道路でバトミン トンのネットを利用し、技量は所内大会程度のものでし た。当時は九人制が主体でやっと九人揃い、その中で経験者は四名程度で、その他は全くの経験無しの素人の集 団でした。集まった部員も何故かユニークな奴が多く、酔うと調 子外れの歌を真面目に歌う奴、その歌を聞いて余りの滑 稽さに藪に墜落し血だらけになった奴、また、酔うと勇 ましくなり道路の真ん中に座り喧嘩相手が来るのを待っ ている奴、相手チームの応援に来た女性を我々のチーム の応援仲間にしてしまう奴(今でいうなんぱ)、そしてや くざに絡まれ丸く治めるのに責任者を苦労させた奴、な どなど。また、春秋にはハイキング、夏には海か山のキャンプ、 冬はスキー等に参加し、練習や試合の苦しい思い出ばか りでなく、楽しい思い出も随分あります。 その当時の試合は全て屋外のコートで行われ、試合終 了時には汗と泥と擦り傷だらけでした。三十八年に連合 体育祭では防衛庁を破り、初優勝を遂げました。その時 の優勝杯で飲むビールの旨さは格別のものでした。それS 38年バレー部連合体育祭で初優勝以降三連覇を達成し、この優勝杯は三連勝すると獲得で きるもので、我々のチームが初めて獲得しました。 この間、念願のコートが完成し、練習も本格的にでき るようになりました。しかし、部の活動に関しては部員 の高齢化や今でいうトラバーユした者などにより弱体化 し、現役で残っていたのは数名という厳しい時もありま した。その後徐々に若手部員も増え、チーム編成ができるようになりました。初心者ばかりの集団でしたが、幸 か不幸かほとんどの者が靖心寮生活、土日、早朝、夕方 と練習に恵まれた環境でした。結構ハードな練習や合宿 をよくこなしてきてくれたものだと、今思い出してつく づく感心しております。今になって思い出すと、苦しいことも楽しいことも、 青春の良い思いでの一ページになっております。(第3研究グループ)バレー部合宿編松本文明 現在、筆者Mは『目黒の思い出・バレー部、合宿』と いうキーワードで、にがく、苦しく、活気のあった遠い 昔に思いを馳せています…………。 まず最初に浮かんだ言葉は、鬼の笠原、鬼の上平、鬼 の……ウワー鬼が島だ？次に浮かんできたのは、長野、菅平、富士見、上田、 ああ合宿だ。そう、菅平の合宿はすごかった。 昭和三十年代を思わせる木造二階建ての宿泊所で、お 昼は、油の中に島がある感じでチャーハンが盛られてい て、各室が蚕棚のように二段ベットが両側三～四段ずつ 入っていて、山の中で、夜は外出禁止で、飲酒禁止で、 夜も体育館で練習して、へとへとになって、初めて体が バテる前に筋肉が悲鳴を上げるのを聞きました。でも、 真っ暗な中を懐中電灯も持たず窓から抜け出して、ビー ルを買いに行き、酒盛りしていた人もいたのでした。 ……あの合宿所は、昭和五十年頃に取り壊された靖心 寮に良く似ていた気がします。そういえば、新しい靖心寮が建った後に寮合宿をやっ たなあ。あれは五十一年頃の夏のはじめ頃だろうな。 涼しい朝と夕方に練習をしようということになり、朝 は七時～八時半、夕は五時～七時頃まで、一週間、途中 でつまずきも有りましたが半合宿を行いました。特に夕 方は暗くなるとライトをつけて練習したものです。最後 の仕上げは、下丸子のキャノンでの練習試合でした。こ のときは朝練、午後試合で朝昼抜きとなり、体はフワフ ワしていたが良く動いた気がします。宴会……五十二年頃の合宿、納会の打ち上げでは、み んな多芸を誇っていました。古山さんの「湯島の白梅」、 小黒さんの「私の城下町」、若手数名による「月光仮面」、高橋君の「アッコちゃんの替え歌」、田中君の「……音頭」 など。そして最後にみんなで「八百屋お七」。宴は尽きず ……。サクラ……バレーコート入り口横の桜は、全部員の気 持ちを知っていただろうな？ 桜の花の時期はコートで いつも胸が躍り、ワクワクするような気持ちで練習でき たなー……。プッツン。……おーい、コンセントが抜けたぞー。 思い出になると何でも美化されて楽しいことになって しまうものですが、私のバレー部の思い出は、つらいこ と、楽しいことなどを含め上等な思い出となっています。(強磁場ステーション)バドミントン部佐藤俊司最初に行われたバドミントン大会は、職員会の主催で あった。昭和三十六年夏の頃、管理庁舎の前の道路で行 われていた。私もヘタながら、人数合わせのため参加さ せてもらった。そのころは、どのチームもドングリの背 比べであったことが思い出される。栄えある第一回目の 優勝は、当時第八部鉄製錬研究室の郡司、中西ペアであっ た。その後数年経てからレクリエーション実行委員会がで き、所の主催となり、目黒区中央体育館を借りるように山梨県白州中学校合宿(1981年)なった。そのときから個人戦から部対抗となり、一層の 盛り上りとなった。いつのことか思い出せないが(当時の記録はつくばに 引越しのさい整理してしまった)、バドミントン部を作ろ うとの話があって、私も参加させてもらった。二十名ぐ らいの参加で発足したと思う(当時参加した方お知らせ 下さい)。当時はバドミントン部とは名ばかりで、練習もあまり していなかった。部の先輩には郡司好喜さん、千葉実さ んや山内睦夫さん、池田清一さんなどがいた。そのうち に、30号庁舎、34号庁舎や製錬庁舎の前にコートを作り、 昼休みに練習をするようになった。また、郡司さんの紹 介で中野区にあるお寺の体育館に練習に行ったことも あった。池田さんから中野区の新井薬師にある小学校の 体育館が夜間一般開放しているからと話を聴き、出かけ たのはいいが、中学生の女の子にコロコロ負けた思い出 もある。その後、部員数も増え、山梨県白州村の中学校体育館 で合宿したりして技術の向上をはかった。また、金材技 研バドミントン部として目黒区の協会に登録し、団体戦 に出場し、良い成績を残すこともできた。さらに、総理 府大会や、総理府代表として全官の大会にも出場し、優 勝したことも思い出す。部員の中では公認審判員の資格 を修得する者も出て、国際大会や全日本の大会で審判員 として活躍するようになった。しかし、今回つくばに移転し、全官の大会に出場出来 なくなったのは少し寂しい気もする。が、つくばでも目 黒と同様に楽しい思い出を作るように努力したいと思 う。参考までに、歴代の部長は中川前所長、尾沢正也さん、 現在は佐藤俊司です。目黒で活躍したバドミントン部は、平成六年十一月一 日をもっ て解散した。(損傷機構研究部)金材技研乗馬部、青春の日々西島 敏君、足は何文かね？研究室の昼休み、例によって舟久保さんが忙しげに 入ってきて聞く。とまどいながら十一文半ですと答える と、たたみかけて、「ああーそりゃちょうど良い。君にぴっ たしのチョーカがあるんだよ。素晴らしい掘り出しもん やね。俺が欲しいんだけど、大きすぎて。さあ、見に行 こうよ」チョーカって何だろうと思いながら、たちまち恵比寿 の古道具屋に連れて行かれ、木型の入った立派な赤革の 長靴を買うことになってしまった。実は、舟久保さんは 金材技研に乗馬部を作ろうとして、部員をリクルート中 だったのだ。その少し前、金材技研に一年間滞在したフランスの G・・コレットさんから、参宮橋に良い乗馬クラブがある と聞いていた舟久保さんは、適当な数の部員が確保でき るとすぐ、私を連れてそこへ乗り込んだ。そして理事た ちの前で、日本乗馬界の底辺を支えるこのような(と、 私を指し)若い社会人たちの努力を是非認めていただき たいと、熱っぽく訴えた。金材技研乗馬部がめでたく東京乗馬クラブの団体会員 として発足できたのは、東京オリンピックの年、昭和三 十九年の春である。ただし、新参ものであったので、練 習はメンバーの邪魔にならない早朝六時から、ということになった。利用料金は一鞍(四十五分)五百円で、初 めは半鞍ずつ乗ることが多かった。心身の鍛錬と親睦舟久保部長の目指したのは、規律正しく安全に乗馬を 楽しむことだった。部則では、乗馬を通じて部員の心身 を鍛練し、相互の親睦を計ることを目的と定め、部員は 金材技研職員及びその紹介になる賛同者とした。実はこ の部員の資格が、後で問題になった。乗馬部練習風景練習は、基本的には旧陸軍の馬術教範を教材として、 始めは東京乗場クラブの奈良林太郎先生の指導を受けな がら、通常は五～六頭、時には十五頭もの馬を連ねて部 班で行った。少し出来るようになってからは馬場係を決 め、自分たちで配馬や号令かけを行った。 寒い冬の未だ暗い朝六時、厩から引き出した馬に装勒 装鞍し、馬場に引き出して騎乗整列する。馬場係による 独特の節回しの号令で、上手下手それなりに、四十五分間 奮闘する。号令がうまくないと、練習はうまくいかない。 「分隊気を付け、右より間隔八歩常歩前へ進め、速歩 進め、軽速歩進め、斜めに手前を換え、巻乗り、歩度を 伸ばせ、往復手前を換え、速歩進め、歩度を縮め、駆歩 進め、各個斜めに手前を換え、輪乗り、輪乗りを換え、 速歩進め、並歩進め、列に先頭止まれ」 終って、馬を拭いてやり、寝藁の交換を手伝うなどす ると、もう汗びっしょりだ。着替えて、凄い臭いのする 装備を抱えて、電車で金材技研に出勤する。これで始業 時間にちょうど間に合った。部員は多いときで三十名いた。長く活躍したメンバー としては、部長の舟久保煕康以下、板垣孟彦、岩元兼敏、 北川光児、木村隆、鈴木正敏、豊原富佐子、福原煕明、 丸山敦子、山梨美香、村松祐治などの名を挙げることが できる。時には他団体と親善試合を行った。昭和四十四年七月 から三十週かけた六団体リーグ戦では、日曜朝六時集合 で、四名戦の中級障害戦を行っている。馬場に配した横 木や木柵、ドラム缶など八個を順序通りに飛び越えるの だ。一番高いものでも八十センチだから、馬に乗らなけ ればどうということはないのだが、乗って全部できる人は少ない。豪雪・優星、花姫、渓雪などの馬を使ったが、これら は特に騎手の技量を必要とする。この勝負は、遅刻欠場 による不戦勝も含め、国鉄、金材技研、富士銀行、防衛 庁、郵政省と三井物産の順の成績だった。馬は人を見る乗馬クラブの馬は、人間に換算すると結構年配のこと が多く、大抵の乗り手より経験豊富で賢い。馬に乗るに は、先ず左手で手綱とたてがみをつかみ、鐙(あぶみ) に左足をかけ、右手で鞍をつかみ、右足で踏み切って、 ヤッ、とよじのぼる。ところが馬というものは、考えて いる以上に大きいものだ。馬格の大きいものでは、自分 の頭くらいの高さに上がらなければならない。初心者は、 先ずこの段階で恐ろしさに身がすくむ。 ところが馬のほうでも、自分への近付き方や身体への さわり方で、騎手としてのレベルを完璧に判断する。メ ガネに叶わなければ、肝心のところでヒョイと動いたり して乗せようとしない。下手くそを乗せると、銜(はみ、 口の中に通した金具)を乱暴に引かれたり背中の上でポ ンポン跳ねられたりするから、厭なのだ。むりやり乗る やつには、いうことを聞いてやらない。鈍感な人にもはっ きり分かるように、馬鹿にしてやるのだ。 これが何回か続くと、お互いに顔を見ただけで関係が 分かる。そこで今日こそはと、決意をもって鞍に座るの だが、これは大抵人間の負けに終わる。右に曲ろうとし ても馬は知らん顔で真っ直ぐ行くとか、関係ない顔で木 の葉をむしゃむしゃ食べ出すとか、甚だしいのはそのま ま真っ直ぐ厩に帰ることだってある。やがて、こういっ裾野遠乗りたことが起こる人馬の組み合わせは大体決っていること が分かる。余談だが、フランスに留学したとき、田舎で良く肥え た大きな馬に乗せて貰って広い牧場を駆ける機会があっ たが、貧之学生の癖にどうしてお前はそんなに馬に乗れ るのか、金材技研では馬を何頭持っているのか、牧場は 何ヘクタールあるのかなどしつこく聞かれ、大いに弱っ たことを思い出す。壮大な富士の裾野で一応危険なく乗りこなせるようになると、欲が出る。 始めて遠乗会を持ったのは、昭和四十年の夏だった。場 所は御殿場市板妻付近の富士の裾野で、丸尾、高畑、弁 当沢、山口、狐塚などと呼ばれる、標高千メートル位の 一帯だ。そこは緩やかな起伏の原野で、高く生い茂った すすきの中を小道を辿って進んでいくと、騎手には辺り が見渡せるが馬には見えないものだから、馬は非常に良 くいうことをきく。ちょっとした崖のようなところでも、 馬がムムムと力を出して登ってくれるし、高みに立って 麓を見渡すと、火照った顔に涼しい風が吹き、自分はこ んなに上手だったのかと、まことに気持ち良く自惚れる ことができる。馬は長田さんという陸軍上がりの人が、自分の持ち馬 の他に、地元の農家の馬を手配して貸していた。馬は、 香一号、香二号、利夫などと、持主の名前で呼ばれてい て、一日三千円、これを半日づつ割り勘で使った。一泊 三食付き八百円だったから、値段の想像が付くだろう。 始めてのときには現場を下見に行って詳細な地図を作 り、伝令や救急担当を決め、長田方に設けた本部とトラ ンシーバーで定時に連絡を取り合うなど、舟久保小隊率 いる野戦演習さながらだった。共同購入した揃いのグ レーの乗馬ズボンをはき、金材技研自衛消防隊のブルー の帽子に白い軍手で馬上から礼をすると、馬や馬具の古 びたことなどは気にならなくなり、光り輝く精鋭揃いに 見えた。自衛隊演習地の近くだったし、地元の人達が私 達に道を譲り見送ってくれた眼差しには、明らかに敬意 と感嘆の気持ちが伺えたと思う。早朝の皇居で昭和四十二年、当時の戸部管理部長の肝入りで、皇宮 警察の乗馬を訓練させてもらうことができるようになっ た。元気のいい馬を運動不足にしないように、適当な乗 り手がいつも必要なのだ。皇居に出入りするので、部則 や名薄などを添えて申請し、通行証をもらって、早朝の 大手門から出入りした。当時は、宝石や、ノサップ、ハヤブサ、イッシュン、 星山、隆元などの元気の良い馬が数十頭もいて、賑やか だった。係りの星野先生は、馬を教育し皇宮警察官を教 育し、その上に私達の指導まで懇切に見てくれたのだか ら、さぞ大変だったろうと思う。ここには伝統色豊かな木造の覆い馬場というのがあ り、落ち着いた雰囲気で室内馬術を楽しめたが、陽光き らめく早朝の吹上御苑での騎乗も、また格別だった。昭 和四十五年の春分の日には、厩の人達と親睦競技会を やった。琴平、鯛釣り、巻乗り、玉入れ、誘導、誘導障 害などの種目があり、沢山の賞品や飲物が出て、厩舎の 人達と一日中楽しんだ。恵まれない職場にあったあの人 達にとって、私達との気のおけない一時は、それなりに 楽しいものだったと思われる。このような催しは、それ が出来なくなるまで数回続いた。そして馬事公苑で昭和四十三年七月、日産丸紅商事の人から社会人馬術 同好会設立の呼びかけがあり、松平頼明さんを会長に二 十一団体が参加することになった。そして十月、世田谷 の馬事公苑で第一回社会人馬術大会を開催することとなり、私達も科技庁として参加、個人の部で山梨さん二位 三百二十二点、丸山さん五位二百九十二点の成績で、大 いに気を吐いた。ちなみに一位は東京都三百三十五点、 三位は衆議院三百十三点だったから、堂々たるものだ。 この結果、団体でも六百十四点三位を取り、衆議院六百 二十一点、東京都六百十五点に次ぐ成績で、注目された。 残念なことに、この会員団体には会社関係も多く、活 動は徐々に派手になり会費も上がり、やがて私達が続け られる範囲を越えてしまった。始めあれば、終わりあり乗馬部の終わりは、はっきりしない。基本的には、平 均的技術レベルが向上して新人が入り難くなったため と、時間のあった独身部員も次第に結婚をし、東京を離 れて家庭を持って、もはや早朝六時に集まることが不可 能になったからだ。しかし、それに先立ち、部員の中に職員の紹介になる 障害競技外部の賛同者が入っているとして、皇宮警察馬場に出入 り差し止めをくったことが痛手だった。これは当初から 部則で明かだったのだが、核マル派などの破壊活動のた め、当局が警戒を強めていた時期なので、その関連もあったかも知れない。とまれ、こうして乗馬部は終わり、私達の青春の一時 代も終わったのだ。(損傷機構研究部)釣り同好会の思い出高橋旦征釣り同好会が結成されたのは、今から二十五年以上も 昔のことではなかったかと思います。当時の依田連平部 長をはじめとして、渡辺享さん、吉田さん、佐藤さん、 小池さん、このようなかた達が中心になっていたと思います。私はどのような切っ掛けで釣り同好会に入会したかは 忘れてしまいましたが、大会には三回ほど参加した記憶 があります。大会は、目的の魚を決めて、釣り上げた数 で順位を争いました。一度は鎌倉方面でアジ釣り大会が 開催されたとき参加しましたが、誰れも目的のアジが釣 れませんでした。しかたなく根魚で順位を決めたと思い ます私は手ぶらでは家に帰りにくいので、浜辺の魚屋でア ジを五～六匹買いもとめました。女房にはさも自分が 釣ったかのようにいってしまい、アジを見た女房に 「やはり釣りたての魚は目の色がいいわね」 といわれた時は、おかしかったよりも、自分が何か悪い ことをしたような気持ちになったのを記憶しています。次は、命からがらだった釣りを紹介します。 この日は金沢八景に集合しましたが、小雨まじりの少 し風が強い天候でした。船宿では、このくらいの天候な船宿にて八景沖鰺釣り出船前ら船を出すということで、私達は釣り船に乗り平潟湾か ら出港しました。はじめはたいして波もなかったのですが、少し沖合に 出るとけっこう海は荒れていました。なにしろ、尻が宙 に浮いて船底に叩きつけられる有様でした。「無謀な釣り 船転覆する」と夕刊にでるのではないかと考えたくらい でした。転覆したら何につかまろうかとも考えました。 メンバーの何人かは「これでは釣りにならない引返そう」と言ったくらいです。しかし、船頭は「釣り場につけば大丈夫だ」といいましたので、その言葉を信じて釣り場へと進みま した。確に、現場に着いたときは波ひとつないといって よいほど海は穏やかでした。それは防波堤の内だったか らです。さっそく竿を出し釣りはじめると、当りがきました。 その時は、メバル・アイナメ等が大変よく釣れ楽しい思 いをしました。しかし、帰りのことを考えると、またあ の荒波にもまれるのかと不安な気持になりました。 船頭は、これ以上海が荒れないうちに早めに帰る、と いうのでみんな竿を納め釣り場を後にしました。やはり 予想にたがわず、防波堤を出ると来た時よりも海は荒れ ていました。船頭は言いました。「みんな真中にかたまって低くしていろ」との注意です。船は荒波にもみくちゃになり、宙に浮き、 スクリューが空回りするほどでした。無事に船が岸に着いた時はほっとして、みんな顔を見 合せました。こんな怖い経験は、私達にはじめてであり ました。その後の釣り同好会は、部長が退官して自然消滅に なったようです。(基礎解析研究部)空手部の思い出上原 功空手といえば沖縄ということになる。その昔、商業都 市那覇を中心に、体を内部から鍛えるという呼吸法を中 心とした那覇手が発達し、一方、行政府である首里では、 迅速にして優雅を旨とした首里手という拳法が発達し た。この二大拳法が沖縄空手である。やがて、本土に渡 来して各流派へと発展していった。その中に、首里手の 流れをくむものとして和道流があり、その流派から空手 をスポーツ化しようと、防具をつけて試合を試みたもの に練武館空手道があった。金材研の空手部は、この系統 の技術をもって心身を練磨していたのである。 さて、ここで困った事が起こった。どのような経緯で、 金材研に空手部が設立されたのか思い出せないのである。心身は鍛えても頭脳は鍛えられなかったのか、怠っ たのか、はたまたわが頭脳が某国の元大統領と同じ症状 を呈しているものなのか。おそらくは自然発生的に生まれたものではないかと思 うのだが…。はるかな昔、生命だって自然発生したのだ から、それでたいした問題はあるまい。ということにし ておこう。とにもかくにも、何もない所からのスタート であった。昼休みになると、興味をいだく者たちが24号 館の屋上に集まってきて練習をしていた。正拳を鍛える ためのマキワラも、24号館の裏に二つ作った。 屋上での練習は眺めもよく、なかなか快適なのである が、大きな問題もあった。素足で動き回るために足の裏 がすれたり、クッションがよくないため足が疲れるので ある。そして何よりも、夏になると、熱く焼けたコンク リートの上では、フライパンの上のネコの踊りのように なってしまう。そこで、地面のある練習場を探すことにした。あちこ ち見て回って、バレーコートの横のサクラの木の下がよかろうということになった。瓦礫の山をかたずけ、ちょ うどその頃所内で工事があったので、その残土を使って 整地した。シャベル等、わずかな道具を使っての作業は かなり大変なものであったが、他の人達にも手伝っても らって、ようやく「空手部の練習場」ができたのである。 これは余談になるが、整地に使った残土は研究所のそ ばの公務員宿舎の空地に置かせてもらっていたのである が、当時その宿舎からクレームがきていた。「子供が土遊 びをしてドロンコになってしまうので早くかたずけてほ しい」とのことであった。洗濯の苦労を知らない私にい わせれば、子供はおおいにドロンコ遊びをやらせるべき だと思う。そうしてこそ、子供らしい子供となり、やが ては大人らしい大人、人間らしい人間になるのではない だろうか。練習は主に昼休みを利用して行った。となりのバレー コートには、いつも女性職員が何人も応援に来ていたが、 空手部には誰一人見向きもしてくれなかった(私もバ レーボールをやっていればもっと女性にもてたのかもし れない)。当時、バレーボールは人気スポーツであったが、 空手はいつの時代も地味なスポーツである。ただひたす ら自分の身体を鍛えるのみ。競技性が極めて低く、楽し さとか喜びに値するものが少ない。そんな部活動に皆さ んよく参加してくれたし、よく練習もした。空手などを やっているというと、人から誤解されやすいのだが、皆、 けっこう気分のよい仲間の集まりであった。 やがて、所属していた連合体の試合にも参加するよう になり、部員からも黒帯、茶帯を輩出するようになった。 M氏の強かった事は、他の社会人クラブの評判になった 程である。楽しい思い出といえば、甲斐駒ケ岳の一日登山である。 部員のKさんの親戚が甲斐駒ケ岳のそばにあり、部員全 員を快く泊めて、自慢の酒までふるまってくださった。 翌日は、早朝から山頂をめざして出発し、皆で力を合わ せて目的を達した。帰りの河原では、残ったわずかの食 料を出し合って、皆でわけて食べた。何よりのご馳走で あった。毎年夏に24号庁舎屋上で開かれる納涼祭に参加して、 劇をやったこともある。そういえば、他の部員の皆さんはどんな「空手部の思 い出」を持っておられるのだろう。この欄を私一人で引 き受けたりせず、皆さんに一文を寄せてもらえばよかっ た。そのほうがよほど楽しい物になったであろうに、今 となっては時間がない。かえすがえすも残念である。 かつての猛者たちも今は相応の年齢となり、各方面でご活躍のことでしょう。いつか再び一堂に会する日の来 る事を念じつつ、皆様のご健勝をお祈りしたいと思いま す。二十代の大半を目黒の金材研で過ごし、三十の声を聞 いた頃、本庁に異動した私にとって、目黒の思い出は青 春の大きな一ページであるといえる。若さゆえにできた 事もある。若さゆえに無茶もした。心至らずご迷惑をお かけした方々も多い。にも拘らず私や空手部を支えて下 さった人々、同好の士となってくださった部員の皆さん、 その他多くの職員、関係者のご協力があって金材研の空 手部は存在し得たのだと思います。この場を借りて感謝 の言葉を送りたいと思います。本当にありがとうござい ました。(工業化研究部S37・8・1～46・4・30)NRIMスキー同好会太田口 稔当時はスキー場まで行くには重い荷物を背負い、列車 の席を取るため二～三時間並び、夜行列車で六～七時間 もかけて最寄りの駅まで行き、そこからバスに乗り換え て十四～五時間近くかかってスキー場近くの民宿に行っ ていた。これが昭和四十年代に入ると、ゲレンデ近くのホテルまで七～八時間で直行できるスキーバスが登場し、我 々スキー愛好家に絶大なる歓迎をうけた。これらの影響で スキー人口が急激に増えてきた。この様な状況の中で、昭和四十五年に準備会的組織と して七～八名の人たちで同好会が出発している。翌年の 昭和四十六年二月、三泊四日の日程で、同好会主催の第 一回スキーバスが志賀高原、宿泊は一の瀬スキー場ゲレ ンデ前の金栄館、会費五千五百円、五十三名の参加者を 集めて開催されている。この年の七月にNRIMスキー同好会が旗揚げされ、 会長・亀谷博(元製練部室長)、副会長・菅広雄(現組織 部)、幹事会四～五名、顧問・柳原正(元化学部長)、月金材研スキークラブ 1975年2月2日第5回志賀高原スキーバス会費二百円、会員十七名で正式に発足したことが記録に 残されている。同好会の主な行事は、十二月・初滑り、一月・定例会、 二月・スキーバス、三月・全日本スキー連盟技術検定試 験、四月・春スキー等の活動計画が総会で決められてい た。また、会費の二百円は会員のスキー技術向上と技術 検定試験のために、月間雑誌スキージャーナル、全日本 スキー連盟技術教本等を購入し、会員間の回し読み等に 支出されていた。これらの活動の中で最も力を入れて 行った行事は、全職員対象のスキーバスを成功させるこ とと、全日本スキー連盟技術検定試験に合格することで あったと思われる。スキーバスの主な出来事を回想してみよう。 バス一台三十五名以上の参加者を集めないと赤字に なってしまうので、この人員集めに四苦八苦した。一般 参加者対象のスキースクールは、午前中初、中、上級全 て同好会会員が指導にあたった。午後は副会長菅広雄指 導員、笹淵益美準指導員による同好会会員対象のスキー スクールが開かれていた。真っ黒に日焼けした菅指導員 の華麗なるオーストリアスキー技術と、秋田なまりの説 明が何ともいえない憧れのまとであった。 第一回志賀高原では、全参加者によるボーゲンスキー 大会団体戦。第二回野沢温泉、内風呂が無いので外風呂 へ、帰りのタオルがコチコチの氷柱。第三回菅平、猫岳 からの大滑走。第四回黒姫、ホテルでの米国兵士とのダ ンスの競演。第六回斑尾高原、ペンション二階からの飛 び込み大会。また、第一回から第七回までの全てのスキーバスに小 林スポーツ店、西田薬局等から、種々の賞品(スキー板、ストック、等々)を寄付していただいた。この賞品争奪 抽選コンパが大いに盛り上がった。一方裏方では、同好 会幹事にスキー板やストック等の豪華賞品が当たらない ように苦労したことも思い出される。スキー技術検定試験には、会員の八割近い人たちが挑 戦している。岩岳スキー場での一級検定試験には、一級 既取得者が二名監視者として同行し、四名の受験対象者 が参加した。試験の前日、検定のためのスキースクールが開講され るので、受験者は必ずこれを受けることになる。スクー ルでは午前、午後の急斜面不整地での教習で足腰がいう ことが効かないほど疲労して、とても検定を受ける状態 ではなかった。このため、明日行われる検定試験に対し 全員自信が無くなり、中止にでもなれば良いと愚痴をこ ぼしていた。この愚痴が神に通じたのか、検定試験当日の朝、雨戸 を開けたらドシャブリの雨が降っており、検定中止を確 認し大きな声でバンザイ三唱した。一級のバッチは欲し いけれど検定は嫌、このわがままな我々に対し、監視者 役を努めた仲間に今だに嫌みを言われている。 それでは、当同好会会員のスキー技術の腕前を紹介し ておこう。同会発足当時は菅指導員以外、スキー連盟公 認資格を持つ者はなく、本当に下手だった。 ○指 導 員 菅広雄(組織、元国体スキー選手) ○準指導員笹淵益美(元材強、四季クラブ旅経営者) ○一 級 鰐川周治(力学)、小川一行(物性解析)、 宮代寛(研究支援)、京野純郎(5G) ○二 級 鈴木俊一(物性解析)、太田口稔(反応)、 渡辺健二(庶務)、大島一男(研究支援)、小林敏治(計算材料)、吉川進(元庶務、 原子力環境設備センター) ○三 級 大沢嘉昭(組織、現在一 ・五級の腕前は充分あるとの評価)最後に、この素晴らしいスキーが縁で結ばれた会員が 五カップルもあり、いまもって子供たちとファミリース キーを楽しんでいる。NRIMスキー同好会年表昭和45年スキー同好会準備会発足、会員7～8名、会費五〇円 昭和46年7月スキー同好会発足、会員17名、会費二〇〇円昭和46年2月20～23日第1回志賀高原スキーバス、宿泊・金栄館 参加者53名、会費五、五〇〇円 昭和47年2月12～15日第2回野沢温泉スキーバス、宿泊・民宿ぼたん荘 参加者45名、会費六、〇〇〇円 昭和48年2月23～26日第3回菅平スキーバス、宿泊・金井ヒュッテ 参加者34名、会費六、二〇〇円 昭和49年2月15～18日 第4回黒姫スキーバス、宿泊・黒姫ライジングホテル 参加者44名、会費八、〇〇〇円 昭和50年1月31～2月3日 第5回志賀高原スキーバス、宿泊・志賀パークホテル 参加者52名、会費 一三、〇〇〇円 昭和51年1月30～2月3日 第6回斑尾高原スキーバス、宿泊・ペンションノナ 参加者49名、会費一五、〇〇〇円 昭和52年2月4～8日 第7回北志賀高原スキーバス、宿泊・ホテル竜王 参加者 42名、会費一六、五〇〇円 昭和54年3月スキー同好会解散、会員14名、会費二〇〇円 N RIMスキー同好会解散記念八方尾根スキー 参加者6名、宿泊・民宿上段(わだん)(反応制御研究部)目黒でのサッカー菊池武丕児小学三年生の頃、今でいうキックベースを学校でやっている時のことです。打順が回ってきて蹴ったのですが、 身体はボールといっしょに転がり、もんどりうって尻も ちをついてしまいました。お尻の痛さは今でも覚えてい ます目黒でのサッカーの思い出に先立って、サッカー部の 動向を暖かく見守ってくれた多くの所員に、この誌面を お借りして改めて感謝いたします。長年あの場所でやっ昼休みの練習風景てこられたのは皆さんの応援・声援あったればこそと考えています。サッカー同好会発足通称サッカー部は一九六九年に同好会として発足しま した。みんなで知恵を出し合い、外部クラブの規約等を 参考にしながら独自の規約をつくり、スタッフを定めて スタートしました。毎年同好会総会を開いて、規約にのっ とって新しいスタッフを決めるようにしていました。長 い間、この方式が定着していました。しかし、全体の活動が停滞しはじめたころからは、会 費徴集だけをしてボール代に当てたりした運営になりま した。対外試合はほとんど無しの状態でした。特に筑波 移転前はそうした傾向が強かったようです。そんな中で も最後まで続けてきたのが、年に一度の納会でした。納 会ではミニゲームの成績について盛上ったものです。 発足当時、門から24号庁舎に至るメインストリートで、 昼休みになるとボールリフティングなどをやっている人 を見かけたものです。その後どのようになって同好会設 立に向けた動きが出てきたのかは分かりません。二人ほ どのサッカー経験者が中心になって出来ていったのだと 思います。そうした創設時のメンバーの多くは退職して います。また、退職者を含めて、それまでに同好会に所属 したことのある現職員やOBは四十人以上になります。 練習場所は、練習方法は、試合は、と間題は色々あり ました。場所といっても所内に適当地があるわけでもな く、「あの場所」になったのです。勿論場所決めは関係部 署にお願いして回って、あそこに落ついたわけです。 ほとんどのメンバーはズブの素人。ボールを蹴ればガラスをガチャン、こっちへ蹴れば風車をペチャンコ、あっ ちへ蹴れば屋根をグシャリ、その都度、関係部署に頭を 下げて歩いたものです。ボールの行方はボールに聞いて くれ、といった程度の腕前、いや足前だったのです。所 には金網を張ってもらったり、ガラス破損防止のため自 分達で鉄格子を作って窓に取付けたりしました。 発足以来二十五年間やっていたことになります。所に は、この間数々の御迷惑をかけてきたことと思います。 しかし、短い昼休み、ボール蹴りはストレスを解消し、 仕事への糧ともなっていたことと思っています。本当の 練習は試合で、を目指して目黒区の大会に参加したり、 試合を求めて外部のサッカー部に申し込んで「足」を研 いたものです。出ると負けから目黒大会準優勝日常の練習は、あの「練習場」でやるのです。冬期は 全く陽が当らず、雪が積もればいつまでも解けず、地面 は石ころだらけ、へたに掘るともっと大きな石が出現、 マンホールはある、鉄柱、鉄梯子、ガスメータ、木立ま である。よくもまあ！ あんな狭い、危険なところで長 年やってきたものと、今さらながら感心してしまいます。 ケガを恐れず、雨が降っても、ヤリが降っても恐いも のなし。梅雨時など、雨の中、スポーツしているのはサッ カーだけ！ お花をナギ倒してにらまれたり、ぬれた ボールを通行人に当てるやら、スミマセンを連発しなが らの昼休みでした。泥まみれになって昼休みを過ごすな ど狂気の沙汰と他人は言う。でもそれが快感なのです。 いや快汗なのです。この前代未聞の練習場での、皆さんご存知のミニゲー対外試合ムは、ゴール前のツメの甘さ克服対策として絶大な成果 を発揮したのです。試合をしてもなかなか勝てなかった けれど、一九七八年には破竹の四連勝、皆が「負ける気 がしなかった」とまで言ったのはこの時期でした。七九 年には目黒大会二部準優勝、翌八〇年にも同じ相手に優 勝は逃したものの、レベルアップが目に見えた時でもあ りました。思いかえすと、この頃がピークだったように思えます。 発足十年で花開き、多くの有能なメンバーが退職したり、 プライベートな事情が加わり、試合にのぞむ員数合せが 思うにまかせなくなってきていたのです。準優勝して一 部リーグに昇格したものの、勝利することはなかなか難 しいものがありました。官庁リーグ四連覇初の目黒大会準優勝より一年前、一九七七年に官庁対 抗のリーグ戦が復活しました。上り調子だったわがサッ カー部はこの年優勝し、八〇年までに四連覇を果したの です。官庁ですから例外を除けば広いグランドはないわ けで、境遇はわがチームと変らず、まさに実力のぶつか り合いだったのです。この四連覇は私たちに自信と深い感動を与えてくれま した。七七年初優勝の折には、最終戦で私は生れて初め てハットトリック(一試合一人で三得点をとること)を 飾らせていただき、美酒に酔ったものでした。最高にサッ カーを楽しんだ時期でした。合宿夏期合宿は発足以来、ほとんど欠かしたことはありませんでした。大人だけの参加から、徐々に子ども同伴の 合宿となり、後半はより家族的な要素が大きくなってき ました。初めての合宿は六九年夏の山中湖でした。私など「往 きはよいよい、帰りはこわい」を地でいってしまいまし た。普段の足腰のトレーニング不足がたたって、湖畔(約 十四キロ)を二日間にわたって一周ずつ走ったのですが、 足の筋肉はまるで棒のよう。宿の中の階段はもとより、 ちょっとした段差の昇り降りはほとんど地獄。新宿に 戻ってバスから降るにも足に激痛が走り、倒れ込む者、 ふんばれずよろける者続出だったのです。 私自身何といっても忘れ得ないのが、翌年の、なぜか 北海道札幌。夢はるか遠い地。勿論、つてあっての合宿。 通産省の試験所(当時)に丸ごとお世話になり、楽しい 旅行となりました。新幹線のない時代、飛行機は庶民の 足にあらず。上野から列車、船を乗継ぎ、札幌駅に降り 立った時の青く澄みきった大空を、大地を目の当りにし て大感激したものでした。私たちの歓迎会を開いていただき、どこかの実験室で、 北海道名物と称するジンギスカンパーティーとなったの です。もうもうたる煙の中、酔っぱらいが人の名を混同 してか、TAGAYAさん！ KAGAさん！・と大声で 何どもさけんでいたのが今でも脳裏に焼付いています。 当時の皆さんはどうしているだろうか。この合宿ではア クシデントもあったりして、試験所長の奥様には大変御 面倒をかけてしまいました。丁重にお礼を述べて帰途に ついたのでした。もう一つはハプニング。七九年に行った白樺湖のこと。 練習が終って夕方、フロに入ることになり、当時若手の一人だったAさんに「フロ、開いてるかどうか見てきてよ」「どうだった？」「女の人が入ってるみたいだよ」 一瞬、一同色めき立ち「あれ大浴場だろ？」誰ともなしに「よしっ！ みんなでいけば大丈夫さ」(何が大丈夫な のか)。大浴場は男女の区別はしてなく、私たちは堂々と全員 (子ども二人含む)で乗り込んだ。蛇口を求めて右往左 往。その時早く、かの時遅く、湯舟につかっていた女性方 はそそくさと、いや、あわてて上ってしまったのです。し ばし残ったのは少し年配の方々と子どもたちでした。その皆さんもまもなく上ってしまったのでした。数は力な りを実感したしだい。立場が反対だったらどうなってい ましたか…。誰が悪かったという訳ではありませんがね。 おわりに練習中、試合中にかかわらず、この二十五年間には数 えきれないほど多種多様なハプニング、アクシデントが ありました。試合中に手の指を折る者、バッティングで 顔面に大出血して急救車を呼んだり、しばし入院したり、 目を痛めたり、ねん挫・打撲は日常茶飯事的に起りまし た。命にかかわる重大事にならなかったのは幸いでした。 ケガさえ治れば、こりもせず又サッカー。好きなんです ね、これが。(機能特性研究部)「ジョギング部」とその後小方 実 ジョギング(jogging)とは、自分の体力に合った速さ でゆっくり走る運動で、元来はスポーツの準備運動とし て行われていたとのことであるが、要は走ることである。 一緒に走りましょうと声をかけられたのが、当時企画 課におられた藤沢勝一郎氏であった。軽装で野山を駆け、 花鳥を賞で、身心のリフレッシュに努め、あくまでも自 己中心に、少しの好奇心・冒険心を満たしつつ機能の低下を予防することを目的として、数名の方々を勧誘し、 「ジョギング部」として一九七一年に発足したのである。 部の活動と言うほどおおげさなことではないが、原則 として、毎日十二時十分に守衛所前に集合し、その日の 参加者がほぼ揃ったところでスタートした。コースは、 田楽橋を渡り朝日屋の所を左折、中里橋を渡って材料試 験部横の長い心臓破りの坂道を登り、防衛庁技術研究所 の壁添に左折、正門前を通過し東京服飾アカデミーの所 で左折、第二番目の心臓破りの坂道を登り、NTT研究 所の入口を過ぎて、膝が笑う別所坂の急な下りを直進し て目黒川に至り、田楽橋の手前で左折して守衛所前に帰 る。このコースは横断路が無く、約三粁の短い距離であるが、上り下りの変化に富んだ好条件を備えているため、 平坦コースの倍以上の効果があったと思われる。所要十 二分程度で充分汗を流すことが出来たのである。転勤等 で自然消滅となったが、個人で、或は、同好の士と共に 「ジョギング部」の波及効果として色々な体験をした。 簡単に御紹介しますと…。その一、青梅マラソンに参加し、ゴールまでたどりつ いたが、完走か完歩か疑わしい状態であった。汗かきべ そかきの途中、泳げタイ焼君のレコードが聞えていたの が想い出される。その二、飲まず食わず徒歩あるき、四十二・一九五粁 歩け歩け大会に参加し、新宿公園から青梅支役所まで、 朝八時に出発して、飲まず食わずただひたすらに歩いて 八時間余でようやくゴールイン。トン汁に空腹と寒さを 癒し、完歩証の交付を受け、千四百二十番の着順は、吾 ながら不満足であった。その三、或る土曜日の午後(まだ週休二日制でなかった)、住所である横浜市西区老松町(野毛山)まで、中目 黒の金材技研から、藤沢勝一郎氏と二人でジョギングで 帰ったことがある。衣類その他はナップサックに入れ、 弥次・喜太よろしく、えっちらおっちら東急東横線に付 かず離れず、約二十六粁を三時間余で迷走したのである。 首都圏に直下型地震があって交通機関がもし全滅した場 合でも大丈夫だ、と、変な自信を持ったのである。 その四、筑波支所へ転勤し、宿舎が吾妻四丁目であった関係で早朝に走ることを心掛け、街中と一味異った コースで、筑波山を眺めながら、田圃道を四季折々の草 木に接し澄みきった朝の空気を胸一杯に吸って思う存分 出勤前にリフレッシュが出来た貴重な体験であった。 その五、一九八三年二月から約二年間放射線医学研究 所へ転勤し、昼休みに研究所近くの貝塚のある森、栗畑、 落花生畑の道等々、筑波とは違った自然に恵まれたコー スを楽しみ、体重の減量にもおおいに役立ったのである。 その六、一九八五年再度金材技研の本所に帰り、走る ことを心掛けたが、昔のジョギング部のメンバーも残っ ていなかった。唯一人黙々と防衛庁技術研究所の池の周 囲(約四百米)を五周し、昔を偲んだのである。 その七、一九八八年六月公務員を退職し、新技術事業 団へ勤めることとなった。ジョギングコースも勤務地と ともに変り、皇居周回コース、荒川堤・臨海公園コース を経て、現在は鎌倉周辺がホームコースである。山あり、 海あり、公園ありの景勝を楽しみながら、ジョギングの 冥利を満喫している。走ることは一種の中毒かも知れないが、道ある処に コースありで、尽きることなく続くであろうが、あくま でジョギングの初志を忘れることなく続けようと思って いる。(技術課S35・5・16～58・2・1 S59・ 11 ・1～63・ 6 ・15)ヨット作りこぼれ話し雀部 謙 かれこれ十五年以上前のことです。30号庁舎の玄関脇 の屋根の下で、知る人ぞ知る、ヨット作りが始まりまし た。その名も「国際ファイヤーボール級」という、いかに もすごそうな名前の小型艇です。イギリスのピーター・ ミルンという有名なヨットデザイナーの設計によるイン ターナショナルクラス(国際公式レース仕様)艇で、滑 走タイプのモダンな二人乗りの小型ディンギーです。 ディンギーというのは船室のない小型ヨットの総称で、 体重を移動させてバランスをとりながら帆走する、とて もスポーティーにしてメンタルな乗り物です。 仕掛け人は小林某君、船大工の棟粱は私、それに中村、 山口、小口の三氏が加わった五人の仕業です。このグルー プ、決してヨットマニアが集まったわけではありません。 棟粱といえども、その昔小型ヨットの製作を手懸けた ことがあるとはいえそれも十数年以上前のことであり、 しかも数年来ヨットとはまったく縁が切れていたという 頼りなさです。そのほか、いくらか経験のある者一名、 一、二度乗ったことがあるもの一名、他の二名は好奇心 の他はなにも持ち合わせていないという、世にも不思議 な集団です。大志を抱くのは少年ばかりではなく、はじめは太平洋 を横断できる本格的なクルーザーを作ろうという話から始まりました。普通、乗り物は時間の経過とともに遠く へ行くのですが、このクルーザーは日が経つに連れて航 海距離が短くなり、ハワイから小笠原、八丈島、大島を 経て、ついには沿岸専用のディンギーに落ち着いてしま いました。八月のある日、先ずは三万円也で設計図を購入したの が、一年に及ぶ難行苦行の始まりでした。たかが趣味と はいえ、当時の市価で百万円ほどの艇を作るとなると、 あまり楽ではありません。日本語でもよくわからない用語が多いのに、専門用語 満載の英語の図面の読み取りとクラスルール(製作上の 規定―国際レース仕様なので細かい規定がある)の検討 で、船出しないうちから大しけです。いくら図面とにら めっこしても頭の中だけでは製作工程がわからず、二十 分の一の模型を作ってやっと全体のイメージがつかめる という難航ぶりです。それというのも、この艇、当時としては斬新な翼断面 型をした高速艇で、主要部分は厚さ六ミリのべニヤ板を 切り抜いて張り合わせて立体構造物にするモノコック構 造のものなのです。ところが、船の中心には船首から船尾を貫く「竜骨」 という背骨がある設計図しか見たことがない古典的棟粱 の頭には、切り抜くべきベニヤ板の寸法しか書いてない 図面を見ただけではモノコックの立体構造がうまく浮か んでこないのです。最初の大波を乗り越えて必要な木材を購入したとき は、すでに十月も末に近づいていました。全長約五メー トル、マストの高さ約七メートルという本格的インターナショナルクラスのヨットも、初めはどこにでも売って快走するファイヤーボールいる数枚のただのベニヤ板です。近所の材木店で購入し た厚さ六ミリと四ミリのベニヤ板が風にあおられてヒラ ヒラ舞っているのを見て、集まってきた野次馬第一号諸 氏いわく、「こんな板で、大丈夫なのかい？」「こんなので作るの、おれは絶対に乗せてもらわん ぞ！」その後も野次馬語録にはなかなか面白いものがあるので折に触れて紹介することにして、いよいよ製作開始で す。木材を図面に合わせて切り出し、あとはほとんど積層 樹脂接合だけで組み立てます。定尺ものでは長さ不足の ベニヤ板をスカーフ接合して必要寸法にしたり、舷側や 船底の接合など、ガラス繊維テープをポリエステル樹脂 で積層するいわゆるF R P加工 で接合します。 ところが、ポリエステル樹脂は、温度が十五度以下で は反応速度が著しく遅くなってほとんど硬化しません。 接着作業が始まった十一月中旬頃になると、気温はしば しば十五度以下になり、吹きさらしの屋外では何日待っ ても積層樹脂が固まらないということになります。そこ で登場したのが、電気毛布です。接合部全体を履うには、最低五枚の毛布が必要です。 なるべくお金をかけずにいかにして必要なものを手に入 れるかを考えるのも素人の自作の面白さの一つですが、 地域のミニコミ新聞に「求む、中古毛布」の三行広告を 出したところ、一週間ほど電話がなり続けました。遠く から無料ですぐ郵送してくれる老人がいるかと思えば、 修理しても使えそうもない代物を三千円で売りつけよう とするインテリ風のご婦人など、社会の小さな断面を見 る思いでした。何事も新しいことを始めるときには日頃まったく無縁 の神様がいわくありげに引きずり出されるのが日本古来 の伝統のようで、科学的精神の権化であるわが研究者集 団もご多分に漏れず、骨組みができ上がったところで神 主さんが登場し、お神酒を供えてのおはらいです。当時 金材技研にただ一人神主さんがいたかどうかはだれも知 らないと思いますが、たまたま通りかかった宇田宮司をつかまえて白衣を後ろ前反対に着せ、ボール紙をきりぬ いて作った即席烏帽子をかぶせ、厳粛におはらいをして もらいました。何かそれらしい形のものができ始めると、通りすがり に一言冷やかさないと気がすまない観衆の好奇の目が一 段と色を帯びてきます。しかし、どの目も一様に大変心 配気です。手を触れるとゆらゆらと心細気に揺れる骨組 みを見ては心配し、厚さ六ミリのベニヤ板一枚の船底を たたいては心配し、一箇所仮り留めする度にベコベコと 波打つ舷側をなでては心配し、接合部がほとんど樹脂接 着であるのを見ては心配し、果ては目の前で進んでいる 作業を眺めながら、「人間が乗れるものがホントにできるのかい？」 という、核心をついた質問をする勇気ある人も現われま す。製作にかかわっている者でさえ心の片隅に引っか かっている禁句を、野次馬先生はいともあっさりと言っ てのけます。観衆があまり熱心に心配してくれるので、作業を進め る仲間にも少々動揺の色が現われ、それが「腕なら任せ ておけ」と大見えを切るほどには自信がない棟粱の心理 にも微妙な影響を与え、まったく不必要なことがわかり 切っている補強をいくつか入れることもありました。 年の瀬が迫り、木枯らしがひときわ身にしみるころに は大物の作業はデッキ張りを残すだけになり、こまごま とした手のかかる細工が始まりました。その頃になると 誰が見ても立派な船の形をしていて、そのままでも水の 上に浮く状態なので、野次馬諸氏の目も冷やかしから次 第に感嘆の色に変わってきます。「なんのかんのと言っても、タイシタもんだねえ」「ほんとにできそうになってきたねえ」 という単純感嘆型の質問と同時に、「何人乗れるの」「何ノットくらい出るの」「制作費はどれくらいかかるの」「この部品は何に使うものなの」「ここはどうやって作ったの」というような、好奇心に満ちた具体的な質問が多く なってきます。艇の性能など、たいていの人が聞きたが る質問に人が変わる度に説明していてちっとも作業が進 まないことも多くなり、失礼ながら艇の主要諸元を掲示 して勝手に見てもらう羽目になりました。 しかし、世の中、考え方はいろいろあるもので、 「ヨット作りとは、何とも優雅で高尚な趣味ですね」 などと持ち上げてくれる人が多い中で、貧乏人のくせに 小生意気なとでも思ったのか、何をどう勘違いしたのか、 「きみ、これ、アルバイトで作ってるの？」 などと、思いもよらぬ衝撃的質問を発して昼休み大工の 度肝を抜き、工期に大幅な遅れをもたらそうと企む御仁 も現われました。年が明け、寒さが一層厳しさを増し、凍える手で手の かかる小物作業をこなす日々が過ぎ、最後の大物である デッキを張って塗装したときは、ヨットシーズンの開幕 時期も過ぎ、五月の連休も過ぎてそろそろ梅雨が始まろ うとしている頃になっていました。ここまで来れば工程 上は八割以上終了で、だれが見てもまともなヨットの格 好をしていて、そのまま水に浮かべてもヨットとしての 機能は十分に持つ形になっています。 ところが、これからが最後の胸突き八丁なのです。船体一面にパテを塗り付けて細かい凹凸や木目をつぶ し、全体を平滑に削ってからペイント塗りが始まります。 アクリル系の硬質ペイントを塗って乾燥させたあと、次 には気が遠くなるような研磨作業が待っています。艇全 体にきれいにペイントを塗ったところをシリコンカーバ イドの水ペーパーで研磨し、ペイントが半分くらい削り とれて津軽塗りのようなまだら模様になるまで磨きま す。乾燥させてはまた塗装し、乾いたらまた水研ぎし…、 研磨紙の粒度を次第に細かくしながらこんな単純作業を 十回くらい繰り返します。乾燥させるだけで一日かかり、 見ているだけでくたびれそうなこの作業、長さ五メート ル、巾一・五メートルの鉄板を全面にわたってマクロ組 織が見える位まで研磨するのと同じ程度の作業と思えば 想像がつくのではないかと思います。 素人目にはほとんど変化がわからないような単純作業 の繰り返しが一ヵ月ほど続くと、近くを通りすぎる人も 次第に足を止めなくなります。野次馬先生が素通りする この時期が、たぶん、作業が一番はかどった時期だろう と思います。コンパウンドで仕上げの研磨をし、ワックスで磨き上 げると、船体はガラスのような光沢で周囲の景色を写出 しました。こうなると、野次馬先生たちの好奇の目も再 び光を放ち、かつて「こんなペラペラな板で作る船には絶対乗せてもらわ ないぞ！」と蔑みのまなざしでからかっていた男が、自慢のこぶし で船底をゴンゴンたたきながら、「えらく丈夫そうだなあ」と感心し、何ヵ月にもわたる作業の経過を逐一見ている のに、「これがベニヤ板ですか？」と驚きいる人なども現われます。作業の進行とともに見 物人の目が変わるのはたいへん面白く、目先の出来事に とらわれずに先を見通すことの大切さを大いに学ばせて もらいました。そのうちに梅雨もすっかり明けてしまい、記録破りの 猛暑の中で、水辺とは程遠い東京のどまん中でこまごま とした擬装品の取り付けに大汗を流している姿は、あま りかっこの良いものではありません。それでも、夏に追 い越されては一大事とばかりにふんばった甲斐あって、 鰯雲が出る前に三十号庁舎前の青空に純白のセールをは ためかせることができました。夏の日がまだまばゆい富浦海岸でシャンパンを浴び せ、滑るように帆走し始めたとき、「ホントに帆走してい るのを見て、思わずわが目を疑った」というのが製作者 の一人の感想でした。文字どおりの順風満帆で何事もな かったかのように優雅に滑り出したときの感触を、いま でも生々しく思い出すことができます。 ヨットのその後の消息を聞きたいのですか？ 積層樹脂は水と紫外線にさらされると経年劣化して、 十年ほどで駄目になるのが普通です。しかし、わがヨッ ト同好会製作による艇は、いまだに頑丈そのものです。 どうしてそんなに丈夫なのかはともかく、霞ヶ浦も近く なったので健在ぶりを御目にかけることもできると思い ますよ。(「ざいけん」No.38に掲載されたものに加筆修正)(組織制御研究部)ウォーキング同好会田村良雄金材技研目黒で最も新しい同好会は、このウォーキン グ同好会ではないかと思っています。別の言い方をする と、いちばん最後の同好会だったのかもしれません。で きたのが九一年の春頃ですから、移転が始まる僅か三年 前のことです。当時二～三人で始めたウォーキングの趣 旨に次第に賛同者が集まってくるようになり、九四年の 移転時には十数人の同好の人達で会が盛り上りました。 この会の趣旨は、①健康維持に必要な運動不足解消の ための「安全なスポーツ」として、②永年目黒に生活し ていても、すぐ近くにある「歴史的な文化財を知る」機 会がなかったので、この際これを探訪しよう、という二 点です。特に中目黒界隈は坂が多く、地理的に変化に富 んだ町並みを探訪しながらウォーキングすることはス ポーツとしての効果も充分上がるのではないか、と考え たからです。目黒地区でのこの会の活動は、主に昼休みの短い時間 に、雨の日を除いて毎日行っていました。年間を通し、 時間の許す範囲で、参加できる人は所定の場所に所定の 時間迄に集合することで、できるだけ集団ウォーキング を実行していました。一人の場合も勿論ありましたが、 三人から五人位でのウォーキングが年間を通して一番多 かったように思います。数の記録としては七人というの が二回程有りました(昼休み以外では十二人の集団で実行したこともあった)。一人では僅か十分も歩くと疲れが出たり飽きてしまう ウォーキングも、二人、三人、更にもっと大勢でいっしょ に行動すると、とても楽しいウォーキングができること を知りました。そして次第に速歩が出来るようになると、 今まで一人ではなかなか出来なかったスポーツとしての ウォーキングができるようになりました。今、その頃の目黒不動に向う西郷山公園活動を振り返ってみると、同好会に思いを馳せて集まっ た人達同士がウォーキングをより楽しいものにしようと お互いに協力していたからこそ、スポーツとしての ウォーキングが実現出来たと思っています。 ウォーキングにスポーツとしてその効果を期待するの には、最低でも一万歩/一日、普通に歩いて一時間位歩 き続けること、と言われています。日常生活で我々が無 意識のうち約五千歩は歩いているようだから、後の五千 歩を補えば運動解消の効果があることになるわけです。 従って、昼休みのウォーキングも五千歩が当初の目的で した。時間にしても、昼休み時間を最大限利用して五十 分位、通常は四十五分位はありますから、三キロメート ルを約五千歩でウォーキングすることはそう難しい話で はないと考えていました。しかし、実際歩き始めてみま すと、距離にして約二キロメートル、時間にして三十分 位、歩数にして三千歩がいいところでした。とても四十 五分は続かなかったように思っています。 この頃はまだ、近くにあった史跡や神社仏閣や公園等 の目標を探訪してウォーキングの中に取り入れる余裕は ありませんでした。地図上では簡単に実現しそうに見え ても、限られた時間に戻らなければなりませんから、一 度道に迷うと五分、十分すぐ経過してしまい、帰路に必 要な時間までなくなってしまいました。 当初はメンバーの足の速さにも差があり、集団ウォー キングに慣れないうちは全体のペースはなかなか上がり ません。さらに、中目黒界隈は想像していた以上に「別 所坂クラス」の急な坂道が多く、コースの所要時間は実 際現地を歩いて確かめてみないと、地図上の距離からは 算定できないことがしばしばありました。したがって、始めのうちは金材技研周辺のごく限られ た範囲にとどまっていました。当初は金材技研と防衛庁 を大きく囲む周回道路を一周ウォーキングするのが精一 杯でした。茶屋坂を登り、防衛庁の正門前を通り、服飾 アカデミー横の坂を登り、KDD前から別所坂を下るこ ろにはもう足ががくがくして、膝に力が入りません。立っ て居るのがやっと。翌日は足が痛くて、とても歩こうと いう気にはなれません。メンバーの中からも同様な声を 何度か耳にしました。しかし、その後ウォーキングについて本をみたり、い ろいろ体験してくると、ウォーキングの姿勢が悪いこと に気が付き、無理な足の使い方をしていたことが判りま した。つまり上半身の姿勢や手の振り、足の運び方、着 地の仕方、靴の選択、ウォーキング前後のストレッチ等々 の知識や情報を無視していたわけです。ウォーキングに も基本があり、ただ歩けばよいと思っていたのが大きな 間違いでした。比較的運動量の少ないウォーキングでも 毎日続けることはかなり努力と体力が要ることを知りま した。その後、次第にウォーキングができるようになってく ると、今度はメンバーの中から、一日でも歩かない日は 何となく体が重く感じられ物がおいしく食べられないと か、よく寝られないとか、ウォーキングが生活の中の一 部に溶け込んでしまったような声も聞かれるようになり ました。この頃になると、コースも距離が四キロメート ルから五キロメートルと延びて、時間にして四十分から 五十分の連続速歩が可能になりました。歩数にして六千 歩から七千歩位になったと記憶しています。 金材研を中心に半径二キロメートル周辺は隈なく歩きましたので、道路地図は赤鉛筆で真っ赤になってしまい ました。いろいろなコースが毎日毎日書き換えられてゆ きました。いろいろな目標物を見つけてはウォーキング コースを次々設定して探訪してゆきましたが、最終的に 目黒地区のウォーキングコースは、①西郷山コース、② 寿福寺コース、③蛇崩川緑道コース、④祐天寺コース、 ⑤目黒不動コース、⑥林試の森コース、⑦大円寺・行人 坂コース、⑧恵比寿ビール(ガーデンプレイス)コース、 ⑨永川神社・目黒川みどりの散歩道、⑩代官山・古代遺 跡コース等々が定着しました。なお、これらのコースに ついては「ざいけんNo.120 (一九九二)」に詳細が載せて あります。これらの中でも、メンバーがよく歩いた思い出の場所 は、第一が西郷山ではないかと思っています。コースの 目的地である西郷山公園は眺望がよく、花木が多く (春 先の雪柳は印象的)、四季を通して心の憩える場所であ り、距離的に楽なことから入門コースでもありました。 第二は寿福寺で、目的地はこの寺の鬱金(うこん)桜 と古い石仏群のある古刹です。コースは蛇崩れ緑道、烏 森神社を経て旧鎌倉街道、銀杏並木のオリンピック道路 から寿福寺と、変化に富んでいます。更に目黒川みどり の散歩道からのコースは、春の花見コースにもなってい ました。第三は林試の森で、目的地の林試の森公園はかっての 林業試験所跡地のため、十二ヘクタールの広さに明治十 一年に開設した当時からの試験樹林がそのまま残ってい て、とても市街地にあるとは思えない自然あふれる公園 です。距離的には一番遠く、昼休み時間には少々きつい 健脚向きコースで、足に自信のないメンバーからは敬遠されていましたが、ウォーキングを実感出来るコースと して最適であったように思います。コース途中に目黒不 動、大鳥神社、五百羅漢寺、海福寺、青木昆陽の墓等が あり、史跡に富んだコースです。勿論これらの史跡も探 訪済みです。同好会は、メンバー相互の親睦を図るために、放課後 24号庁舎四階談話室でミーティングを何度か開催しまし た。このミーティングはスポーツウォーキングについて の情報交換や、今までの活動状況についての反省とか、 これからの要望、更には新たな探訪目標、(史跡や神社仏 閣公園、その境内にある木々草花の見頃、コース周辺の 四季の自然等々)の話題が主な内容だが、やはり何といっ ても、心のリラックスも健康維持には欠くことができな いものです。ミーティング前半の勉強会は僅か五分で終 了するが、後半の飲食会は毎回かなり盛り上がり、しば し時間の経過を忘れさせ、心の緩和に充分役だったよう です。ウォーキングを始めた当初は僅か二キロメートルの距 離も満足に歩けなかった人達も、毎日の練習で歩くこと に自信が出て歩くことが楽しくなりましたが、つくば移 転を機に金材研目黒のウォーキング同好会は当初の目的 を果たして幕を閉じました。ここに、同好会に厚いご支援を頂いた所員の方々、並 びに歩くことに心身の健康を教えられた同好会メンバー 諸氏に感謝申し上げます。長い間のご協力ありがとうご ざいました。尚、ウォーキング同好会つくばが新たに活動を開始し ました。ご賛同の向きは是非ご参加下さい。(計測解析研究部 S34・7・9～H6・3・31)ダンス同好会の想い出��方政行 筑波に単身赴任中、寂しさを紛らわせるつもりで始め た社交ダンスに子どもの頃に習った阿波踊りの感性を生 かしてみがきをかけ、さらに、筑波なまりのダンスを浜 で矯正・鍛え直した小方さんが目黒に帰って来て、ダン スの好きな方がたに声をかけて昭和六十年三月に同好会 を発足させました。14号庁舎の大会議室で火躍日を練習日として、十七時 四十五分から二十時頃まで、前半を基礎ステップ、後半 が自由練習でした。同好会の名称はなく、会費一切不要、 出席も自由な集まりで、毎回十名程の出席でした。ラス トダンスは照明を暗くして雰囲気を盛り上げたり、そのときは、日頃謹厳実直なF先生は抱月を気取ってか抱き しめを楽しむふとどきもありました。一時は雨の昼休みも練習する人がいるほどでした。先 生の熱心な指導により技術も向上し、皆が一通り踊れる ようになり、クリスマスパーティーを開くことができま した。そのときは筑波からもお客さんをお呼びするとと もに、所長他の飛び入りもあって、五十名を越える盛会 でありました。缶ビールの酔いも手伝って、歳を忘れ、 リズムを追い、楽しい時を過ごし、全員の心に想い出が 刻まれました。その後、同好者によりNさんのお別れパーティーをに ぎやかに開きましたが、昭和六十一年に先生が転勤にな り、先生による求心力がなくなると集まる人数が少なく なり、自然解散になりました。つくばに転勤した今、目黒時代の楽しい輝きとして想 いだされます。(機能特性研究部S35・4・1～H7・3・31)囲碁クラブ目黒の思い出栗原 豊囲碁クラブの起源金材技研における最大の文化活動の一つが、囲碁で あったと思う。目黒時代の囲碁愛好家は多く、ざっと百 名近くいたように思える。その中で記憶にある人々を紹介させて頂くと、表のようになる。古く昭和三十年代は 天野、大庭の両者が初段の腕前で、金材技研ナンバーワ ンを競っていたようである。その後、溶接部の鈴木(春) 氏がなかなかの腕前で、金材技研ナンバーワンに納って いたように思う。多くの人々が昼休みなど、ちょっとした時間、ちょっ とした所で思いのままに対局したことが思い出に残って いることと思う。囲碁名所目黒時代の思い出で忘れてならないのは、囲碁にかか わる名所が幾つかあったことである。その一つが24号庁 舎会議室であり、昼休みにはかなり多くの人が楽しんで いた。そこでは速い人は昼休み中に三局も対戦していた。 ここでの対局は筑波移転直前までつづき、荷物をまとめ る最後の最後まで打たれていた。もう一方の名所は森本室長の部屋で、森本氏ご自身が 若手育成に専念されていた。そのお弟子さんの数は多い。 また、30号庁舎へ移られてからも、34号庁舎で入門者を 含めたメンバー十数名を集めて指導をされていた。この グループの活動は今も続けられている。このように、金材技研(目黒)では、発生場所を異に する二つの囲碁グループが存在し、それぞれが特徴を持 ち、所員の棋力向上と和を深めてきたと思う。所内大会昭和四十年になると所のレクリエーション活動として の囲碁大会も盛んになり、初代橋本所長が表彰状を渡さ れたこともあった。囲碁クラブとしての活動も盛んにお こなわれ、トーナメント方式やリーグ戦などいろいろな 競技方法が取り入れられていた。親善試合外部との親善試合も頻繁に行われ、近いところでは共 済病院、防衛庁と対戦した。また、新日鉄の研究所とは 度々親善試合を行った。箱根に一泊で出かけて対局を 行ったことも何度かある。写真はその思い出の一駒である。囲碁クラブの定期戦戦力アップのために、囲碁クラブの対局を「点数制」 で行ったこともある。勝てば一点プラス、負ければ一点庁舎 囲碁を打った人々 敬称略24竹内(伸)、武内(朋)、吉川(明)、藤田(廣)、大河内、浅田、大越、 土肥、岡本(昌)、高橋(聰)、森本(一)、前田、佐藤(充)、吉田(勇)、 上原(満)、荒木(喬)、池野、内山、鈴木(敏)、藤田(充)、沼田(英)、 佐藤(有)、安中、新井(隆)、中沢(静)、栗原(豊)、生井、中島(宏)、 渡辺(敏)、小野寺、菊池(政)、大沢、角田、楠、板垣、有富、浜野、 中田、佐藤(彰)、村松(晃)、岩井、��方、西田、松尾、大森、辻本、 笹野、上原(重)、渡辺(治)、橋本(健)30鈴木(春)、鰐川、柳原、吉岡、太田口、天野、藤井(哲)、武井、尾 澤(正)、片田、亀谷、伊藤(真)、鈴木(俊)、小林(剛)、入江、衣川、 福島(孟)、尾崎34 信田、魚津、中村(実)、小林(清)、宮代、伊野口材強 上田(輝)、伊藤(秀)、桑江、松本(庄)、辻、星本材試 金子(隆)、升田、安蔵管理部 中野(昭)、太田(信)、横山、一色、上田(誠)、樋口外国人 崔箱根へ囲碁旅行マイナスとし、対局者の持ち点の差がハンディとなる方 式である。しかし、この方式は評判が悪く、囲碁クラブ の活動を停滞させることになった。比較的評価が良く長く続いたのがクラス別リーグ戦で ある。六人一組のリーグをつくり総当たりで成績を競い、 成績の上下二人を入れ換える方式であり、この方式によ り金材技研の囲碁レベルはかなり向上したと思う。この ように、囲碁クラブの活動は何度か消えては再スタート させ、現在に至っている。ジャンボ囲碁大会昭和四十年末ごろと思うが、日本棋院が主催するジャ ンボ囲碁大会にも参加した。一チーム十五人で、各チー ムの棋力によるランク別トーナメント戦である。この大 会に参加するために十五人の選手を集めるのが一苦労で あった。成績は三回戦から四回戦ぐらいまで勝ち進んだ 事があると記憶している。メンバーは、科学技術庁囲碁 大会参加メンバーとほぼ同じである。科学技術庁囲碁連盟発足昭和五十年代になると、科学技術庁囲碁大会が傘下の機関によって開催されるようになった。競技は、団体戦 と個人戦があった。団体戦はクラス別で、一クラス四チー ムで総当たりのリーグ戦で行われ、一位と四位は入れ替 え制であった。一チーム七人で、多いときには三チーム も出場したこともある。成績はそれぞれのクラスで優勝 したこともあった。海外交流韓国から研究員として来られた崔氏が大変な囲碁好き で、日本棋院の段級戦に参加し、三段の免状を取って帰 国された。また、崔氏を囲んでの懇親会、箱根への囲碁 旅行なども思い出として残っている。ここでも国際親善 に一役かっていたのである。おわりに取り留めもないことを書いてきたが、昔話のきっかけ にでもして頂けたら幸いである。囲碁を愛する所員及び OBの皆様の棋力向上とご健康をお祈りして筆をおく。 最後に、執筆に当りご協力下さった皆様に御礼申し上 げます。(計算材料研究部)茶道同好会武井 厚私が最初に茶道同好会に在籍したのははるか三十年も 以前で、まだ若々しい青年の頃である。一般には、華道 や茶道は女性の花嫁修業の一つと考えられており、十人 位の会員のうち男性は私が一人であった。 なぜ、男のくせにお茶などを習おうとしたのだろうか。 動機は幾つかあった。当時私は化学部に所属し、同じ研文化祭でのお茶席古今和歌集「戸山切」究室に高石(旧姓鈴木)博子さんと現所長夫人の新居(旧 姓神田)悦子さんの二人の女性研究員が在籍しており、 このお二人にさそわれ、あまり抵抗なく、女性を中心に した同好会に黒一点ではいることができた。 もともと、若い頃から歌舞伎が好きで、毎月のように、 歌舞伎座の三階席に通った。当時から三階席の値段は格 安で、映画のロードショーの料金とほぼ同額であった。 その歌舞伎の世界や時代劇で見る茶道をもう少し知って みたいというのが、最初の動機であった。 お稽古は土曜日の午後に食堂裏の教養室で行われ、最 初は外から年配の先生が来て教えてくれた。当番は、そ の日のお菓子の用意と、炭をおこして茶釜でお湯を沸か し、準備しておくことが仕事であった。予算は決められ ているのでそれほど高級なお菓子は購入できなかった が、それでも人それぞれが工夫をこらし、美味しそうな 和菓子を用意した。それを食べるのも、お茶会での楽し みであった。今でも高級和菓子を見ると、無性に抹茶が 飲みたくなる。先生に誘われて、お茶会にも何回か参加した。一日に 五席位回わり、その度にお菓子を食べるので胸が焼けた こと、足が痺れて立とうとした瞬間にひっくり返ったこ と、男が少ないのでお正客(トップに座る客)にさせら れて困ったこと、などが懐かしく思い出される。 茶道は華道と同じで、お免状が何段階にも分けて出さ れる。私の興味はただ茶道の入口を知りたかっただけな ので、先生から免状取りを誘われた段階で同好会を止め てしまった。そんなわけで、千利久の言う「わび・さび」の世界か らは程遠いところで脱落してしまった。他の会員も少しづつ止め、しばらくして、同好会は解散してしまった。文化祭で活躍何年か後に、また茶道クラブのお誘いを受けた。今度 の先生は、職員の吉武ミツエさん(現在目黒勤務)であっ た。茶道に関しては相当のベテランで、非常に上手に親 切に教えて下さった。多分、ご自分では茶道に相当のお 金を注ぎ込んでおられたのでしょうが、我々には無料で 教えて下さった。茶道クラブは、組合主催の文化祭でも教養室と食堂の 角にお茶席を作り、活躍した。珍しさとお菓子に釣られ、 大勢の職員が参加してくれた。上の写真は、私がお手前 をして、新居夫人がお運びをしているところである。 右の写真は、その時茶掛けとして使った掛軸で、私が たまたま所有している古今和歌集の古書の切りで、「戸山 切」と言われているものである。東京のもと戸山ヶ原といわれた現在の西大久保の某家において分割されたた め、この名がある。書は二條為教であるが、系図で示す ように、定家の孫、為家の息子である。古筆では二條家 となっているが、歌の道では京極の祖であるので、本に は京極為教となっている。俊成定家為家為氏 為教 為相為相の母は十六夜日記 の阿佛であるこの歌の切りは、古今和歌集巻第九の冒頭、羇旅歌の 第二と第三の歌とその説明である。解読は非常に難しい が、岩波文庫の「古今和歌集」を参考にすると、次のよ うに書かれている。おもしろくさしいでたりけるを見てよめる」と なむかたりつたふる。隠岐のくにながされける時に、舟にのりていで たつとて、京なる人のもとにつかわしけるによ める 小野たかむらの朝臣 わたの原八十島かけてこぎいでぬと 人にはつげよあまの釣舟 題しらず よみ人しらず 宮こいでてけふみかのはらいづみ川 川かぜさむし衣かせ山この掛軸は、我が家の唯一の家宝ともいえるもので、 時々お正月になど出して眺めている。一期一会お茶と心得に「一期一会」と言う素晴らしい有名な言 葉がある。私が止めた後の第三期の同好会員の魚津良雄 さん(研究支援課)が「ざいけん」に書かれていたが、 その意味は皆さんよくご存知のように、「現在直面してい るこの機会は、過去にも無かったし、これからも二度と 来ない、だから現在を大切にして一生懸命努めよ」であ る。この言葉は私の生活信条でもあるが、むしろ人との出 会いの中にみる。実習生などに、折角何かの縁で会えた のだから、この一年間の出会いを大切にしようよと言う。 貴重な紙面を、自分本位の記録になってしまったこと をお詫びする。茶道同好会は、他のスポーツクラブなど と違って、皆が力を合せて勝利の美酒を味わうなどとい うことが無い。それぞれの会員は個人として参加し、稽 古をし、それぞれ個人の思い出をお持ちと思う。それら については知るよしも無いので、こんな記事になってし まった。(第3研究チーム S33・5 ・1～H7・3・31)フラワーソサエティの半生記 その誕生から目黒を去るまで板垣孟彦こういう形で追想記事を書くのにはいささかの抵抗が あります。なにしろフラワーソサエティは現役どころか、筑波に広い敷地を与えられてますますその活動を拡大し ようとしているところなのですから。しかし目黒の追悼？誌を発行しようとする大きな流れには逆らえません。大きなものには巻かれるのが得策です。 追想文の常道はその創立から説き起こし、栄光のエピ ソードを紹介するということでしょうか。唯一の難点は、 フラワーソサエティがどう始まったのかをよく知らない ことです。今となっては誰に聞いた話かもさだかでない 断片的な記憶が残っているのみですが、悩んでいても話 は先に進みません。二十%の記憶に八十%の創作を付け 加えて、もっともらしいストーリーを組み立てることに します。フラワーソサエティの創立は、金材技研の創立十周年 記念日にさかのぼります。旧海軍の敷地の一隅で声を上 げた金材技研が、管理庁舎の建設を終えて峠をひとつ越 えた時代の話です。木村啓造さん(お辞めになったとき は部長でしたが当時の肩書きが何であったか、面倒なの で以下すべて肩書き省略とさせて頂きます)が何人かの 方々に、「十周年記念日には外部からのお客さんが多い。 この日は所内を花で飾ろうではないか」と声をかけられたのが事の始まりです。これが純粋に木村さんの発案で あったのか、記念行事委員会の様なものがあったのか、 当時の橋本所長が裏で糸を引いておられたのか、今と なっては全てが霧の彼方です。ともあれ管理庁舎横の庭園の一部の芝をはがてし花壇 を造り(何を植えたかは忘れました)、正門から管理庁舎 の入口に至る一角にはベゴニアで盛り上がるようなプラ ンターを並べ、創立記念日を花で飾ることには成功しま 春の橋本庭園した。そのあと、残された資材を活用して花造りを続け よう、との話が持ち上りました。園芸クラブでは能が無 い、フラワーソサエティにしようとの提案は木村さんで した。橋本所長が勇退されたとき、管理庁舎横の庭園を 「橋本先生記念庭園」と呼ぼうと言いだしたのも木村さ んだったように思います。その後、橋本先生記念庭園と食堂の前に花を植えるの がフラワーソサエティの仕事になりました。花壇に植え る球根や苗、そしてスコップ、肥料等の園芸資材は所が 買ってくれたので、その一部を流用して会員の個人的な 園芸趣味も満足させて頂きました(これはナイショ)。 環 境整備費の一部を流用して、24告庁舎の一角に秘密の花 園？も作ってもらいました。フラワーソサエティが発足した当初は、皆でフラワー パークや花卉農家の温室を見に行ったりもしました。し かし時移り、人変り、会員の平均年齢も高くなって、移 転のころにはフラワーソサエティとしてまとまって行動 することもほとんどなくなってしまいました。 花作りには相いれない二つの流派があるのをご存知で しょうか。一つは花壇をきれいに飾りたい派、もう一つ はとにかく植え育ててみたい派。花壇をきれいに飾るた めには大きさや色のそろった苗が必要ですし、育ちの悪 い個体は抜き取らなければなりません。花が終わってみ すぼらしくなった葉を残しておけば、次のシーズンが飾 れません。一方、育てるのに興味が向くと数多くいろい ろなものを植えたくなります。��間を見つけては違うも のを植込む結果、あるものは花、あるものは葉、そして あるものは根だけと、花壇全体が雑然としてきます。花 壇を飾るためには思い切りが必要で、育てるためには花壇のバランスを無視しなければなりません。どう言うわ けか、集まって相談すると衆議は飾り派に流れ、実際に 土をいじり始めるとほとんどが育て派に変身します。 森本一郎さん、依田連平さん、そして現在の山縣敏博 さん、代々の会長も四代をかぞえますが、歴代会長の重 大な使命はこのジキルさん/ハイドさんとの戦いでし た。一年に何回か、会員を召集して義務の花壇の植え替 えや草むしりをしなければなりません。裏の花壇ではい つも誰かが土いじりをしているというのに、表の花壇に は本当に人が集まらないのです。会長は、就任したら退 職するまで、永久在位がフラワーソサエティの伝統です。 山縣さんの戦いはまだまだ続きます。目黒で誰もが自慢に思っていたものの一つに、管理庁 舎裏の桜の巨木があります。何という種類か知りません が、桜前線が関東地方を通過するよりもはるか前に爛漫 と咲き誇ります。山縣さんと西田勲さんが相談して、取 り木と接ぎ木の苗を八本も作りました。十年後には千現 の早咲き桜が筑波の名物になるでしょう。フラワーソサ エティの会員はだれも手を貸していませんが、会長の手 柄は会員の手柄です。胸を張って自慢したいと思います。 「フラワーソサエティの目黒の思い出がやがて千現の 末来を飾ります」〈追記〉早咲き桜について「正式な品種名かどうか分りません が私たちは彼岸桜と呼んでいました」とのコメントを松 浦琳子さんからいただきました。もしかしたら染井吉野 の遺伝子の半分を担うと言われている江戸彼岸かな？(計算材料研究部)盆栽研究会の思い出福田 豊盆栽研究会は一九七三年一月に、盆栽技術の研究と所内の景観保護に協力し、ひいては職員相互の親睦をはかることを目的としてスタートしました(会則より)。本研 究会設立は小島氏(当時工業化研究部)の尽力によるも ので、私も発足二年目に入会したことを記憶しています。 活動内容としては月一回の講義と技術指導(小島氏担 当)からスタートしました。針金掛け一つとっても手先の器用な者は進歩が早く、ましてや枝の剪定にいたって は、私のようなアート感覚のない者にとっては苦労の連 続でした。その後研究会の活動範囲も広がり、各地の盆栽園を見 学するようになりました。大宮盆栽の見学では、樹齢何 百年から数十年の銘品ばかりがあたかも自然に形成され たような樹形をしているのには驚かされました。また、 日本各地から銘品が集まる国風展、そして小品盆栽展等 を見てまわるうちに、一朝一夕で完成された盆栽を作り 出すことは無理であることが分っていても不思議と盆栽 に取組む姿勢が前向きになり、週末の休みが楽しくなっ てきました。一九七四年七月、会員からの要望もあり盆栽交換会を 所内で開きました。約百三十鉢もの盆栽が集まり、隣り の病院に入院している患者さんまでも飛入り参加し、開 始約二十分で終了し、第一回交換会としては大成功であったことも楽しい思い出でした。この頃より所内庁舎の数個所に研究会管理の盆栽棚が 設置されるようになり、春には植替え、剪定、芽摘み、 そして夏には特に灌水、秋には針金掛け等、講習会で修 得した一連の技術を実行に移すことのできるよい機会で盆栽交換会盆栽村見学もありました。盆栽棚といえば、決まった場所に丹誠こめた盆栽を置 くのに飽き足らず、愛好者が所内喫茶店や外部では中目 黒のお寿司屋に飾るようになり、お客さんの評判も良く、 店の売り上げにも貢献した？と聞いています。 一九七六年七月には研究会も発足五年目を迎え、第一 回のサッキ展を開催したところ、会員の盆歴も高まり出 品作品の質も向上し、見応えのある展示内容でした。ま た、会員外の方の立派な作品もあり、金材技研の巾の広 さを感じました。一九七七年以後、第二回サツキ展を始め松柏、雑木を 主体とした盆栽展を開催し、所内での評価も高まるよう になりました。お気付きの方もいると思いますが、所内行事のさい講堂段上に飾る盆栽は以前は貸盆栽屋さんか らのものでした。ある日、国吉氏(当時庶務係長)から 経費節約の意味もこめて盆研に協力してほしいとの要望 があり、喜んで協力したことを覚えています。その後は 愛好者の盆栽が講堂段上と所長室にも飾られるようにな り、盆栽を愛好する一人として大変光栄なことだと思い ました。最後になりましたが、つくば移転後お邪魔して感ずる ことは、立派な玄関ロビーに緑が少ないことです。現在 でも声をかければ愛好者は集まると思いますので、是非 同好会の設立を実現してほしいと思います。(環境性能研究部S33・10・1～H4・3・31)華道同好会の思い出西岡英子目黒の歴史の三分の二を過し、約四分の一世紀を研究 所と共に歩んで参りましたが、そのなかで良き友人にめ ぐまれ、入所以前より続けておりましたいけばな同好の 方々のお手伝いが出来ましたことを心から感謝いたして おります。私は昭和三十九年春に金材技研に入所し、その年の秋 には東京オリンピックが開催されました。日本経済も上 昇し始め、華道会家元の活動も海外に向けて活発に日本のいけばなを紹介するようになりました。研究会なども 各国からの参加者が出席して国際色豊かな勉強会がくり 広げられ、それには何回か出席したこともあります。 この時期から本格的におはなの勉強を始め、休日を利 用して本部の研究会や社中の研究会に毎回出席して新ら しいいけばなに取り組み、もっとも熱中した時期でした。 ちょうどその頃、庶務課におられた松浦さんが毎週管 理部長室と応接室に花をいけておられ、よく相談を受け てご一緒にいけたりすることもありました。また庶務課 の豊原さんと企画課におられた吉武さんの二人で、大会 議室のすみっこや14号庁舎屋上の階段のおどりばなど で、月三回、昼休みにはなをいけて出来上がった作品を 評し合うことを始めました。私のメモを見ますと、これ が二年以上続いており、改めて驚いた次第です。職員組合主催文化祭(S55年)昭和五十二年の秋頃、豊原さんと吉武さんが女子職員 の方々によびかけて同好会をつくることになり、十人近 い方が集まりました。厚生係の鈴木忠篤さんもこの計画に賛同して頂いて、 快よく教養室の使用を許可して下さいました。そして、 厚生係から予算も頂いて、水盤、剣山など揃えることが 出来ました。こうして、その年の十一月八日からいけばな同好会が 発足することとなりました。このようになりましたのは お二人のご支援のおかげと、心から感謝しております。 この同好会に参加された方々も辞められたり転職され たりしておられますので、ここでご紹介しますと、豊原、 吉武、丸山、飯田(鰐川)、小泉、松崎(大和田)、中村、岩並、真喜志、深沢(小河)、亀井(村田)の皆さんと、 他に数人の方々です。勉強会は金曜日の昼休みときまり、昼食も早々に教養 室に集まって、それぞれのお花に向うと一斉に鋏の音が 響き、緊張した空気の中で次々に作品が完成していきま す。花材は豊原さんと吉武さんは自由花型ですので違い ますが、他の方々は同じ花材になります。同じ材料でも 各自それぞれの個性があらわれて変化があり、楽しいも のでした。初めての方には多少のアドバイスと手直しを しているうちに全員の作品が出来上り、皆で観賞し合い、 賑やかに職場に戻って行かれる姿を見送り乍ら、何んと も幸せな気分に浸ったものでした。勉強会の内容は、花型を基本花型、応用花型、自由花 型の三つに分け、そのうち基本と応用の花型のいけ方を お手伝いいたしました。この二つの花型をしっかり身に つけますと、後の自由花型は楽に進むと考えたからです。 勉強会は約二年間続き、二つの花型が終る頃皆さんがお 花に親しみと自信をもつようになりましたので、同好会 を終了させて頂きました。五十五年十一月には職員会の文化祭があり、この同好 会の成果を発表する大変よい機会にめぐまれました。全 員が出品して、静けさの中にも華やかな雰囲気が会場に かもし出されたことを今でも忘れることが出来ません。 そして、それぞれの立派な作品を通しておはなの持つは かり知れない美しさを理解して頂いたものと、ひそかに 喜んだものでした。筑波は四季おりおりの草花にめぐまれていて、大変う らやましく思います。東京の街かどの花屋さんでは世界 の花を見ることが出来ますが、日本の四季を知ることの出来ないのを大変残念に思っています。同好会でおはな を通して得られた友情とおはなに対する愛情を、これからもそだてていくことが私のささやかな望みです。 (庶務課S39・ 5 ・1～H元・ 3・30)尺八同好会宮代 寛昭和五十五年四月、尺八同好会「講尺」は、故信田茂 雄(初代会長)、魚津良雄、宮代寛を発起人として、尺八 の音色に魅せられ、古典楽器である尺八に興味を持つ十 四人の会員によって琴古流の末流として発足した。 発会当初は、尺八を見るのも吹くのも初めての会員ば かりで、音の出し方や楽譜の見方など、練習(稽古)の 方法一つをとっても苦労の連続でした。また、本物の尺 八は大変高価なためなかなか手に入れることができず、 最初のうちは魚津の考案した塩化ビニール管製の尺八で 練習していました。この塩化ビニール管製の尺八は材料 費もかからず新たに尺八を始める人に好評で、この尺八 が欲しいだけの人もいました。その後、この塩化ビニール管製の尺八では物足りなく なった会員数人で、比較的安価な楓製の尺八を購入する ことになり、新宿の邦楽器店に出かけ、帰りに杯を上げ 志を新たにしたものでした。尺八も揃いやっと練習が始まりましたが、練習するた めの良い場所(室)が無く、尺八を抱えて所内を右往左 往の毎日で、練習できそうな室を探し廻りました。練習は、会員が他の運動部などに所属していたため忙しく、 討論の末、全員で行う合同練習は毎週木躍日の昼休みに 行う事にし、その他の練習は各自で行う事にしました。 そこで今度は練習場所の選定でありますが、あまり騒 音を外部に漏らしたくないとの配慮の結果、高橋旦征さ んにお願いして昼休みだけ実験室 (34号庁舎一階、発光 分析室)を借りることにしました。練習時間の前半は唄 (民謡)、後半は尺八の練習をしました。この時、いくら か外に漏れた音で苦情がでたり、励まされたりしました。 最初の頃の練習では、音を出そうとするあまり酸欠(酸 素過多？)を引き起こし、失神寸前の状態になることも 度々でした。何回かの練習を積み重ねた結果、音も出る ようになり、やっと音楽らしくなってきたところで、丁小諸馬子唄新年会度組合主催の文化祭があり、大会議室で大勢の所員の前 で演奏する機会がありました。この時、「草津節」と「真 室川音頭」を合奏しましたが、全員あがってしまい音が まともに出ず、人前での演奏の難しさを痛感した時期で もありました。昭和五十七年七月には、現代尺八のプロの演奏家であ る岡本樹憧氏の好意によって大会議室で演奏会を開催す ることができました。みんながその時の演奏に感銘し、 改めて尺八の音色を見直し、それからの練習に意気込ん だものです。「講尺」の最大の行事は、新年会を兼ねた発表会でし た。人に聞いてもらうのが上達の早道ということで、発 表会を開催することにしました。平日の夕方、教養室(日 本間)や34号庁舎二階の設計試作室を借りて行ったもの です。ここでは尺八の合奏(連管)から始まり、一年間 練習した曲を一人づつ演奏し発表しました。その後、ア ルコールが適当に入った頃、三味線、尺八の伴奏で唄(民 謡)の発表があり、特に菅広雄現会長が唄う秋田なまり の民謡は好評で非常に盛り上がりました。 発表会には尺八や民謡に興味ある人を(ない人は強引 に)飲み放題、食べ放題を唱い文句にして招待して、会 員の演奏を聞いてもらいました。一通り発表が終わると 後は唄の飛び入りがあり、会員ばかりでなく招待者も含 め深夜まで唄い飲み続けるなど、帰宅できなくなること も度々でした。また、ある年の忘年会をスナックで開いたときは、宴が盛 り上がった頃、そのスナックでパーティーを開いていた 大勢の女子大生の前で持ち込んだ尺八を演奏し、拍手喝 釆を浴びた事など数多くのエピソードが残っています。 平成四年の新年会では中国から第五研究グループへ留 学中の馬敏雅さんに出席していただき、中国語、日本語 で「四季の詩」や「北国の春」を、尺八の伴奏に会わせ、 唄ってもらったことが思い出されます。馬さんは声楽を 本格的に勉強されたとかで、尺八の演奏を引き立てるの に十分なものでした。この「講尺」も、発足から十四年たちました。練習し た曲は入門曲の「木曽節」に始まり、いまでは難しい「秋 田馬子唄」までの四十四曲に達しました。この十四年間 の成果としては、素人集団から発足した「講尺」にとってはまずまずの活動結果だと思います。今後の活動としては、筑波のセンタービル内のノバ ホールで満員の聴衆を集めて演奏会が開けるように練習 に励み、収支が黒字になるようにしたいものです。と言 うのはちょっとオーバーですが、地に足を付け、末永く 「講尺」を存続させていきたいものです。しかし、現在 は筑波移転に伴い目黒地区の会員との分散や練習場所の 確保など、問題が多く残されていますが、これを機会に、 筑波における会員の増強、発表会等の拡充をはかり、古 典楽器を代表する尺八を見直し、「講尺」の輪を広げてい きたいものです。発足以来「講尺」に入会している人、一時的にも「講 尺」の門をたたいた人、足をとどめた人達の名前を順不 同で記してみました。また、最近の新年会のプログラム を最後に記します。信田茂雄 本山一義 菅 広雄 門井 稔 山内 功 川崎要造 高橋旦征 大橋重雄 ��方政行 後藤建次郎 栗原敏夫 中村博昭 宮代 寛 魚津良雄 小黒信高 福島 孟 植竹一蔵 古山貞夫 田中正博 柴田美智男 鈴木俊一 奥山秀男 吉岡孝之 園田 秀人 渡辺健二プログラム(新年会) 平成四年一月三十一日第一部尺八演奏一 花笠音頭 同好会一同尺八連管(合奏) 二北海盆唄 古山貞夫 三コンドルは翔んでいる 魚津良雄 四南部酒屋もと摺り唄 奥山秀男 五江差追分 大橋重雄 六お立ち酒 高橋旦征 七秋田追分 宮代 寛 八通りゃんせ 魚津良雄 九ドンパン節 古山貞夫 十稗搗節 同好会一同 第二部唄十二南部牛追い唄 宮代 寛 十三佐渡おけさ 大橋重雄 十四北国の春 馬 敏雅 十五四季の歌 馬 敏雅 十六酒屋唄 奥山秀男 十七刈り干し切り唄 高橋旦征 十八生保内節 菅 広雄 第三部飛び入りコーナー門井 稔 田中正博 ��方政行 小黒信高 後藤建次郎(研究支援室)バロン会魚津良雄わずか三百円で飲み放題・食べ放題、あげくに予想ま でバッチリ聞けるという、およそ天国にでも行かなけれ ば味わえないような同好会がありました。 しかも、この同好会に集まる顔ぶれがこれまた異様 (？)な感があり、第三者からみたら『馬を論じる』よ うな者の集まりにはとても見えなかったようです。 毎週金曜日の夕方六時頃になると朽ち果てそうな34号 庁舎の二階に集まり、土曜日のメインレースと日曜日に 大きなレース(ダービー、天皇賞など)があれば、大き な黒板の表と裏を目いっぱい使って、各人がそれぞれ独 断と偏見のかたまりのような予想を行うわけです。なに しろ競馬にはドシロウトの人が多く、予想は常識をはる かにこえ、まずありえないようなことをもったいぶ って 論じたり、この人がよくもまあ、まじめくさってよう言 うわいというようなものばかりです。「変チクリンな名だから」とか、「気になる名だ」とか、 「かっこいい名だから決めた」などという他愛のない理 由で馬の名で選んだり、「明日は四月八日だから4―8に しよう」とか、「今日はオレ好みの美人が電車に乗ってい たからメス馬が勝つ」とか、「今、トイレへ行ってパッと ヒラメイタゾ、3―3のゾロ目だ…」 ま、予想というにはほど遠いのが多かった。が、二～三 人評論家として立派にやっていけそうな人がいて、格・血統・最近の成績・調教などから理路整然と予想をする ので、聞いていると「ナルボド！」と感心させられ、本 当に来そうな気がしてくるから不思議です。この人達に 共通しているのは、この馬だけは絶対に来ないと自信を もって消した馬に限ってよく来たようです。 アルコールがほどよく入ると、どの顔をみてもみんな 幸せそうになり(こういう馬鹿が出来れば病気にならな い)、金曜日の夜は楽しく更けてゆきました。 このバロン会には月間賞と年間賞があって、月間賞に は立派な賞状(文章の内容は人をこきおろす？ような皮 肉たっぷりなものが多かった)がもらえ楽しかった。年 間賞は、技術課の棟梁M氏にお願いして楯を作ってもら い、日本中央競馬会の本部まで行って中央のレースに出 走したサラブレッドの蹄鉄をもらってきてハメこみまし た。その当時は競馬がそれほどのブームではなかったの で、頼むと蹄鉄をくれたものです。新馬、特別と二連勝 した馬の蹄鉄もあったが、残念ながら名馬の蹄鉄はどう してももらえませんでした。この楯が予想外に格好よく 様になっていたので、部外者から注文が多くて閉口しま した。実地見学と称して府中競馬場へみんなで出かけて行っ たり、目黒競馬場発祥の地を探しに行ったりと、思い出 は尽きません。目黒で発足、スタートしたバロン会は、目黒で終って しまいました。まさに目黒の思い出になってしまい残念 な気がしますが、バロン会に入っていた人達の心にはい つまでも目黒の思い出が尽きることがないでしょう。(研究支援室)あれも思い出、これも思い出フランス鉄鋼研究所(IR S ID)留学記海外留学第一号の思い出舟久保𤋮康パリ到着昭和三十三年五月末、ダービーに湧く羽田をあとにし て、生れて始めての外国旅行に旅立ちました。途中アン カレッジ空港でジュース一杯の無料サービスのあと、翌 朝早くオルリー空港に着きました。空港には当時、パリ日本館の館長をしておられた東大 第二工学部の菊池眞一先生がわざわざお迎え頂き、無事 にパリに入ることができましたが、当時フランスはアル ジェリアから手を引くという歴史の大転換の真最中で、 到着した日の朝も、この決定に不満なアルジェリア駐在 の空挺部隊がオルリーにパラシュート降下するという噂 があり、その緊張の真只中に到着したとは思いもよらず、 びっくりしたのを覚えています。この抗争はその後の三年間にわたる在留中もだんだん に尖鋭化し、一般市民もまきこまれたピストル射撃事件 等が発生しましたが、ある時、コンコルド広場の車の渦 の中で動きがとれないでいた時、ヒョイと隣りの車をみ ると銃身の長い銃を握った三人の背広姿の若い男が身を のり出して前を凝視しているのを発見し、度肝を抜かれ たことがありました。I R S I Dフランスの鉄鋼研究は長い歴史的な伝統を培ってき、その輝かしい業績は世界的にも知られている通りです。 そのフランスの鉄鋼研究を世界のリーダーとしようと いう熱意のたかまりの中で、IRSIDを創設する計画 は、第二次大戦直前すでに出来上っていたのですが、実 際に陽の目を見たのは昭和三十年をまたねばなりません でした。フランスには珍らしい、鉄鋼業界を打って一丸 とした共同出資の研究所はそれ迄にたまっていたエネル ギーを一挙に吐き出した形で、パリ西郊の景勝地St  Ger-  main―en―Layeの地に素晴らしい建物、施設と、同国一 流の研究者を擁して開設されました。パリはSt  Lazardの駅からゴットン電車に乗ってセー ヌを渡り二十分、お城の横の終点の駅から一時間二本の バスで十分、後ろにアメリカンスクールと米軍宿舎を抱 えた松林の中に新しい歴史を画した鉄鋼研究のメッカが 誕生したのでした。私の面倒をみていただいた研究部長のCrussard博士 は新らしく発展し始めた転位論の第一人者で、その下に Philibert, Pomey, Saada等々優秀な若手研究者が集っ ていました。私が直接指導をうけたColletteさんは内部 摩擦の新しい装置を作ったばかりで、私はその下で純Al と純Cu単結晶の内部摩擦の研究をやることになりまし た。微妙な減衰振動を測定するため昼間は実験できず、毎 晩午前二時から始めましたが、パリ近郊の冬はマイナス 十五℃と厳しく、仕事で研究所に通う私はともかく、防 寒外套に身を包んだ守衛さんが毎晩のように守衛所から わざわざ降りてきて門を開けてくれたのには本当に恐縮 しました。試験片の準備等はLoridan,  Quennevaと二人の若い助手が手伝ってくれましたが、二人共茶目っ気十分で、お 互いに毎日かついだりかつがれたりの愉しい生活でし た。研究所生活二人の助手は勿論、Crussardさん、Philibertさんその 他数え切れない程多くの人が自宅によんでくださり、今 も楽しい思い出となっていますが、フランスのくらしの 中に溶けこんでいくのに、この御招待は本当に有効だっ たと感謝しています。こちらも、それと同じ位御招待したのですが、何しろ 留学生の身ですから大した御馳走が準備できず、Crus-  sardさんをおよびした時は、お刺身からお吸い物迄全部 鯛一匹ですませ、さすがに奥さんが、アレまた鯛と云わ れた時は当方も返答に窮し、鯛は魚の王様だからと苦し い云い訳をしたものでした。研究所に到着した日に面接されたCrussardさんは私 が新婚一ヶ月の単身赴任だと知って大いに驚き、私の知 らない間に研究所が飛行機の切符の手配をして家内を呼 び寄せてくれました。飛行機代はそれから三年がかりで 月賦で返済すればよいという事でした。その後今日迄自 分の立ち場でできる限り、外国の若い人を日本に、日本 の若い人を外国に送る仕事をしておりますが、その動機 の大きな部分は、この思いがけない御親切への感謝にあ ります。時には、同じ町の全然知らたない人から夕食の御招待 をうけ、行ってみると日本大使館から借り出した日本文 化紹介のフィルムを見せてくれるということで、御近所 の人達多勢と一諸にお招きをうけました。御本人は日本と何の関係もないのですが、こういう善意が知らないと ころで行われていることに強い感銘をうけたものでし た。当時フランスは、戦後立ち戻った平和と復興と、そ れに欧州のリーダーとしての認識がすみずみに迄浸透し 活気に溢れていました。アルジェリア撤退の苦悩をかか えながらも、当時流行ったクワイ河マーチの軽快なメロ ディに乗って軽やかに、羽のようにという印象でした。 フランス鋳物研究所のBlanc所長もこの町に住んでお られ、その御縁でお宅にも研究所にも何度も御招待をう けました。Blancさんは日本語の勉強に熱心で、日本から の留学生受け入れを熱望し、そのおかげで西島君が御厄 介になりました。青い鳥を探して当時日本は創造性論議が盛んで、オリジナリティとは どんなものかを調査に行こうという調査団が海外に沢山 出ました。海外渡航は厳しく制限されていた時代ですか ら、この種の調査団は余計に人気があったのかも知れま せん。鉄鋼はもとより自動車、建築、その他沢山の産業 の共同視察団が陽気のよい秋口等、一日おきに五週間に わたってこられ、流石に音をあげたこともあります。何 しろ花のパリ郊外の新設の研究所ですから、どの調査団 もここを見逃す訳にはいかなかったのだと思います。そ れにしても、オリジナリティの見本の研究を見せてとい う註文には閉口しました。フランスのオリジナリティと いうイメージは当時広く関心をもたれていたのですが、 そのサンプルを鳥籠にいれて持って帰る積りだったので しょう。青い鳥は今も元気かどうかが気になります。四十年あれから四十年近い月日が流れました。留学で一番気 になったことは、第一回の留学生に続いて、継続して採 用してくれるだろうかという心配でした。三年の泣き笑 いを無駄にしたくないという思いと共に、私の存在に対 する評価を問われたことでもあり、その後続いて新日鉄 から戸来君が行くことに決った時はホっとしました。そ の後多くの留学生が世話になりましたが、先方からは Collette君が一年間当所にこられ数々のエピソードを残 しました。IRSIDと日本の製鉄三社との年次ミー ティング創設に蔭ながらお役に立つこともでき望外の幸 せでした。三年前、Pomeyさんのお宅に呼ばれました折、 あんたがこのmeeting実現に働らいてくれたことはもう IRSIDでも誰も知らなくなったと云われました。実 際、当時お世話になった研究者も事務の人達も、皆リタ イアしてしまいました。かくして日はめぐり時は流れて、 歴史の一コマが過ぎて行こうとしています。往時を振り返り、思いもかけず留学の夢を実現させて いただいた、菊池先生、橋本宇一初代所長、戸部管理部 長始め沢山の方々の御好意、御支援に改めて感謝の念を 捧げる次第です。今回菊池先生の後を継いで日仏工業技 術会の継続、発展のお世話をすることになりました。せ めてこの仕事を通し、フランスとの交流の発展に微力を 注ぎたいと思っております。パリ西郊二十キロ、パリのベッドタウンとなり、セー ヌを越えてサックレケエルの白いドームが望見できるサ ンジェルマン・アン・レイの緑の濃い静かな杜も、高層 アパートで城壁のように囲まれたモダンな町に変貌しま した。パリからは地下鉄がヂカに乗り入れ、昔乍らのケー キ屋さんも姿を消しました。しかし、この町のさらに西の外れに、IRSIDは四 十年前の実現への熱い想いを胸に、伝統あるフランス金 属研究のメッカとして、明日に継ぐ努力を続けています。 (材料強度研究部S32・10・1～47・3・31)防衛庁丸池での水泳河村和孝金材研に就職した頃、大池の右側にある目黒川沿いの 丸池は進駐軍(オーストラリア軍)がプールとして使っ ていたらしく水は綺麗で、塩素ガスで消毒した形跡も見 られ、中心部には飛び込み板もあった。このような光景を目の当りにして、ここで泳ぎたいと思っていたのはど うも小生だけではなかったようである。「今日はどうする？」夕方五時近くなると室長から声がかかる。「行きましよう」と答えて、作業衣の下に水着、腰にタオルの出で立ちで 金網のフェンスを乗り越え、準備体操をしながら、水に 入る前の一寸した緊張とその後の水泳を楽しんでいた。 初めのうちは水は満々と満ちており、底を確かめるため 潜ったところ相当に深かったことを覚えている。ただ防衛庁丸池一ヶ所ボイラーからの蒸気配管口 (或は水の注排水口で あったかもしれない)近くは溝になって背も立ち浅く、 一泳ぎしたあと、よくそこで一休みした。 聞くところによると、海軍は艦船の研究をするため冬 にはボイラー(戦艦金剛の改装前のもの)を炊いて二十℃ 近くに丸池を暖めたとのことである。やがてきびしく注意し続けてきた防衛庁の守衛さんも 諦めたらしく、おかげでほとんど連日自由に水泳を楽し むことができた。しかし丸池の環境は段々と悪くなって きた。水が蒸発して水位が低くなり、底には藻やらゴミ がたまってくるようになってしまった。それでも水深が かなりあったため上澄みは綺麗であったし、特に雨が 降った後は、泳ぎ始めた頃と同様快適であった。 更に日が経つにつれて水深は更に下がり、又ゴミも多 くなり、丸池の環境は益々悪化していった。くだんの室 長いわく、「もっと静かに泳げ、ゴミが舞い上がるではないか」 それ以後水面に平行に体を寝かせて泳ぐとともに、顔 を水につけないように心掛けた。それから二十年、小生学生を連れての見学旅行最終日、関西電力美浜(原子力)発電所で、ばったり部長(前室 長)にお目にかかった。「いっちょう泳ぐか」と誘われたので、引率の学生に向かって「見学旅行はここで終了する」と宣言し、早速部長の逗留先の宿で水着に着替え美浜の 海に入った。美浜の海は太平洋岸では見られない程青く、 そのため非常に綺麗に見えた。発電所は岬の先端にあったので、われわれから見ると 入り江になっていて、入り江口では発電所が冷却用とし て海水を多量に引き込んでいるためか、ゴミよけの網が 張られているばかりでなく、発電所に向かって流速がか なり速くなっていた。ともかく入り口を横切って対岸ま で泳ごう、帰りは発電所にかかっている橋を渡って帰れ ばよかろうと云う軽い気持ちで泳ぎ始めた。 ところが対岸について驚いた。そこは放射線の管理区 域になっており、まさか裸で歩きまわるわけにも行かず、 体に鞭を打ちつつ同じコースを泳ぎ戻る羽目になってし まった。(金属化学研究部S33・4・1～47・7・31)金材技研の思い出国吉昭一郎私の三十六年有余の務めの大半である二十五年余りを中目黒の金材技研で務め終えたことは、なんと言っても 最大の「思い出」であると思います。その長いあいだに は、いろいろのことがありました。一年を通じ花見や記 念パーティーなどには、材料の仕入れ、調理、盛りつけ など楽しいながらも苦心しました。皇太子殿下(現天皇陛下)の金材技研ご視察のおりは、 なにぶんにも初めての経験であり、庁舎内外の清掃、備品什器類ならびにお飲みものの準備、ご接待の要領など 無我夢中で、無事に終ったときは、本当に安堵しました。 あるときは、酔っ払い、泥棒の侵入により、侵入の経 路、被害の状況等専門家なみの調査など、いかにしたら 不法侵入を防げるか苦心いたしました(のちに機械警備 に移行)。創立十周年記念行事のとき、「椅子」を「石」と聞きち がえて持って行ったことや、鞴祭りによばれ、若さとア ルコールの勢いでボイラーの高さ四十五メートルの煙突 に登ったことなどの思い出もあります。今思うと無茶なことをしたと後悔すると共に、再度登ることもなく、ま た見ることも出来なくなると思うと残念に思います。 金材技研の筑波移転に伴い、中目黒の残された建物、 設備等がどのようになるか計り知れませんが、せめて建 物、設備の一部なりでも残されれば今後の思い出になる のではないか思われますが、その願いもかなえられるか どうか。最後に皆様方のご健康と金材技研の発展をお祈り申し 上げます。(庶務課S34・5・1～59・12・31)靖心寮の思い出小 川 弘靖心寮といっても、場所を換え建て替えられた現在の 靖心寮と、すでに取り壊わされた旧靖心寮があります。 私がお世話になった寮は旧靖心寮です。この寮は昭和三十八年三月、化学・腐食実験庁舎の南 側、目黒川沿いに工員寮として一棟八室(二人部屋)が 建設され、当初十六名が入居、同年十一月特殊勤務職員 宿泊施設の名目で獲得した子算をもって二倍に増築、総 員三十三名が入居できるようになりました。総工費四百 五十万円、延面積は八十坪の建物です。私は最初に入居できた一人ですが、この時ばかりは、 〝特待生試験に合格〟したような気分でした。と言うのも、当時の私達の給与は高卒初任給が約一万二千円、大 卒で一万六千円位、そして民間アパートの賃貸料は一畳 千円が相場でした。因みに私が当時借りていた部屋は民 家の離れの粗末な一室、風呂など言うに及ばず炊事場ナ シ、トイレ・洗面所はサンダルを履いてトコトコ歩く。 それが何と五千円でした。寮が建設され部屋代はただ同 然。私たちがどんなに喜こんだかお分かりいただけると 思います。さて、旧靖心寮とは一体どんな建物だったのか、そし てこの中で寮生はどんな日々を送っていたのか、三十年 前を思い起こしてみるのも一興です。 靖心寮は、木造モルタル、二階建、アイボリーのいか にも寄宿舎そのものの建物でした。そしてこの靖心寮と する名は、寮生が清く安らかな心を持てるようにとの願 いから、橋本初代所長が名づけてくれたものです。長い 間玄関前に掲げられていたあの靖心寮の看板は、橋本所 長直筆のものです。靖心寮の居室目黒川対岸から見た靖心寮.リバーサイドマンションなどと皮肉られていた。それでは先ず、今は影も形も無い靖心寮の 在りし日の姿のご案内から始めましょう。 硝子扉を開けると一坪ほどの玄関、ここには 各自の下足箱。玄関を狭んで左右に廊下、廊下 の目黒川側に二人部屋の居室が八室、二階にも 八室がある。部屋の広さは三坪(当時は「坪」単位なので す)、部屋の中央部分が一 ・五坪の板の間、両側 には床から三十センチ位の高さのところにタ タミ一畳が敷かれている。これがベットになる のです。ごく普通の人は毎日布団の上げ下ろし をするが、合理的(？)な人は一年中ベットの ままです。ベットの下は空洞になっているので いろいろな物を突っ込んでおけます。 居室のほかは、一、二階に水道蛇口とガスコ ンロ二台のいかにもシンプルな炊事場。玄関右 側に洗面所とトイレ。トイレの前には、寮唯一 の文明の利器、洗濯機があります。右手の廊下 を奥へ行くと十畳間の和室、ここは寮生の談話 室です。言わずもがなですが、この部屋は間も なく一部の人の「雀荘」になりました。 思えばこの談話室で最初に入居した寮生十 六名による初めての集会を開き、寮長を選び、 さらに寮の運営などについて話し合い、「共同 生活であるので、他の人に迷惑をかけないよう にする」ことを約束した。これが寮内規の基本 理念なのですが、いつしか風化していったこと も事実です。それでも二～三年は平穏無事な 日々が続いていました。寮生の顔寮生の三分の一は夜間大学へ通っていました。平均年 令は二十一歳と記憶しています。当時私は寮長というこ ともあり、日常生活の中でそれとなく寮生をながめてい たのですが、人それぞれ個性があって実に楽しいもので した。・寮に帰ると、いの一番に、そうです、電灯を点ける 前にラジオを点ける人・いつも暗い部屋で考え事をしている人・出勤前の〝おぐしの手入れ〟に三十分以上もかける人・ミシンを見事に使いこなし、下着の綻びまで繕う人 ・ヒマさえあれば何か料理し食べている人 ・狭い部屋いっぱいに家具を並べている人、反対に何 も無い人・部屋の壁一面にタバコの空箱を並べて悦に入っている人・夜遅く帰ってきて灯りのついている部屋を捜し、〝今 日の出来事〟を報告して歩く人 などなど私には走馬灯のように、あの靖心寮生の人間模 様が思い起こされるのです。ワリカン寮生が一諸に飲み食いしたときは割り勘です。十二月 のボーナスをもらい寮に帰ったとき、仲間の一人が寿司 を食べにいこうとのお誘い。五～六人が揃い、意気揚揚 と寮を出た。着いたところは中目黒の寿司屋だった。暖 簾をくぐったら、「へェーいらっしゃい」と店主の威勢のいい声が我々を迎えてくれた。いつもな らテーブルに席をとり、それぞれが〝一人前〟を頼むの だが、この日は皆当然のようにカウンターに陣取った。 「ヨーシ、今日は一つ上等なヤツを食べることにしよ う」と誰かが言った。これがいけない。割り勘なのだ。割り 勘では己れは決して損をしないのです。「トロをお願いします」「こっちもトロ」「オドリ」「おい！ オドリって何だ」「生きているエビだよ」「じゃ、ボクも」「アワビ」「アワビ…」「ウニ」「こっちも」と注文が飛び交う。正に寿司食い競争です。 いよいよ勘定です。ところがこの「勘定書き」を見て 一同はオロオロ(勿論我輩も)。 ナントいつもの二十～三 十倍の料金なのです。皆、黙り込み、ポケットから財布 を取り出し割り勘。店を出て発起人(？)のY君、 「マイッタネー」他の者はショックで声もでない。寮へ帰り着くまでの 十分間、重い足取りで誰も無口。寮の玄関でお別れ。力 なく、「じゃあね」「おやすみ」その夜仲間達がどんな夢をみたのか、私は知らない。東京オリンピック昭和三十九年の秋、日本中が東京オリンピックで沸き 返っていた。私達寮生もご多分に漏れず、オリンピック の開会前からメイン会場である代々木競技場に何回とな く足を運び、浮かれていました。でも残念ながら、競技 を見るのは専らテレビです。当時はモノクロだが、我が 靖心寮で、テレビを持っている人は僅か三～四人。テレ ビのある部屋はいつも超満員でした。部屋の主が居ようが居まいが、また、時間は何時であ ろうと一切おかまいなし。テレビ画面にオリンピック競 技が映し出されている時は、すべての財産が共有になる のです。そして寮生の気持ちは一つになって燃え上がっ ているのです。東洋の魔女と言われた女子バレーボール チームなど、多くの種目での日本選手の活躍。その一方 で、全階級制覇を狙った柔道の神永選手が無差別級でオ ランダのヘーシンクに敗れる波瀾もあったが、どの試合 にもドラマがあった。そして熱い思いが残った。 寮生活があればこそ、大勢の仲間達のあのすばらしい 感動を分かち合うことができたのです。A君倒れるある朝、寮内を衝撃が走った。A君が体の調子が悪く 起き上がれないという。虚脱状態のようだ。二日酔いだ ろうと言う人もいたが、A君は寮生の中でも一番の真面 目人間で酒を飲む姿など誰も見たことがないのです。仲 間が東京共済病院へ連れて行った。昼頃、報告が入った。それによるとA君は、栄養が片寄っているので二～三日入院した方が良いと言われたと のこと。連れ添った連中は、「A君は何を食べたのだろう」 と心配している。どうやら「栄養が片寄っている」の意 味が分からなかったようだ。何んのことはない栄養失調 だったのです。しかし私達寮生は全員金材研食堂を利用しているのに 何故A君だけが栄養失調になってしまったのだろうか。 その後聞いて分かったのですが、A君は大学の学資のた め、食事はいつも寮に帰りインスタントラーメンを食べ ていたのです。このことは以後、寮生にとって大変良い教訓になった ことも事実です。南京虫騒動朝起きると寮内がいつもと違ってやけに騒々しい。ど うやら寮に変な虫がいて、何人かが体のあちこちをささ れたという。当事者たちの情報によりはっきりしたこと は、さされたあとが二つついているということ。寮生の 物知り博士いわく。「それは南京虫だよ。トコジラミとも言うが、ヒトや家蓄の血を吸って生きているんだ」とのこと。しかし一体、何故、いまトコジラミなのか。再び物知 り博士、「建物に使われた材木の割れ目に潜んでいたのが温度 の関係で出てきたか、あるいは誰かが外から持ち込んだ 古本に紛れていた可能性がある」 何れにしても清潔な我が靖心寮に出てくるには二～三 年(？)早い。迷惑な奴だ。一網打尽にしてくれるわいとばかりに我々は一斉にバルサンを焚き退治し、一件落着。寮が火事二月、底冷えのする日が続いていた。私は当時昼夜を 問わず推理小説を貧り読んでいた。午前二時頃、部屋の 炬達の中から煙らしきものが出てきた。夕方洗濯をし、 乾かしているくつ下かなと思い炬達布団を持ちあげてみ たが異常なし。でもどうもキナ臭い。変だと思って良く 見ると床から煙が出てくるではないか。突然の絶叫、「火事だ！助けてくれ！」びっくり仰天、私は相棒を起こし大声をあげながら一 階へ駆け下りると、炊事場の隣りの部屋から煙。中へ入 るとベットのカーテンと押入れ周辺、さらにその天井部 が燃えている。何人かが集まってきた。電話は無い。一人は守衛所へ 走り、数人の者が外の消火栓へと走った。他の者は水を 運ぶため、炊事場と洗面所へ急いだ。私は隣りの炊事場 の消火器を抱え再び部屋へ戻り消火器を放射。そして二 階の私と隣りの部屋のべットの下に水を撒くようにだれ かれとなく怒鳴った。「火勢は衰えてきた」と思ったその時、突然の爆音。 今度は窓側から猛烈な火の手が上った。何かのスプレー が爆発したようだ。度胆を抜かれた。「これまでか」と締 めかけたとき、誰かが長グツをはき、大きなバケツを持っ て勢いよく飛びこんできた。「コノヤロー！」気合もろともスプレー缶を目がけバケツの水を放り投 げた。燃え上がるスプレーは見事目黒川へ落ちていった。火勢は一気に衰えた。正に間一髪だった。こうして、寮生の一致団結した働きにより火事は大事 に至らずに済んだ。そこへ間もなく消防自動車が到着し た。消防自動車から、何故か火の消えた寮の廊下へ放水 された。火事の原因は、暖房用に使っていた電気コンロから ベット脇のカーテンに引火したものらしい。火事の後日談翌朝、寮長の私は庶務課長と会計課長に厳しいお叱り を受けたのですが、この時の状況説明において、寮の消 火器二個のうち一個が機能しなかったことと、屋外消火 栓からは水が出なかったため我々は消火に苦戦したこと を報告すると、その後のお話は急にお穏かになり、私の 髪の毛が焼け縮れたことを頻りに心配してくれたことを 良く覚えています。この火事騒ぎについて、もう一つ報告しておかなけれ ばならないことがあります。あの〝火事場のバカ力〟が ここでもあったのです。二階の非常口側の部屋のM君が、何んと洋服ダンス(勿 論本人の物です)を一人で一階まで運び出したという事 実です。「みんなが火消しに必死になっている時に ………」などと、ヤボなことを言うのは止めておきましょ う。寮が傾いた靖心寮が建設されてから七～八年経った年の冬、寮の 硝子窓の開閉が思うに任せない状態になった。建物が傾 き、各部屋とも窓枠が歪んでしまったのです。透き間がひどく、冷たい風が容赦なく吹き込むため、寮生は仕方 なくガムテープを張るなどして風を防いだものです。 そもそもこの寮は、目黒川沿いの崖崩れを防ぐために 設置された擁壁の内側を埋め立てて建設されたものであ り、地盤が軟弱なことは当然で、こうした事態は予測で きたと思うのだが〝後の祭り〟。金材研は建設省と相談し、 目黒川側から寮に何本かの突っかえ棒を立てたのです。 しかし寮がこれで立ち直るはずはない。寮生の中には飲 み干した酒瓶、ビール瓶が独りでにコロコロ転がるのを 見て子供のように楽しんでいる人もいました。数年後、我が靖心寮は取り壊しとなったのです。靖心寮に入居した人の中には、私のように十年近く長 居した者もいれば、短期間の人もいます。そしてその思 い出は人それぞれちがうことでしょう。靖心寮を飛び立っていった人達は今、研究所の第一線 で活躍している人、民間会社へ転職した人、地元の中学 や高校で教鞭をとっている人など様々です。皆さんの 益々のご発展をお祈りします。(企画課S35・5・16～25・2・1 S59・11・1～63・ 6 ・15)昔、目黒には池があった宮崎秀子一九九四年の金材技研の要覧を見ると、表紙の裏の目 黒地区には青々と水をたたえた大きな池のある写真が 載っている。しかし、一九九四年にはこの池は存在していない。多種多様な植物、動物、そして人間が慣れ親しんだこ の池の思い出をここに文章として残すことで、実際に池 を見ることができなかった人たちにも、金材技研の目黒 地区の歴史の中の一ページとしてこの池のことを記憶に とどめて欲しい。この池の歴史は、防衛庁第一研究所の実験池から海軍 の実験池へとたどることができる。ここでは池の生い立ちを調べることはしないが、人工的に作られた池であっ たことは明らかである。しかし、池の縁にコンクリート 製の満水時の排水溝があっただけの、ほとんど自然のま まの池であった。私が入所した時(一九七四年)からしばらくの間は、 この池には上水が引かれていたので池は常に水を満々と たたえていた。ところがその後、上水は水路の決壊事故 のために止められて、池の水の供給源は雨水のみになっ てしまった。いつの頃からか池には多量の水草が生えるようにな り、その対策として草魚が放たれた。池には五～六匹の 鯉がいたが、草魚の繁殖力は想像以上で、あっという間 に二 つ三つの草魚のコロニーができあがっていた。この ころには水草は草魚に食べ尽くされ、バランスのとれた 生態系ができつつあったのだと思われる。 そして池の周りには枝垂れ桜の幼木が植えてあり、そ れが濃いピンクの花を付けだしていた。池を取り囲むように葦が茂り、シロツメグサが自然のままに咲き、名も 知らぬ雑草が青々とした絨毯を作っていた。池の周りは 散歩をする人、ジョキングをする人にとっては最高のコ ンデションをそなえた遊歩道となっていたのである。 以下に描写する各季節の一コマは、このような金材技 研の職員と池との蜜月の期間におけるものである。 春になるとまず目を奪われるのは、池の縁に沿って植 えられた枝垂れ桜の紅色の花である。木自体はまだ人の 背丈を少し超える程の大きさであるが、濃いピンクの花 はしっかりと妖艶で成熟した美しさを感じさせる。そし てそれに少し遅れて真っ白な山桜の花が咲き乱れ、季節 は初夏へと移っていく。夏になると、職員の楽しみは葦を刈り取って草魚に与 えることである。その名が示すように、草を食べる草魚 はあっと言う間に葦に群がり固い茎でもバリバリと食べ てしまう。まるで爪楊枝のように葦の茎を口にくわえて 泳ぐ草魚は職員の笑いを誘った。草魚は葦の他にもその 辺に生えている草は何でも食べた。試しにドクダミを投 げ入れてみると、草魚は何事もなく食べ尽くしてしまっ た。「草魚の胃の調子が良くなったかも」と誰かが冗談を いったのが記憶に残っている。そのころは、昼休みにパン屋からパンの耳をもらって きて魚たちに与えていた。鯉に食べさせてやりたいと 思っても、草魚たちの動きは素早く鯉はなかなか食べる ことができなかった。そこでまず、草を投げ入れて草魚 を一ヶ所に集めてから、鯉にパンを投げてやるという作戦がとられた。しかし、鯉も草魚につられて行ってしま うので、この作戦はうまく行かなかった。 秋になると目を引くのは、二十四号庁舎の壁にからみ ついた蔦の色づいた葉と池との情景である。五十号庁舎、 五十一号庁舎の窓から見る池の青と蔦の煉瓦色のコント ラストは、まるで風景画のようであった。 そして冬になると池には来訪者が続々とやってくる。 なかでもカモとユリカモメは二大勢力であった。野鳥も 冬は餌が少なくなるのか、池の周りにやってきてはパン くずをついばんでいた。厳しい寒波で池の表面が凍った 時には、カモやユリカモメがヨチヨチと氷の上を歩いて いたのが印象に残っている。池がなくなっても記憶に導かれて彼らはやってきた。 けれども羽を休める場所もなく、目黒川のよどんだ水面 に浮かんでいたのを悲しい思いで見なければならなかっ た。人間が作った池を人間の都合で埋め立てたのだから、 文句を言う筋合いはないかもしれない。しかし池は確実 に野生の動物や植物の生息地になっており、それを人間 の一方的な都合でなくしてしまったのはあまりにも人間 至上主義的な考え方ではないかと思う。 ともかく池はなくなってしまった。けれども私たち職 員にとって青々と水をたたえた池とその周りの庁舎は、 中目黒の金材技研の原風景として永遠に胸の中に残され るであろう。(環境性能研究部)50号庁舎屋上わが青春のおでんパーティ村田正治話は昭和四十年代にさかのぼる。私が入所当時の材料 試験部はまだ五〇号庁舎しかなく、業務課、クリープ第 一試験室とクリープ第二試験室、そして疲れ準備室と呼 ばれる疲労試験関係者の控え室(現五十一号庁舎)が同 居していた。私が配属されたクリープ第一試験室は総員 三十人の大所帯で、Y室長のもとM氏、S氏、そして泣 く子も黙る鬼軍曹のI氏が居られ、本職の受託試験業務 全般の他に、我々若い者(二十人程)の指導役として新 米には恐れられていた。その頃の材試部の一杯会はほとんどI氏の手作りで、 手伝いこそいるものの材料の仕込みから盛り付けまで一 手に引受け、味はもちろんのこと、その手際の良さは周 囲の者を唸らせたものである。また料理のレパートリーも広く、山菜のてんぷら(山 菜採りの名人でもあった)や、鯉こく(長野県出身であっ た)、すき焼きにしゃぶしゃぶ(これは最近であった)等 数え上げればきりがないが、その中でもクリープ部在籍 者誰もが忘れられないのが特製おでんであろう。クリー プ試験室備品？の大鍋いっぱいに作られたおでんは、当 時食べ盛りの我々にとって最高のごちそうであった。ま た、運良く手伝い方に選ばれると、味見と称して皿一杯 のできたておでんを食べられる特権が与えられ、皆にう らやましがられたものである。おでんの調理は四〇三室と呼ばれるドラフト付きの部 屋で行われた。何故ドラフトが必要か、勘の良い読者な ら察しが付くはずである(サリンの合成ではない)。 本来 ならば五十号庁舎全体に漂うはずのおでんの匂いを吸い 取り、執務中の職員の業務効率を損なわないためである。 しかしながら世の中には鼻の効く人間はいるもので、 おでんの出来上がりを見ていたかのように現れ、鍋の横 にしゃがみ込んでつまみ食いをしていくしたたか者は常 に数人はいた。しかし、こういった手合いにもI氏は決 して怒ることはなく、来た者すべてにおでんを勧める優 しい料理長であった。この頃の手伝い方としてI氏の手ほどきを受け、後に 研究所全体のパーティをしきるほどになったのが、背の 高いN氏とだじゃれ好きのO氏である。彼らは、何もで きず食うことしか能のない私などと違い、持って生まれ た料理の才能(料理だけではないが)とI氏の指導も加 わって、五十号庁舎のパーティ開催にはI氏と共になく てはならない存在であった。この頃から五十号の飲み会も多岐にわたって行われる ようになり、春の歓送迎会、夏の屋上ビヤパーティ、秋 のおでんパーティ、そして冬の忘年会の四大パーティは 当部の公式行事とされ、原則的に全員参加のイベントと されていた。この中で最も大規模なものが屋上ビヤパーティであっ た。それまで毎年行われていた組合(当時は職員会)主 催のビヤパーティが無くなり、それでは我が部だけでも と細々と始めたパーティであったが、回を重ねた昭和六 十年頃には所内的にも知られるようになって、参加人数 がふくれあがり、七十人以上もの規模となった。主催者側の我々は開催当日朝から晩までその準備、片付けにて んやわんやであった。しかし、所内的には筑波支所の大規模なビヤパーティ などが行われるようになって、五十号屋上のビヤパー ティは徐々に元の内輪だけのアットホームな形に戻り、 ほぼ毎年行われてきた。おでんに関しては、その調理法はN氏やO氏がほぼ完 全に会得し、I氏退官後も何度か食べることができたが、 最近では飲み会があってもあまり手間のかからない物で済ませてしまう傾向で、あの懐かしいおでんを食べられ なくなったのは残念である。しかし、幸いなことに筑波移転後も五十号庁舎だけは 残留することになり、我々も業務の一部をこの庁舎で行 う計画になっているので、目黒に職員が集まるような機 会があれば、再び五十号庁舎でのおでんパーティや屋上 ビヤパーティを小規模ながらでも再現したいと、心密か に願っている。(環境性能研究部)屋上ソフトボール、テニスの思い出田中秀雄 あの懐かしい防衛庁の広大な池を望む材試地区五十号 庁舎の屋上、俗にいう「池向こう」のクリープ庁舎の、 高さ二メートルほどの金網を張り巡らした屋上が材試地 区唯一の運動場であった。広さは十数メートル四方程度 で、でこぼこのコンクリート地であるので本格的なス ポーツは望むべくもない。であるから、スポーツに真剣 に取り組もうとする諸氏は本所へ出かけていき、野球や テニスやバレーボールや卓球等々の練習に日々いそしん だのである。しかしながら、スポーツは嫌いではないが、 団体活動が苦手、練習が嫌い、果ては本所まで出かけて いくのが面倒くさいという横着ものが昼休み時間を持て 余し、一人、二人と屋上に集まりだし、ゲーム感覚で運動を始めたのである。この屋上の運動場としての歴史は古く、二十数年前に 二、三人でキャッチボールを始めたのが始まりであり、 その後、集まる人数や季節や流行などにより出し物が変 わり、これまでに野球、バトミントン、テニポン、ゴル フ、バレーボール、ソフトボール、そして硬式テニスと、 記憶しているだけでこれだけの球技を楽しんだ。 他人がみると、とてもその球技をしているとは思えな いものもあり、いずれもうしろに「のようなもの」と付 ける必要があるが。狭くて、荒れたコンクリート地の屋 上であるため、膝痛や打ち身などのけがが絶えなかった が、屋上ならではのルールを設け、新しいゲーム感覚で 結構楽しんだ。これまでに親しまれた沢山の球技の中で、最も盛んに、 また長い間行われたのは、やはりソフトボールであろう。 四人集まると、無謀にも二対二に分かれて試合をするの である。逆に人数が多いときには狭い屋上に人があふれ、 全員が参加できず交代制となる。三角ベースで試合をするのであるが、金網の外へ打ち出すとチェンジだとか、 金網の一角にホームランゾーンを設けるなど試合を進め るうちにいろんな特別ルールができていった。 ここでは、バットの芯でとらえたライナー(金網での クッションの処理により一塁でアウトになる場合がしば しばある)より、当たりそこねの滞空時間の長い打球が 金網にぶつかる(長打になる)方がナイスバッティング となり、優秀な野球部員が活躍できるとは限らないので ある。ここでのポテンヒット打ちの特訓のかいあってか、 所内のソフトボーフ大会では、旧クリープ部は常勝チー ムとして恐れられたものである。ソフトボール大会の優勝に飽きた我々は、次にテニス の制覇に乗り出した。相変わらず、〝練習は邪道〟と考え ているため、二、三人集まるとすぐに試合を始める。 フォームよりもセオリーよりもマナーよりも、試合に勝 つことだけに専念する。試合中に罵声が飛び交うことも しばしばである。当初はネットの代わりに紐を真ん中に張って試合を進 めたため、ボールが紐の上を通過したか、下を通過した かわからず、よくもめたものである。屋上の広さがコー ト一面分もないため、テニスの場合においても種々の特 別ルールを考え出した。試合をしている様は、硬式テニ スラケットと硬式テニスボールを使った卓球かバトミン トンを想像していただければよい(想像できませんか？)。屋上でのテニス(のようなもの)になれたところで、 いよいよ所内テニス大会に望んだ。ソフトボール大会同 様、とはいかず、テニスでは何年たっても勝てなかった。 至近距離からの打ち合いにはなれているが、コートの広 さについていけず、また悲しいかな基本が全くできてい ないため、テニス部員に翻弄されてしまうのである。そ れでも、「屋上でやれば我々の方が強いんだ」と負け惜し みだけは忘れていない。実は現在(この原稿は材試地区のつくば移転前に書い ている)、屋上テニスメンバーは本所のつくば移転により 空いたテニスコートで本当の (？) 硬式テニスに取り組 んでいる。といっても、我流の卓球打ちやゴルフ打ちで はあるが。そのおもしろさに熱中し、もう少し早く、二 十歳代か、せめて三十歳代に始めていれば少しは上達で き、もっとラリーの続くテニスが楽しめたのにと、ほん のちょっぴり後悔している。毎日のように通った屋上、これまでに床や金網を何回 も補修しながらも運動の場を与えてくれた屋上、またあ るときにはビヤパーティ会場ともなり楽しませてくれた 屋上、青春時代を過ごした屋上、人間同様ロートル化し てきた屋上、つくば への移転とともに〝さよなら〟 であ る。(環境性能研究部)守衛所昼行燈福薗栄蔵春うらゝかな日であった。私は、表の水道口でモップ を洗っていた。満開の桜は我が世の春もこれっきりよ、とでも告げて いるように、風もないのにはらはらと散っている。けれ どもその様はすざましい自然の摂理を訴えているように も私には見られた。日曜日で研究所の大門は閉めてあった。するといつの 間に其処に見えたのか、ふと小門の処に佇っている一人 の老人に気がついた。どんなゲテモノを口にしても身に付いて三度の食事も 二度にしているこの躯に比して、どんなご馳走もすべて 素通りしていくのではないかと思われるほどその身は細 く長身であった。元来、どんな衣服を着けても張り子の案山子と自認し て服飾など無関心な私の眼にも、その装いや物腰から矢 張りそれなりの人と私の眼には映った。そして、何か用 あり気なのを知ると、「何かご用でしょうか？」と訊かずにはいられなかった。初め私は、この界隈に住むご老人が暇にあかせて、で きるものなら手近にある桜見でも――と酒落込んで来た のではと思っていた。するとご老人はいとも落着いた顔で、「うむ、昔ここの処に大きな土手がありましたね……」 それらしき方向を指さしながらおっしゃる。これはま た異な事を耳にするものだと思いながら、「はい、ありました」私もついおだやかなご老人の口調に合わせて言った。 するとご老人も私の合槌に納得した様子で、 「その土手に、大きな桜の木が植わっていたでしょう……」とおっしゃるご老人の唇は満足そうにほころんでいた。 その土手が在って桜の大木が美事な花をつけていたの を知る人も、今は昔で少ないことだろう。 「はいはい。毎年きれいな花を咲かせて、ほんとに眼 の保養になりました」かつての花盛りを知っているだけに、つい私も心を開 いていた。花の命は短くて――というけれど、あっけなく散る桜 の花に人の世の浮き沈みを重ね、その見事な花ゆえに不 思議と心の奥底をえぐられる人だってあることだろう。 朝夕、その光景になれ親しんでいる凡人にはことさら 感懐もわかないけれども、ご老人の語る故事来歴に忘れ ていた昔の絵のような画影が頭の中によみがえっていた。 するとそのご老人も私の表情からやっと納得がいった とみえて、刻みの深い顔を子供のようになごませると、 「あの桜の木はね、ボクの親父が昭和の初めに植えたんですよ」と解説してくれたのだった。なるほど、そうだったのか！と私は胸の中で眼が覚 めたように小膝をポンと叩いていた。話はきいてみない とわからないもの。名残り惜しそうにそうおっしゃったものの世の流れに 洗われて、土手もなければ桜の木も無い。その後にはしょ うしゃな建物が威風を張っているのだ。「折角のところをお生憎さまで……」 と言いたいところを私は胸にたたんだ。 当時軍医中将で、共済病院長であったとのこと、今見 る御老体の御尊父さまとあれば、その植樹の主も早や現 世の人ではないだろう。世が世であれば守衛風情に声などかけるようなご仁で もあるまい。それにしても今対面している貧相な男が、 遠い外地で奉公し九死に一生を得て還った兵隊のはしく れであろうなどとは、よもやご存じあるまいとつかぬこ とを思いながら、「ちょっとその辺りまで……」中の方を見せてくれ――という仕種に、「どうぞ、どうぞ」と言いながら、杖を引いてやっと歩いて行くその後姿を、 私はしばし追っていた。「ちょっとお訊ねしますが……」とその人は私にたずねた。此処で働いているのだから此 の辺の事情には詳しいだろうとの憶測からであろう。 家と仕事場を往復するだけの伝書鳩みたいな存在の私 ではあるが、「はいなんでしょう？」と、私も軽く応じていた。「ここら辺に病院があるはずですがね……」 その装いから見て今病院を抜け出して来たばかり、と いった恰好である。病院での寝間着にしているのであろうか格子縞の浴衣にスリッパをつつかけていた。 彼のすぐ後ろに屛風のように突っ立っている建物が自 分が現在入院している病院であることに気付かないとこ ろをみると、何か突発事情でどこか遠い処から来なけれ ばならなかった患者であろう。自分が入院した病院名も 知らないのだ。年の頃は四十歳前後と見たけれど、もっと若い人かも しれない。まして、まだボケる歳でもないのだ。いずれ にしてもこの界隈の人でないことだけはたしかだろう。 だからといって笑ってすまされる事柄でもない。若し も私が相手の立場であったとしたら、矢張りすがる思い で同じような訊ね方をするのではあるまいか。 するとその人は、こちらがまだ彼の真意が通じていな いとでも思ったのか、「あの……女性歌手の××さんが入院している病院で すけどね…」彼はふとその女性歌手の名を想い出した様子で、これ だけ言ってもまだ分らないか、といった口吻である。け れどもその歌手は、平生私には興味のない人ではあった。 するとその人は、有名な女性歌手にあやかって入院し たのだろうか？まさかこのせわしい世の中にそんな物 好きもあるまい、と思いながら私は、 「その病院はこの建物ですよ。ここをちよっと行って 左に曲るとすぐ玄関が見えます……」 そう教えると、納得したのか急に踵を返していた。そ して、それならそうだとさい初から、言えはスットント ンで……つい私の口から戯れ唄がこぼれていた。振り返ればその頃、まだ戦後のいえない傷痕はあちこ ちに暗影を落していた。その冷たい巷に流浪の身をなぜ か暖かい手で拾い上げてくれた奇特な先輩、そして波瀾 にまみれた過去を互いに吐露し、苦楽を共にしてきた親 しい人も、呼べど応えぬ遠い人となってしまった。 金研にお世話になって三十有余年、今や人生の残り火 も消えなんとするのを皆様の情にすがりついて、体のあ ちこちの故障に水油をさしながらむち打っているところ です。大勢でにぎわっていた頃はまだよかったけれども、廃 虚となった跡の寂寥感はまた一入のものがあります。 荒れ庭や 老いるわが身の姿かな守衛所は金研の貌だからしっかりと……上司の懇切な 言葉に「はい、わかりました」と調子のよい返事はするものの所詮カラ返事。鍬や鎌 をとれば人後に落ちないが、お書物など全く無縁のやか らでは鈍いことでもまた天下一品の口であろう。 ましてや仕事柄多勢の顔と名前を覚えなければならな い。その顔と名前とが容易に一致しないのがくやしい。 すると、厳しい軍隊の規律をそのまま持ち込んだよう な大先輩たちの雷が落ちてくる。それでも一家を支える 飯の種とあれば、どんな屈辱にもたえなければならない のだ。今更やっと糊口をしのいでいた親たちをせめても せんないこと、せめて戦場からの生還を一陽来復としな ければなるまい。若干満十五歳にして郷の青年式を終え、社会人としての日常の仕来り、また長幼の序を厳しく叩き込まれ、そ の道に外れれば墓石ものであった。「もしもし、どちらへおいでですか」傍若無人に門の前を通り抜けて行こうとする若い外来 者に私が問うと、「○○新聞！」と、突っけんどんである。ぶん屋とはそんなに肩ひじ張 らないと威厳が保てないとでも思っているのだろうか。 そうかと思うとある昼下り、ピカピカの外車がすーっ と門を入って止まった。大会社のお客さんであることは 電話連絡で知っていた。「連絡ついてますからどうぞ！」守衛が大声で言うのもきかず、一人の紳士が小雨の中 を小走りに来ると、「いや、此処に記帳することになっておりますから……」とその言葉までが丁重であった。さぁすがぁ大会社のえ らいさんだと思いながら、下るほど人の見上げる藤の花ちと古いかな。誰の作句かは知らないけれど、ふと私 の頭にうかんでいた。昼行燈――とは誰あろう私自身のことである。これほ ど物覚えが悪く忘れっぽくては、近頃いっそうひどく なったような気がする。それでも「ノータリン」よりはま だ「昼行燈」の方が諧謔的で私には好ましく感じられるの だが、無粋この上なしと一笑されるのがおちかもしれない。(材料試験事務所)目黒の雑草松島志延一九八六年六月二日からほぼ一年にわたって、金材技 研目黒地区に自生する雑草を調べた。といっても大げさ なことではなく、昼休みにカメラをぶら下げて所内のあ ちこちを歩き回り、花が咲いている雑草を見かけると写 真に撮っただけである。樹木や栽培植物は対象としな かったので、「職場の花」には違いないが地味なものが多 い。殆どの花が所内の至る所に咲いており、ごく普通に見 かけるものばかりなのに、名前が分ったものだけで、表 にまとめた百三十九種があった。他に、写真は撮ったが 名前が分らないもの、別種かどうか判定出来ないものな どがあるので、少なくとも百六十種程の雑草が成育して いると思われる。約一万二千坪という面積で、かなりの 部分が建物や通路であるにしては植物相の豊かな土地と いえる。以下に、雑草に焦点を当てた目黒の四季を追ってみたい。雑草の春は、日だまりにオオイヌノフグリ(写真1) が青い花を咲かせると始る。これが一月下旬で、二月初 めにはたんぽぽも咲き始める。金材技研の敷地には、都 会ではめずらしくなったカントウタンポポも残っている し、百キロプラントの前にはシロバナタンポポも咲く。 たんぽぽは秋まで花を見かけるが、春以外に咲くのはセイヨウタンポポで、萼が下に反り返っているのですぐ分 る。三月も半ばを過ぎると、目黒川の土手はオオアラセイ トウ(花大根写真2)で覆われる。目立たないが、そ ちこちにハコベの仲間が五種類もあった。スミレの仲間 も五種類を確認したが、これは旧工業化の建物の周囲に 多かった。春に咲くすみれの花は実を結ばず、夏の終わ りにもう一度目立たない花を咲かせて実を付けるのがス ミレの仲間の特徴である。桜も葉桜になり、ゴールデンウイークから六月にかけ て雑草達の花盛りとなる。特に14号庁舎の裏の土手は、 まるで花園である。ノアザミ(写真3)、キキョウソウ(写 真4)、ニワゼキショウ、オニタビラコ等が咲き乱れ、蜜 を集める虫たちの天国となる。守衛所から24号 への中央 通路の右側の土手はよく手入れされてはいるが、それで も、シロツメクサ、アカツメクサ、コメツブツメクサ(写 真5) と三色のクローバーが咲きそろう。また、この土 手の24号に近い方に一ヵ所だけホタルブルロが咲く。 所内のあちこちにドクダミが白い花を咲かせる頃、芝 生にはネジバナが咲く。ネジバナの花の一つひとつを拡 大鏡で見るとカトレアさながらで、間違いなく蘭科の花 であることが分かる。ヒメコバンソウ、スズメノテッポ ウ、スズメノヤリ、カラスムギ、イヌムギ、ネズミムギ 等もしっかり花を咲かせている。 梅雨になると、ツユクサが咲き始める。六月ごろは朝 だけ咲いて十一時頃にはしぼんでいるが、夏になると午 後まで咲いているようになる。白い花をさかせるトキワ ツユクサもあったが、これは誰かが植えたのが野草化し たのかもしれない。金属材料技術研究所目黒地区の雑草2月～4月オオイヌノフグリ、ホトケノザ、カントウタン ポポ、ナズナ、セイヨウタンポポ、タチツボス ミレ、ハコベ、カラスノエンドウ、オオアラセ イトウ、ヒメオドリコソウ、スギナ、フキ、キ ランソウ、ハルノゲシ、スズメノヤリ、スミレ、 ノミノツヅリ、シロバナタンポポ、キュウリグ サ、タチイヌノフグリ、マルバスミレ、ヒメス ミレ、オランダミミナグサ、ミミナグサ、ハル ジオン、ウシハコベ、ノジスミレ、コウゾリナ、 ヤエムグラ、カスマグサ、ハハコグサ、チチコ グサモドキ、イヌガラシ、カタバミ、チガヤ、 トキワハゼ、ジシバリ、トウバナ、サギゴケ、 コメツブツメクサ、ヤブジラミ5月～6月ニワゼキショウ、ニガナ、アカツメクサ、イヌ ムギ、ネズミムギ、タチチチコグサ、ヒメコバ ンソウ、ノアザミ、カラスムギ、コナスビ、ト キワツユクサ、アメリカセンダングサ、ムラサ キカタバミ、ドクダミ、ハキダメギク、コヒル ガオ、シロツメクサ、ノビル、ホタルブクロ、 マメグンバイナズナ、イヌホオズキ、スズメノ カタビラ、ヒメヨツバムグラ、キキョウソウ、 メキシコマンネングサ、ギシギシ、カモジグサ、 ノブドウ、ママコノシリヌグイ、カモガヤ、ツ メクサ、オオバコ、オオマツヨイグサ、ネジバ ナ、スズメノテッポウ、ツユクサ、マルバマン ネングサ7月～8月ヤブカラシ、ヨウシュノヤマゴボウ、エノコロ グサ、ヘクソカズラ、タケニグサ、オヒシバ、 ヤブマオ、メヒシバ、カヤツリグサ、ミズヒキ、 ヒメヤブラン、カラスビシャク、イヌタデ、ク ズ、オオニシキソウ、キツネノマゴ、イヌビエ、 ヒルガオ、クサタバコ、ヤマノイモ、ツルボ、 イノコヅチ、ブタクサ、コウゾリナ、ヒメジオ ン、スベリヒユ、チチコグサ、ヒメムカシヨモ ギ、ヨモギ9月～10月シマスズメノヒエ、タチチチコグサ、エノキグ サ、ヒヨドリジョウゴ、ススキ、チカラシバ、 アメリカイヌホオズキ、イタドリ、カナムグラ、 シャクチリソバ、オオイヌタデ、クワクサ、カ ラスウリ、ジュズダマ、タカアザミ、センニン ソウ、チヂミザサ、アブラススキ、タカサブロ ウ、コブナグサ、アカザ、セイタカアワダチソ ウ、エゴマ、コミカンソウ、コメヒシバ、キン エノコロ、ヌカキビ、アキノゲシ、ダンドボロ ギク、ヌスビトハギ、コセンダングサ梅雨明けから八月にかけては意外に野草の花が少ない 季節である。ヘクソガズラ(写真6)、ヤブカラシ、クズ、 ヒルガオなどの蔓草が花を咲かせる。手入れのいい橋本 庭園にも、ツルボやヒメヤブラン(写真7) がひっそり と咲く。また、橋本庭園で赤いきのこが直径二メートル くらいの円状に生え、これがフェアリーリングかと感激 した。九月にはいると、残暑が激しくてもススキなどの秋の写真1オオイヌノフグリ 写真2ハナダイコン写真3 ノアザミ写真4キキョウソウ 写真5 コメツブツメクサ写真6ヘクソカズラ写真7ヒメヤプラン写真8シャクチリソバ写真9タカサブロウ写真10ヒヨドリジョウゴ草が花を付け始める。カナムグラとシャクチリソバ(写 真8)が目黒川の土手を埋めつくす。シャクチリソバは、 比較的新しい帰化植物であるが、他にも帰化植物が多く、 表の植物のうち約二十六%が帰化植物である。 金材技研の敷地内には湿った場所が少ないが、図書室 の裏の土手に畳一枚ほどのじくじくしたところがある。 ここには秋にはタカサブロウ(写真9) とか、春にはサ ギゴケとか田んぼの畔に生える草が見られる。 十一月に入ってヒヨドリジョウゴ(写真10) やカラス ウリが実を付ける頃には枯草が目立ち始め、アメリカセンダングサやアキノゲシが未練がましく花を付けたま ま、冬を迎える。雑草ばかりでなく、木々も四季の移り変わりに従って 変化する。左の写真は30号庁舎の前にあったケヤキの四 季である。この木は四月中旬(一九八七年)に枝をバッ サリ切られてしまったので、芽吹き頃の写真が取れな かった。しかし、移転の頃にはもう見事に繁っていて安 心した。(第四研究グループ)3月6月10月11月目黒で観察した鳥千葉 実野鳥に興味をもったきっかけは、構内で部分白化のス ズメを見たことだ。それからいろんな鳥を見るように なってきた。日本では五百数十種、約六百種近くの鳥が今まで観察 されている。無論、その中には日本が本来の分布域に含 まれていないために僅か数回しか観察されていないもの や、コウノトリ、小笠原に住んでいたオガサワラガビチョ ウ、オガサワラマシコなどのように既に絶滅したものや、 トキのように絶滅に瀕しているものも多く含まれてい る。また、狩猟のために導入されたコジュケイや、本来は 飼い鳥として持ち込まれたが逃げだして自然で繁殖する ようになったワカケホンセイインコのような鳥もある。 目黒の旧本所は都心に位置しているのでこのような籠抜 けの飼い鳥を目にする機会も多く、セキセイインコ等を 見たこともある。我々が比較的簡単に、とはいっても或る程度は自然の なかに足を運ばなければならないが、百数十種類ぐらい は観察できる。朝夕の通勤時、昼の休憩時間位しか観察 できなかったが、目黒の旧本所構内で約三十種類の鳥を 観察できたのはまずまずと思われる。都心にあったとはいえ、周りには白金の自然教育園、 筑波に移ってしまった林業試験所、目黒不動尊などがあり、現在は都内の名所、ガーデンプレイスに変身した恵 比寿のビール工場で使われていた三田用水が近くを流れ ており、自然がまだ比較的多く残っていた。又、悪名高 い目黒川も傍を流れている。まだ下水道が完備していな かった時代には、流れる厨芥を目当てにユリカモメの大 群が水面を乱舞していた。ユリカモメの頭が黒くなるの を見て、季節が移り、繁殖のためにそろそろ北国に帰る 季節が来たことを知った。トビも、厨芥を目当てにして目黒川の上を舞っている のがよく見られた。すると、カラスが集まってトビにモ ビングを仕掛けるのが常だった。ある日、カラスが大騒 ぎをしていたので、ああ、又やっているな、と見上げる と、トビよりもずっと大型の猛禽がカラスの群れにモビ ングされていた。それはシロハラウミワシだった。蛇で も捕まえて下げているのかと見えたのは足に着けられた 赤い紐で、飼鳥の籠抜けであるのは確かだった。数日間 見ることが出来たがどこかへ飛び去ってしまった。はた して本来の棲息地の東南アジアまで帰り着けただろうか。イソヒヨドリは海浜の鳥だが、目黒川沿いの土地で何 度か見た。多分、目黒川を伝わって登ってきたのだろう。 防衛庁の構内には実験池が二つあり、初代の守衛長 だった橋本さんはオシドリも来ていたと言っていたが、 私はコガモしか見ていない。自然教育園には冬季にはオ シドリが沢山いたので、それらが飛来していたことは十 分に考えられる。しかし、残念ながら自然教育園でも傍 を高速道路が通るようになってからは数がめっきり少な くなってしまった。大池では、夏になるとカイツブリの浮き巣が見られ、「キリキリ」という囀りが聞かれた。冬にはカワウの頭 が浮き沈みしており、カルガモの群れがその縁で翅を休 めていたが、残念ながら防衛庁の庁舎の建設のために二 つとも埋められてしまった。日本最大のサギのアオサギが上空を飛ぶのを見たこと も再々だった。夏になると帰宅する時間に薄明りの空を、 夜鴉の異名のように「クアッ、クァッ」と鳴きながらゴ イサギの群れがはばたくのも見た。秋から冬にかけては、モズが木の頂上で高鳴きをし、 ジョウビタキが棚の上に止まって頭を上下させて挨拶を し、ハクセキレイが路上で忙しげに何かを拾って歩き、 草叢ではツグミが胸を張って立っており、カワラヒワの 群れが立ち枯れの草の実に飛び付いていた。 以前には、春になるとコジュケイが人を呼び、ウグイ スが春を告げていたが、近来はめっきり少なくなってし まった。管理庁舎の裏の傾斜地は風が当たらず、暖かいので、 サクラが他よりもずっと早く咲くのが常だった。その花 を狙って、本来はスリランカなどに住んでいるはずの鳥 で、近年東京西部で籠抜けで殖えてきたワカケホンセイ インコが来るようになってきた。メジロがツバキの花の 蜜を狙って集まり、シジュウカラが巣立ち雛を引きつれ ているのも春だ。夏には、ツバメが雛に飛行訓練をしているのがよく見 られた。秋の渡りの季節には鳥の移動の経路になっていたよう で、事故にあったトラツグミ、オオルリを拾ったことも あった。都市の常として、キジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、ドバト、オナガ、ハシボソガラス、ハシブトガラス等のい わゆる都市鳥が多かった。カラスが高圧線に触れて停電 事故を起こしたことや、工場にドバトが入って糞害を起 こしたことなどもあった。近年、都内で見られるようになった日本で最小のキツ ツキのコゲラを、二、三度見たことがある。 久しぶりに、全面移転で誰もいなくなった旧本所を訪 れてみた。行く途中で目黒川を覗いた。相変わらず水量 は少なかったが、珍しく水が澄んでいた。旧本所の反対 側の遊歩道はほぼ完成していた。そこから川を覗くとコ ガモが沢山いた。相変わらずカルガモもいたが、コガモ に比べるとずっと少なかった。ムクドリ、キジバト、ツ グミなどもいた。旧本所の構内は建物はそのままだったが、窓には明か りが見られなかった。無論、人影もなく、撤去作業の人 たちだけが動いていた。旧管理庁舎の裏では早咲きサクラがひっそりと咲いて いた。スイセン、ボケ、シロジンチョウゲなども、見る 人もいないのに咲いていた。静けさの中でツグミ、ムクドリ、キジバト、ヒヨドリ、 オナガ、シジュウカラなどお馴染みの連中が飛び回って いた。春になったことを知らせるように、顔を黒く染め たアオジも遊んでいた。藪ではウグイスが地鳴きをして いた。まだ囀るには季節が早いのだろうか。夕方だった せいか、スズメは枝に止まってひっそりとしていた。あ れほど沢山いたカラス、ドバトは見られなかった。彼ら には人が居るほうが却って過ごしやすいのかもしれな い。跡地はどのように利用されるのだろうか。出来れば都心のオアシスとして野鳥が暮らせる様な形になればと 思って帰ってきた。(反応制御研究部S32・4 ・1～H5 ・ 3・31)界隈今昔内田信之金材技研に通い始めて、この道は以前はどんなだった のだろう、ここには何が在ったのだろうとそんなことを 思いながら、毎日歩いて来ました。その土地の昔のことを知るにはその土地の名前が、と ても大切です。金材技研の在る、ここ中目黒という地名 は、幸いに住所表示で変えられることも無く、江戸初期 に出来た中目黒村以来その名を残してくれています。「 目黒区中目黒」、この目黒という地名には、①目黒不動説、 ②地形説 (メは凹んで欠けた穴、クロはクラの転訛で谷 間の意)、③愛驪説(メは可愛いとか優れた、クロは驪で 黒い色の馬、牧場で有って良馬がいた意)、④馬畔説(メ は馬、クロは畔で馬牧の周囲の畔道の意)、⑤盲神説(こ の土地の神様はメクラ神という眼病の神様なのでメクラ の転訛)の五説があって定説は無いようですが、馬に関 係あることは確からしいです。その外中目黒の小字で あった田道や中里の名も田道小学校や目黒川の田道橋、 中里橋に残っています。目黒川は、この辺りでは北と南からこれを挟む台地の 間を流れているのでこの台地には多くの坂が見受けられます。金材技研の周辺を見廻しても南の台地、祐天寺方 面から降りる坂に、けころ坂、なべころ坂、馬喰坂があ りますし、北の台地、恵比寿、三田方面から降りる坂に は、新道坂、別所坂、茶屋坂があります。 坂は、道の一部であり、道は生活のため、商売のため、 あるいは時に戦のために人が古くから通った訳ですか ら、色々な話が残されていますし、また人との係わり合 いを伝えているという意味で、坂は様々に思い廻らしな がら歩くのに楽しい処です。恵比寿駅から金材技研へ歩いて来ますと、恵比寿三の 十一の合同宿舎の所からだらだら坂を上ります。その角 に「道しるべ石」が小屋の中に立っていて、正面に南無 阿弥陀佛の文字とその左に良く見えませんが「左不動尊浮世絵の目黒新富士ミち」右脇に「右ゆうてん寺道」と刻まれ、右側面には 「安永八亥秊」(一七七九)と造立の時が明らかです。当 時は殆んど人家も疎らであったであろうこの辺りで、旅 の安全への祈りを籠めて二つの江戸名所への道を教えて いた事になります。恵比寿三の九と十の間を上るこの坂は、坂名を中山坂 といい、其の謂は、この坂に沿って中山勘右衛門と言う 人の屋敷が在ったからとされていますが、坂の途中右側 には馬頭観音が祀られています。この馬頭観音堂の前に 立てられている渋谷区教育委員会の標示板を見ますと、 享保四年(一七一九)に与右衛門という人が当時流行し た悪病の退散を馬頭観音に祈り、その御礼として石で観 音を作って祀ったと書かれています。馬頭観音は、その 頭上の馬からの連想で、馬の供養や無病息災を祈る信仰 の対象となり農村地方で良く見受けられますが、本来は 慈悲で教化し難い衆生を救おうとする四面八臂、忿怒の 形相の佛様です。堂内の像は幕で隠れていて、像容を拝 む事は出来ませんが、光背型の坐像で延享三年(一七四 六)の銘が在るとのこと、この観音堂の裏で今もそのお 守りをしているお家にはこの観音の縁起が伝えられてい るそうですから、標示板の話もそれによるものと思われ ます。標示板には、この外にこの辺を原といったと書か れていますが、今の町名は恵比寿南で、その外恵比寿西 という町名も出来ています。「恵比寿」というのは、明治二十年に設立された日本 麦酒醸造会社が、目黒の三田に工場を置き、翌二十一年 製造開始と共にその製品を「エビスビール」と命名、明 治三十四年にはエビスビールの専用貨物積降場が恵比寿 停車場(当時は今よりもっと目黒寄り)としてその名が駅名となり、更に町名にもなったもので珍らしいケース のようです。余談ですが、明治二十年八月東京府知事に 提出された日本麦酒醸造会社創立願書というのを見ます と、当時の我が国のビールの消費量の急激な増加と、そ の輸入による貨弊の流出を憂え、且つ、美味なる国産ビー ルの無いことを嘆くという中々調子の高いものですが、 これに対する府知事の回答というのは、「会社設立ノ儀ハ 会社条例制定迄人民ノ相対ニ任セ候条其旨可相心得事」 という誠に百年前の時代を偲ばせるものです。 新しく実施された住居表示というのは、味も素っ気も 無い便利一本槍の地名をあちこちに作ってしまっている ので残念でなりませんが、恵比寿南三丁目辺も以前は原 町といい、更に古くは鎗ヶ崎と言ったそうで、これは此 の辺の突出した台地の形から呼ばれたものともいいま す。中山坂を直進すると突当りに別所坂の降り口が見えま す。坂上の中目黒一丁目側の一画に樹木に囲まれた小堂 が有り、中には庚申塔が六基安置されています。庚申の 夜には人間の体の中に住む三尸虫という虫が、人が眠る と体から脱け出して天に昇り、天帝にその人の罪を告げ て命を取らせるという道教の守庚申と習合したとされる 庚申信仰は、この目黒にも広く行われたようで、その夜 は米や野菜を持ち寄り、当番の家で徹夜で語り明かした そうです。これは三尸虫が脱け出さないように眠らない ということと、皆が集まって楽しむということがうまく 結びついたもので庚申講流行の一因とも言われます。こ の庚申堂は、文政十一年(一八二八)に幕府が編纂した 地誌にも記録されているもの(現在のお堂は明治二十四 年及び昭和五年の修築)で、堂内は暗くてはっきりしませんが、前列の三基は左から元禄元年(一六八八)延宝 八年(一六八〇)、享保元年(一七一六)の年号が見られ、 また両端のものには庚申信仰の本尊とされる青面金剛像 と其の下に申から猿につながった「不レ見レ不聞レ不レ言」 の三猿が浮彫りにされています。左端の青面金剛像が胸 に掛けている瓔珞(首、腕かざり)は、摩滅しています が髑髏を三個繫いだもので経典に言うとおりの珍らしい ものです。ちなみに目黒区内に今でも残る庚申塔は七十 五基を数えるといいます。庚申堂の処には昭和の初年迄古い松が在ったそうです が、今在る樹のうちでも太い欅は目通り二米以上もあり、 晴れた日にもほの暗い樹陰を作り、そこから続いて坂の 上に枝を張り出している樹々と共に、この坂道を極めて 味わい深いものにしています。この坂道は、坂沿いのお 家の草木が季節の折折に目を楽しませてくれますが、冬 枯れの時には、すっかり葉を落した梢に烏瓜の赤い実が 鮮やかな彩を見せています。別所坂の「別所」という名は、このほか目黒川を跨ぐ 東横線路より一つ上手に架する別所橋にあり、また上目 黒一の八あたりに明治十一年迄在ったというミニ富士山 が別所富士と呼ばれたそうですから、中目黒一丁目から 上目黒一丁目にかけて一帯の相当広い地域の称と思われ ます。その謂は、新しく開かれた開懇地の意と言います が、そのほか古く浮囚の徒を隔離した地とも、あるいは 宗教関係の意味があるともいわれます。この坂は降りる 時は良くても、昇るには中々辛い急坂ですが、このよう な急坂に付けられた名としては、その特徴から胸突坂(千 代田区駿河台、文京区関口二丁目等)とか、神社の表階 段等の男坂(芝愛宕神社、湯島天神等)と呼ばれているのがあります。別所坂を降りると道は目黒川の田楽橋 へと続きます が、ここでもう一つ伝えられる話に、坂上の国際電電(株) 研究所の場所に在ったと言うミニ富士山とそこを舞台に 起った殺人事件があります。此の電々研入口の栅の内側 に目黒区教育委員会の立てた「目黒新富士跡」の標示板 が在るのでお読みになった方も多いと思います。 この目黒新富士というのは、この土地に邸を持ってい た旗本近藤重蔵の邸内に文政二年(一八一九)、当時盛行 した富士講の人々によって築かれたもので、高さは十五 米あったといいます。昭和三十四年迄は僅かながら形が 認められたそうですが、今では広重の浮世絵「名所江戸 百景」の内の目黒新富士 (写真)で偲ぶほかありません。 眺望のすぐれたこの新富士は、富士講中の参拝だけでは なく目黒不動や祐天寺と合せて江戸市民の目黒行楽コー スとして、大いに喜ばれたようです。この新富士は、前記上目黒の富士を元富士、西富士と 呼んだのに対して、新富士、東富士、近藤富士、鎗ヶ崎 富士とも呼ばれ、山腹に置かれていた三つの石(写真右 から(一)烏帽子岩、(二)近藤重蔵が蝦夷から持ち帰った楠の 化石と伝えるもので小御嶽と刻す、(三)文政二年新富士築 造を示す南無妙法蓮華経の題目碑)が、今はこの電々研 構内東隅に置かれて唯一の名残りとなっています。この 新富士の眺めが良かった事は、今でもこの電々研構内の 外れから南を望むと充分察せられますし、一段下の別所 坂児童遊園から見てもそれは偲ばれます。 近藤重蔵守重という人は、数回にわたり千島方面を探 険し、択捉島に「大日本恵土呂府」の木標を立てる等、 北辺の防備開拓に尽くしましたが、素行修まらずとも在勤中不正の振舞ありとも言われ、書物奉行から大阪御弓 奉行に左遷され、のち更に小普譜入り(免職無役)とな りました。重蔵はこの新富士に自分の甲胄姿の石像を置 いたといいます。そのものかどうか判りませんが、谷文 晁に描いて貰った姿絵を元に刻ませ、あるいは自ら刻ん だとも伝えられる矢張り甲胄姿の石像が、北区滝野川二 丁目の正受院に今も見る事が出来ます。 この新富士で起きた事件といいますのは、近藤重蔵と その隣家で元は重蔵邸地の持主であった塚越半之助との 間の紛争によるもので、原因を簡単に言いますと、新富 士が出来て多くの人が訪れるようになったため、これら の人達を相手に商売が出来るようになり、それに関係し ての土地の利用問題でしたが、その争いが拗れ遂に文政 九年(一八二六)五月十八日の夜、近藤重蔵の息子富蔵 と家来が、塚越半之助夫婦とその長男夫婦の四名を斬殺 し、更に二名を傷つけるという事件になりました。この 事件に対する幕府評定所の判決は、近藤富蔵は八丈島に 遠島、家来は江戸追放、重蔵は息子の監督不行届、家事 不取締ということで近江国(滋賀県)大溝藩にお預けと いうもので、これで一件落着となりました。 後日譚を付け加えますと、重蔵は江戸に戻る事無く文 政十二年(一八二九)にお預け中のまま五十九才で病没 していますが、息子の富蔵は八丈島で宇喜田秀家(豊臣 五大老の一人、関ヶ原の戦で敗れ八丈島に配流となり、 そこで没)の末裔に連がる娘と結婚し、明治十三年赦さ れて東京に帰りましたが、再び自ら希望して八丈島に渡 り、明治二十年八十二才で現地で亡くなっています。 富蔵は、犯した殺傷を悔い、在島中仏教に帰依して勉 強に励み、島の人達の信頼も厚かったそうですが、その筆になる「八丈実記」は八丈島の風土、文化に関する総 合記録として今では欠く事の出来ない貴重な文献とされ ています。 (庶務課)(ざいけんNo.53から転載)新富士の山腹に置かれていた三つの石 (電々研構内東隅)恵比寿駅前二人の恵比寿打越哲郎、中山幸枝「わかったわ。じゃ、日曜日の十一時にいつものファー ストフード①の二階ね」少し不機嫌そうに、みさ子は電話を切った。「誕生日なのに……」みさ子は、証券会社に勤めるOLだった。恋人の伸昭は、中目黒にある大きな病院の裏の地味な 研究所②に勤めていた。その理由もあって、出会って半 年後くらいに、「今度、恵比寿を案内するよ。けっこういい店がある んだ」と、伸昭が言ったのが、恵比寿に行くきっかけだった。 はじめは、その言葉が少しうれしかった。どんなとこ ろに連れてってくれるのかしら。代官山も近いしおしゃ れな店がけっこうあることくらいHanakoで知っていた し、美味しいケーキ屋さんやフランス料理のお店だって チェックしていた。それ以来、二人が会うのは決まって恵比寿だった。伸 昭は、恵比寿交差点角にあるケーキ屋さん③や、駒沢通 りを代官山方面に少し歩いた地中海料理の店④や、ヒル サイドテラスにあるイタリア料理店⑤に連れてってくれ た。それが、つきあって一年くらいたった頃から、伸昭とのデートはいつも決まってラーメン店か居酒屋になっ た。ガーデン・プレイス⑥だってまだ一度も行っていな い。みさ子には、それが不満だった。はじめは、激辛ラー メン⑦も美味しかったり、焼き鳥⑧だって嫌いじゃない けれど。「フランス料理⑨だって、カンボジア料理⑩だって、 腹に入っちゃえば何だって同じさ。体内に吸収されると きには、ブドウ糖に分解されるんだ」 いつも伸昭は、そんな理屈めいたことを言う。 「給料安いからさぁ」が、最近の伸昭の口癖だった。 みさ子は一度、伸昭のアパートに行ったことがある。会 員制のクラブ⑪だとかいう建物の横の急な坂を下り、病 院の横の路地を入ったところの、二階建てのアパートの 三畳一間の部屋。それは、確かに今にも目黒川にのまれ そうな、家賃の安そうなアパートだった。「この前、その角にあった中華料理店が雨で流され ちゃったんだぜ」伸昭は、笑って言っていた。それでも、以前は給料日にはいろいろなところに連れ てってくれたのに。みさ子は、友だちの麻里に相談したことがあった。 「それって、見込みないってことじゃない？ ほら、 男って、興味のない女の子にはお金かけないって言うし」 電話の声の妙なそっけなさが悲しかった。それ以来、 その言葉が心のどこかで気になっていた。「今度の誕生日、どこかに行きたいの……」 日曜日のデートを誘ったのは、みさ子の方だった。女 の子にとって誕生日が特別な日だってことくらい、どん なに鈍感な男だって知っている。どこに連れて行ってく代官山駅れるかで、みさ子は試すつもりだった。待ち合わせの場 所だってちょっとは期待していた。それが、恵比寿駅の見おろせるファーストフードだな んて。いやな予感がして、みさ子は注意深く服を選んだ。 「やぁ、お待たせ」待ち合わせの時間に、伸昭は少し遅れてやってきた。 「おれ、腹減っちゃった。ちょっと早いけど、ここで 昼メシすませちゃおうぜ」「やっぱり……」悪い予感が当たっていることを、み さ子は確信した。店を出ると、伸昭は代官山方面に向かって歩き出した。 いつも行列のできているラーメン店⑫、向かいの寿司店 ⑬、見慣れた景色は変わらないけれど、二人の気持ちは 変わってしまったのかもしれない。また、悲しい気持ち がこみあげてきた。伸昭と行ったいろいろな場所が、目の前を通り過ぎて 行く。田舎屋風の造りの信州そば店⑭、白と黒のバイク が可愛い小路のアイスクリーム店⑮。「そうだ、テニスのラケット取りに行くのつきあって くれる？ ガット頼んであるんだ」やっぱり、ガットはまだできてなかった。「明日にすれば」「いや、すぐだから待ってる」「わたし、この先のアンティックショップ⑯にいる」 二十分ほどで伸昭はやってきた。「行こうか。どこに行く？」「どこでもいい」本当にもうどこでもよかった。代官山にある古びたアパート⑰への道が、いつもの デートコースだった。伸昭と初めてキスした陽のあたる 小さな公園、みさ子にとって思い出深い場所だった。 「このアパートも、もうじき取り壊されるんだって」 伸昭が、ポツリと言った。ブランドものの服を着た小さな子供の手を引いた親子 連れが、階段を下りて行く。そんな光景が、みさ子にとっ てあこがれだったのに。クリスマスグッズの店⑱をのぞきながら、みさ子は、 楽しかった昨年のクリスマスのことを思い出していた。 ヒルサイドテラスにあるケーキ屋⑲で買ったフルーツ いっぱいのケーキ、渋谷方向に少し歩いたところにある 教会のデコレーション、そして、その隣の一軒家のレス トラン⑳でキャンドルの灯の中で飲んだワイン、そのす ベてが、なぜか遠い思い出のように感じられる。 中目黒駅へ向かう坂の途中の中華料理店㉑を通り過 ぎ、二人は、ガード下の屋台料理の店㉒で夕食をとった。 微かな電車の震動は、みさ子の気持ちをこれ以上なく揺 らしているかのようであった。二人は、代官山から渋谷方向に少し歩いて、旧山手通 りに面した高台の公園にいた。公園の芝生の向こうに、 都会の明かりが静かに輝いていた。「実は……」伸昭が、重そうに口を開いた。みさ子は、最悪の言葉を予想した。「何も誕生日にそん なことを告げなくたって」そう思うと、涙がこみ上げて きそうになった。「実は、俺、今度、つくばへ転勤することになったんだ。だから……」「……」「だから、是非、君にも一緒に来て欲しい」「えっ」みさ子の戸惑った顔をのぞき込むようにしながら、伸 昭はポケットの中から小さな包みを取り出した。「お誕生日おめでとう」 包みの中には、小さなダイヤの指輪が入っていた。店主がテニス仲間の、郵便局の隣の宝石店で、何とか値切っ て買ったものだった。「安月給のくせに」「いいのさ。一緒に来てくれるね」みさ子は、小さく頷いた。ふと、大粒の涙がこみ上げてきた。今度は、涙を止め ることはできなかった。(反応制御研究部)①ウェンディーズ②金材技研③ Chez Lui④常盤木⑤アントニオ⑥ガーデン・プレイス⑦地獄ラーメン・ひょっとこ⑧たつや⑨ル・プレジール⑩プノンペン⑪Q. E. D.クラブ⑫香月⑬魚がし寿司⑭なゝ樹⑮ドナテロウズ⑯温故知新⑰同潤会アパート⑱クリスマスカンパニー⑲ラ・ポムヴェール⑳レストランテベリータ㉑花壇㉒圓山思い出の写真— 193 —建物配置図敷地面積45,231m2建物面積19,528m2建物延面積37,063m210.正門,守衛所14.管理棟16.特高変電棟20.第2工作棟21.設備倉庫22.溶解,加工,熱処理実験棟22-B製錬,工業化実験棟23.小型溶解,加工実験棟24.物理,機能,エネルギー,金属加工,工業化実験研究棟25.実験棟26 ・低温実験棟27.食 堂28.実験棟30・化学,腐食,溶接,粉末治金実験研究棟31.材料強さ,金属加工実験研究棟34.第1工作棟35.製錬研究棟36. RI実験棟50.クリープ試験研究棟51.疲れ試験研究棟81.廃液処理室(注)建物に付した数字は 庁舎番号を示す。61.3 .31現在構内から正門を望む(S34年)14号庁舎建設予定地(S35年)24号庁舎屋上から正門を望む(S58年)変電所前の「盆景」(S35年)22号庁舎前の桜(S58年)風で飛んだ通路の屋根(31号～34号間)14号庁舎前(H 3年)14号庁舎2階から24号庁舎を望む(H 3年)靖心寮(H 3年)24号庁舎屋上から見た50、51号庁舎材試地区から見た24号庁舎31号庁舎二階(右の扉は旧所長室)古き良き時代の室名標示板海軍研究所当時の消火栓マンホールの蓋に歴史の面影科学万博に使用した壁画(古代エジプトの墳墓の内部に描かれている壁画の中から金属に関係のある部分を集めて模写し作製した もの、たて1.6m×よこ2.8m、模写:画家の川村克彦、田中幸広氏、企画:写真家の仁田三夫氏および、 当所職員羽多野毅、雀部謙)第1回バドミントン大会表彰式(S36年)所内一般公開に人の波(S49年)防災訓練(S62年) 文化祭テニス大会 テニスコートにナイトゲーム設備(S62年)恵比寿ボール 夢の島運動場バレーコート教養室 大会議室会議室 目黒中央体育館レクリエーションの一駒金材技研雪景色(S 63年4月の大雪)目黒川の洪水、30号庁舎裏 (S56年)目黒の富士塚目黒元富士 文化9年(1812)丸旦講築造目黒新富士 文政2年(1819)山正広講築造 上)目黒新富士 山と眺望(広重画)左)名所江戸百景目黒元不二(広重画)目黒郷土資料室資料から転載「地図使用承認©昭文社第95E034号」目黒清掃工場の煙突から見た風景(上方が中目黒方面・手前中央が金材技研、右上隅は新宿高層ビル群)(学芸大学方面・中央下の道路は山手通り)(自由ヶ丘方面・左下は山手通り)(目黒方面・右の川は目黒川)ガーデンプレイスからの眺望(中央の煙突付近が金材技研)国際電々屋上から見た金材技研(S53年)地下鉄恵比寿駅南出口地下鉄恵比寿駅J R前出口材試屋上からの夕景(S50年)中目黒駅蛇崩川緑道 目黒川の桜田楽橋横の目黒川船着場跡権之助坂 別所坂目黒不動サレジオ教会 大月寺目黒区民センター目黒川遊歩道目黒通り権之助坂祐天寺蛸薬師烏森神社 行人坂標示板アフターファイブ恵比寿編(1)アフターファイブ 恵比寿編(2)アフターファイブ 中目黒編(1)アフターファイブ 中目黒編(2)年 表eyay)—221 —年 表○印は研究所界隈の出来事35 34 33 32昭和31年号・科学技術週間始まる(所内一般公開)・30号庁舎竣工・理容室開設・創立記念野球大会開催(国分寺・八幡グランド)・大蔵省から土地・建物所管換・24号庁舎竣工・ 7月4日100kgプラント修祓式・初の所内研究報告会開催・レクリエーション大会始まる(ハゼ釣り、テニス)・医務室開設・職員バッチはい用開始(鈴木敏之氏のデザイン)・和文研究報告書創刊・11月2日、運動会開催(目黒区東山小学校)・食堂開設(31号庁舎)・ 7月20日開所披露式 ・金材技研ニュース創刊 ・金材技研要覧創刊・7月1日科学技術庁の付属機関として設立(科学技 術庁内に仮事務所を置く)・橋本宇一初代所長就任・ 11月、中目黒に移転、管理部および四研究部で発足建物・主な行事・出来事・我国初のX線マイクロアナライザーの設置および電 子ビーム溶接機3kWの試作。金属への応用面で先頭 をきる・鉄及び珪素鉄巨大単結晶製造法を確立主な研究成果等・日米安保条約調印・カラーテレビ本放送開始・チリ地震、三陸地方に大津波・皇太子殿下ご成婚・ソ連月ロケット発射・伊勢湾台風死者・行方不明5 千名をこす・南極基地の樺太犬越冬生存・東京タワー竣工・売春防止法施行・狩野川台風・阿蘇、三原、浅間山爆発・一万円札発行・人工衛星スプートニク1号打 上げ成功・東海村に初の原子の火・五千円札・百円硬貨発行・日本国連加盟・マナスル登山隊初登頂・銀座の工事現場で小判203枚発 見社会の出来事40 39 38 37 36年号・材料試験部発足・外国人研修生受入・ 3月靖心寮建設される・35号庁舎、36号庁舎竣工・日本第一号EPMA納入・バレー部総理府大会優勝。全盛期はじまる・第一回スキーバス運行・クリスマスパーティ開催・22号B、30号A、26号の各庁舎竣工・創立五周年記念式典・富士五湖バスハイク・第一回バドミントン、バレーボール大会開催建物・主な行事・出来事・我国初の500kV透過型電子顕微鏡を開発。金属・合金 の塑性的物性研究に大きく寄与・熱発電素子を開発。廃熱利用に期待される・液体噴霧法による金属粉末製造装置を開発・超電導材料開発研究開始・原子炉用材料の動水腐食試験開始・ニトンMBCキュポラ設置主な研究成果等・米・ソ宇宙遊泳実験・米・ベトナムで北爆開始・朝永振一郎、ノーベル物理学 賞受賞・国鉄「みどりの窓口」開設・東海道新幹線開通・東京オリンピック開催・新潟大地震、石油タンク火災・東京の水不足深刻化○地下鉄日比谷線中目黒に乗り 入れ・原研原子力発電開始・ケネディ大統領暗殺・黒部第四ダム完成(高さ186m)・新千円札発行○中目黒小学校大火・北陸トンネル開通・高度成長政策の実施・東京都の人口 一千万人突破・ソ連有人衛星ボストーク1号 地球一周後に回収・日本初の三段式ロケット発射社会の出来事46 45 44 43 42 41・創立十五周年記念式典・創立十五周年記念講演会・職員会から職員組合へ・ 6月15日皇太子殿下ご視察・51号庁舎竣工・野球部東京都大会一部で三位・ 6月1日河田和美所長就任・創立十周年記念式典・創立十周年記念講演会・職員有志による文化祭開催・14号庁舎竣工、50号庁舎竣工・V3Ga超電導多芯線を開発(ブロンズ法発明)・超電導マグネットへの道を開く・核融合用材料研究開始・流動還元実験開始・高速増殖炉用バナジウム合金の研究開発開始・プラネタリーミル設置、圧延特性解明研究開始・三段樋型連続製鋼技術の開発・各種クリープ試験設備一、一〇〇台整備完了・沖縄祖国復帰・成田新空港反対闘争・全日空機と自衛隊機衝突・大阪万国博覧会開催・「よど号」ハイジャック事件・三島由紀夫割腹自殺・都心で歩行者天国始まる・人類月面に第一歩・原子力船「むつ」進水・東名高速道路全線開通・小笠原日本に復帰・郵便番号制スタート・川端康成、ノーベル文学賞受 賞・三億円強奪事件○山手通り立体交差・羽田空港ビルで時限爆弾 ・四日市ぜんそく患者訴訟 ・百円、五十円白銅貨発行 ・ミニスカート大流行 ○別所坂崖崩れ・ソ連のロケット初めて金星到着 ・航空機事故続発(全日空機羽 田沖で墜落・カナダ航空機羽 田で炎上・BOAC機富士山 墜落・全日空YS11機松山沖 で墜落)51 50 49 48 47年号・創立二十周年記念式典・創立二十周年記念講演会・筑波分室を新設・特殊雰囲気棟竣工・中学生のための金属教室スタート・ 4月1日荒木透所長就任・超電導棟竣工・靖心寮建て替え・本庁との人事交流始まる(永田徳雄氏)・他省庁予算による研究に参加・オイルショックにはじまる電力使用規制、電力等節 減対策委員会設置・第一回ソフトボール大会・レクリエーション大会実行委員会、バスハイク(小 田急花鳥公園)とボーリング大会を実施 ・ 7月1日「ざいけん」創刊建物・主な行事・出来事・17.5テスラの超電導マグネット開発・懸濁電極による金属電解製錬法開発・スカイラブによる宇宙材料実験行われる・原子炉製鉄用超耐熱材料の大気・Heガス雰囲気中に おける一千度Cクリープ試験開始 ・各種疲労試験設備七十六台整備完了 ・大型プロジェクト「原子力製鉄技術」に参加・国産高温用金属材料クリープデータシート刊行開始主な研究成果等・ ロッキード事件・米、バイキング2号火星へ軟 着陸・鹿児島で五つ子誕生・酒田市の大火・沖縄海洋博開催・山陽新幹線博多まで・六価クロム公害問題化・米・ソ連宇宙船ドッキング成功・小野田少尉、ルバング島から 帰還・三菱重工ビルで時限爆弾爆発 ・台風16号で多摩川64年ぶりに 決壊・佐藤前首相、ノーベル平和賞 受賞○三田用水廃止・石油ショック・ベトナム戦争終結・交通ゼネスト・江崎玲於奈、ノーベル物理学 賞受賞・狂気の連合赤軍、浅間山荘事 件・高松塚古墳で極彩色壁画発見・日・中国交樹立・札幌冬季オリンピック・上野動物園にパンダ登場社会の出来事58 57 56 55 54 53 52・研究談話室開設・皇太子殿下ご一家とテニスを楽しむ(つくば)・10月12日、中川龍一所長就任・構造材料棟竣工・第二次長期計画策定・創立三十五周年記念式典・創立三十五周年記念講演会・グループ制導入される・特殊材料棟竣工・筑波支所開設(三研究部移転) ・第一次長期計画策定・研究本館竣工・ざいけん会設立・サッカー部、東京都官庁選抜サッカーリーグで優勝・筑波支所一般公開始まる・高性能金属微粒子磁性流体を開発・水中プラズマおよびフラッシュ溶接法開発・極低温疲労試験装置完成。液体ヘリウム温度での評 価試験開始・ Ti添加Nb3Sn極細多芯線開発・モリブデン巨大結晶製造法開発・活性プラズマを用いた金属超微粒子製造技術を開発 ・ 350kgf/mm2級マルエージ鋼を開発・材料強度データシート資料刊行開始・高性能水素貯蔵材料Fe-Ti-O系合金開発・国産実用材料の基準的疲れ強さデータシート刊行開 始・ムーンライト計画に参加。複合発電用Ni基超耐熱合 金の開発を分担・日本海中部地震(秋田沖)・三宅島噴火・大韓航空機サハリン沖で撃墜・日本初の実用静止通信衛星を 打上げ・東北新幹線、上越新幹線開業・日航機羽田沖で墜落・ホテルニュージャパン火災・五百円硬化発行・神戸ポートピア開幕・福井謙一、ノーベル化学賞受 賞・北炭夕張炭鉱ガス惨事 ○豪雨による目黒川溢水・イラン・イラク戦争勃発・モスクワオリンピック、ボイ コット・東京サミット開催・日本坂トンネル事故・新東京国際空港(成田)開港・宮城県沖地震・英国で試験管ベビー誕生・日航機ハイジャク事件 ・漁業海域200海里宣言 ・青酸コーラ事件平成元 63 62 61 60 59年号・ 6月27日、新居和嘉所長就任・ 2月10日、土地対策閣僚会議で移転先地を筑波研究 学園都市とすることで了承・フェローシップ制度による研究員初来日・筑波支所開設十周年記念式典・第三次長期計画に基づく組織改正・筑波移転推進室発足・7月19日移転対象機関として閣議決定 ・日・アセアン技術協力研修生来所始まる ・「図解金属材料用語辞典」発行・外国人研究員をはじめて採用・第三次長期計画策定・創立三十周年記念式典・創立三十周年記念講演会・記念出版「金属系新素材」・工業用循環水廃止・国家公務員定年制導入・職員組合主催の文化祭開催建物・主な行事・出来事・超精密磁界マグネットおよび80テスラ級パルスマグ ネットシステム完成。極低温物性研究に威力を発揮 ・高温動作型PbS系中赤外線半導体レーザー開発 ・静止型磁気冷凍機開発1.8K達成・金属間化合物Ti3Al一方向疑固材で顕著な引張性を 発見・世界で初めて遷移温度が100Kを越えるビスマス系高 温超電導物質発見・超電導材料研究マルチコアプロジェクトの開始・十万時間のクリープ強度実証データ集の刊行開始・室温延性を示す軽量耐熱金属間化合物Ti-Alを開発・自己修復性極高真空機器用材料を開発。極高真空利 用の道を開く・18.5ステラの超電導マグネットを開発・軽イオン照射クリープ試験装置完成。本格的な照射 クリープ試験研究開始・合金設計法を用いて世界最強のNi基単結晶合金お よび塑性加工に適した高強度耐熱チタン合金を開発 ・磁気冷凍用希土類ガーネット単結晶育成に成功主な研究成果等・昭和天皇崩御、平成となる・消費税実施・ベルリンの壁崩れる・参院選で与野党逆転・リクルート疑惑発覚・青函トンネル開通・瀬戸大橋開通・国鉄分割民営化・朝日新聞社襲撃事件・年金法改正一元化スタート ・チェルノブイリ原発事故 ・スペースシャトル爆発事故 ・国技館39年ぶりに蔵前から両 国に移転・つくば万博開催・公社民営化(電々・たばこ)・日航ジャンボ機群馬県山中に 墜落・メキシコ地震・コアラ多摩動物園で一般公開・三井三池炭鉱有明鉱惨事 ・世田谷区でケーブル火災 ・長野県西部地震・江崎グリコ社長誘拐事件社会の出来事5 4 3 2・筑波千現地区及び柴崎地区に新施設完成・強磁場ステーションを新設・フレックスタイム制度実施・第四次長期計画策定・週休二日制実施・特高変電所カラスによる短絡事故で全停電・筑波起工式・筑波移転推進本部発足・夏季休暇制度実施・創立三十五周年記念式典・創立三十五周年記念研究発表会・特別研究官を新設・大口径超電導マグネット500mm径の空間に21.5テスラの 磁界発生・極低温疲労試験、積算一万時間突破・膜厚300Åのビスマス系超電導薄膜の合成に成功 ・スペースシャトル・エンデバー号で宇宙材料実験。 良好な大型InSb単結晶作成に成功・金属の完全非接触溶解装置を開発(2.3kgのチタンの 浮遊溶解に成功)・液滴エピタキシャル法を用いてバリウム砒素O次元 材料作成に成功。スーパーアトムや量子井戸箱の実 現に近づく。・レーザー超音波技術による材料の非接触評価技術の 確立。高温における欠陥の検出、微小領域の材料評 価に道を開く・超清浄空間中搬送システムを開発・対話型材料強度評価システム(PIMS)を開発。材料 強度に関する膨大な量のデータと知識を利用・材料照射損傷その場分析、評価装置(サブナトロン) の製作開始・ビスマス系酸化物超電導体のテープ化に成功・光励起精錬法による希土類金属の高純度化に成功 ・有望なSoxセンサー素子(超イオン伝導性固体電解 質)の合成に成功・NRIM—JICST金属材料強度データベース完成。オ ンラインサービスを開始・高強度、高導電Cu—Ag合金材料を開発。強磁場マグ ネット材料として有望・皇太子殿下ご成婚 ・北海道南西沖地震 ・ゼネコン汚職・PKO協力法施行・佐川献金疑惑・エンデバー号打ち上げ(毛利 さん宇宙飛行士として日本人 初の宇宙飛行)・バブル経済崩壊・ソビエト連邦解体・礼宮様と紀子様ご成婚・東西ドイツ統一・ゴッホ、ルノアール名画日本 人落札・生体肝臓移植手術7 6年号・6月30日筑波研究学園都市に移転完了・7月1日、筑波研究学園都市にて新たなる研究活動 開始・極限場研究センターを新設・材料試験事務所を新設・五研究グループ、九研究部、二ステーションに組織 替え・1月20日筑波施設披露・目黒から筑波へ移転開始・企画室を新設・目黒の早咲き桜の苗木を筑波千現地区に移植建物・主な行事・出来事・40テラス級ハイブリッドマグネット設置、試運転開 始主な研究成果等・阪神大震災・地下鉄サリン事件・関西空港開港・大江健三郎、ノーベル文学賞 受賞・西日本記録的渇水・向井さん日本女性として初め て宇宙飛行・松本サリン事件社会の出来事「目黒の思い出をのこそう会」の思い出田中千秋準備に六年、実施に三年、足かけ九年を費やし、平成 七年六月末日をもって目黒本所は筑波研究学園都市への 移転が完了しました。目黒地区において心に残る写真等 を保存すべきではないかという声が上ったのは、この移 転話が進行していた昭和の終りの頃です。自然発生的な この声により、年号が代った平成元年十二月五日に、「写 真等保存会(仮称)」の発足準備会がもたれました。 これが「目黒の思い出をのこそう会」の始りで、平成 二年一月十二日に第二回準備会が開催され、会の正式名 称ができ、メンバー、活動方針、タイムスケジュール等 が決まりました。そして同年一月三十日の所議において、 会の活動が公認されました。金材技研の今日までについては、事務関係の記録や年 報、研究報告集、ざいけん等のオフィシャルな記録によ り知ることができ、また、職員組合の機関誌「ふいご」に よっても一面を知ることができます。さらに、筑波移転関 係については筑波移転管理室によって、後日、移転事業 に関する全記録が収集・刊行されることとなっています。 しかしながら、これらに収録されていない、されない、 心あるいは形とし残っている思い出も貴重な財産です。 そのような財産をできるだけ残しましょうというのがこ の会の主旨です。思い出は記念出版物に収め、写真、ビ デオ、録音テープ等の資料や記念物品を収集・保管することにしました。会の構成メンバーは別表のとおりです。これには四つ のワーキンググループが設けられています。記念出版班 (リーダー、雀部謙氏)、写真班(リーダー、鈴木俊一氏)、 ビデオ・音班(リーダー、魚津良雄氏)及び記念物班(リー ダー、植竹一蔵氏)です。記念出版班の努力と写真班の 協力によって今皆様が御覧になっている本書が上梓され ました。また、写真班、ビデオ・音班及び記念物班の活 動によって、例えば、材料試験施設地区の建設写真集、 連続製鋼の実験8mmフィルム、手動式タイガー計算機を はじめとする各種遺物的実験機具類、目黒本所正門の門 札等々の思い出深い品々が集められています。現在もぼ つ〱と記念物が集まっていますので、整理して保管す ることにしています。各メンバーには、貴重な時間を割 いて出来得る最大の努力をして戴き、私としては感謝あ るのみです。思い出原稿の依頼、記念物品等の提出は、平成二年三 月(第一回)及び平成五年一月(第二回)に行ったアン ケート調査(目黒本所、筑波支所の全職員及び職員OB) の結果に基づいております。それでは自薦、他薦式を主 体としておりますので、これはという方の思い出話がな かったり、また、これぞ記念物というものが抜けている かもしれません。この点は御了解戴きたいと存じます。会の運営を進めて行った中で、特に心に残っているこ とを述べさせて下さい。本書の中で、大島一男さんが、 巡洋戦艦「金剛」(三万二千トン)に塔載された英国ビッ カース社製の大型ボイラ(一九一一年製造、目黒本所22 ——A棟設置)のことを記しています。これは由緒あるも ので、廃棄するのはあまりにも忍びないということで、 秋山武久庶務課長(当時)が防衛庁への移管による保存 を試みて下さいました。平成四年六月に、防衛庁海上幕 僚監部総務課長、海上自衛隊第2術科学校資料課長ほか の御一行が来所され、ボイラを視察されました。その結 果、当所のボイラは、海上自衛隊に記念物として保管し ているボイラと全く同一のものと判明致しました。その 後、防衛庁から移管できない旨についての鄭重かつ長文 なるお手紙を頂戴しました。その他の機関にも移管を打 診してはみましたが、引取って下さるところはなく、残 念ながら、金剛ボイラとはお別かれとなりました(写真 及び銘板は保管)。ざいけん誌で新入所者が述べる当所についての第一印 象は、異口同音に「都心にしては静かで緑の多いところ ですね」です。この緑を筑波に持って行こうという「樹 木の移植について考える会(会長吉松史朗氏)」が平成元 年二月に発足しています。この会によって多くの思い出 深い樹木が移植候補として挙げられました。しかしなが ら、いろ〱な制約によって、実際に移植されたのは、 橋本初代所長の記念樹「月桂樹」と河田第二代所長の記 念樹「木斛」のみとなってしまいました。 この考える会とは別に、思い出をのこそう会としては、 14号管理庁舎東側土手の早咲き桜は職員皆様の目に焼き 付いている銘木であろうとの認識から、これを何とかしようということになりました。幸い所内には花木に造詣 の深い山縣敏博さんと西田勲夫さんが居られましたの で、相談を持掛けました。お二人の四年間に及ぶ御努力 により、早咲き桜の取り木一本と継ぎ木七本を筑波千現 地区に移植することができました。そもそも早咲きの原 因は、管理庁舎の絶えざる燈火と地中の温水管だから筑 波に移植しても早咲きにはならないよ。と威されていま した。しかし、移植した桜ちゃんは、早春、目黒の親桜 と同時にちゃんと早咲きしてくれました。十年二十年後 には、金材技研の早咲き桜として名物になって欲しいも のです。前に述べましたように記念物品も相当集まっておりま す。これらの展示の一手段として、筑波千現のプラザに ある小川の底にモ ニュメントを埋込むことも検討しまし た。これは移転推進室の発案ですが、アートに対する埋 込物の調和の不具合等もあって実現には至りませんでし た。記念物というのは四十年前のものもあり、また、今 日から記念となる物もある筈で、展示という観点からの 対応は、現時点ではペンディングとしたいと思います。 職員諸氏におかれては、新発見、新開発等に係わって形 として残りそうなものは極力残すよう心掛けて欲しいと 思います。将来、ある時期にそれらを整理して展示する ことを所として考慮してもらうことを願 っています。 目黒の思い出をのこそう会は、本書の発刊をもって一 応の区切りを付け、解散となります。ここに本書の原稿 を執筆された方々をはじめとし、多年に亘り本会の活動 に御尽力下さったOB及び職員の関係者の皆様に厚く御 礼申し上げます。(「目黒の思い出をのこそう会」会長)14号庁舎裏の早咲桜「目黒の思い出をのこそう会」構成メンバー網代映由植竹一蔵丹野 忠本多均一平戸和子魚津良雄佐藤守夫宮崎昭光鈴木俊一坂本正雄二瓶正俊原田幸明岡本昌明鈴木フミ雀部 謙八木澤孝平福田 豊新井 隆田中千秋氏 名記念物班記念物班リーダービデオ・音班ビデオ・音班ビデオ・音班ビデオ・音班リーダー写真班写真班写真班リーダー記念出版班記念出版班記念出版班記念出版班記念出版班記念出版班リーダー副会長副会長→顧問副会長→顧問会長 備 考横山治良安藤忠志太田吉克石井治夫秋山武久永田義孝大根田正喜北原宣泰中川 巧和田尚之園田秀人蓑口正雄谷治治男福島崇文木原 實渡辺健二佐藤 司山本重男土方政行氏 名顧問顧問総括総括→顧問総括→顧問総括→顧問事務局→顧問事務局→顧問事務局事務局事務局事務局事務局事務局→顧問事務局→顧問筑波支所連絡委員記念物班記念物班記念物班備 考編集後記さまざまな思いを綯い交ぜて筑波移転が完了し、一足遅れて「目黒の思い出」が刊行の運びとなりまし た。原稿をお寄せいただいた方々に、まずお礼を申し上げます。編集の都合上、文意を損なわないよう配慮 しつつ、編集委員会において修正させていただいた部分がありますことをご了承ください。 テーマはアンケートをもとに編集委員会で選択・整理しましたが、執筆者には取り立てて注文を付ける ことなく自由に書いていただきました。したがって、思い出の捕え方や筆の走り方もさまざまで、一見、 脈絡のない個々の思い出の羅列のようにもみえます。しかし、全体を通して読むと、そこには金属材料技術研究所の歴史が見えるだけでなく、良きにつけ悪 しきにつけ、日本の歴史のある時代を生々しく生きてきた「現場」の人々の様子が如実に描かれているの を読み取ることができるのではないかと思います。公式の記録に残らない歴史という意味ではたしかに裏面史ではありますが、少し粋がった言い方をす れば、歴史を作る人々の記録、生身の生活の記録であり、ある意味ではこちらの方が正史と言えるのかも しれません。文字どおり頭の痛くなるような編集作業をしながらの感想です。 ご協力いただいた多くの方々に、あらためて感謝いたします。〈出版班リーダー雀部 謙〉目黒の思い出 発行 科学技術庁金属材料技術研究所 茨城県つくば市千現一——二——一 電話〇二九八——五三——一〇〇〇 発行日 平成七年十月一日 印刷所前田印刷株式会社Ea noeaati seeps SoS & repens <j = iat = Ses Repth pena sa ns NRE Se BA tests - : Se eee anaes < = aeSo SR agcastioe aeons oe ear ee ORAM Sethe Sener ore fae | sae einer cone es = at SI ICE rae EEE eee = mae ein Sst 2 : =% : = = ~ eee neat Se ee a ESSian genie a pane Sarco Sob Sie: ep og rN oe sere eit